説明
佐伯は地方都市の配送センターでバイトをしながら、夜は「告発者」を装いネット上でターゲットを炎上させる日々を送る。彼は「無敵の人」というネットの幼稚なデマを信じ込み、ある中堅食品メーカーの異物混入捏造デマを拡散し、株価暴落を楽しんでいた。 しかし、自宅に一通の「発信者情報開示に係る意見照会書」が届く。佐伯はそれを「名誉ある戦いの招待状」と誤認し、増長してさらに執拗な攻撃を重ねるのだった。
エピソード1
湿った段ボールの臭い。古い糊と、誰かの体臭が染み付いた軍手の感触。
佐伯亮介の「昼」は、そうした無機質なしなびた感覚に塗りつぶされている。
地方都市の郊外。巨大な墓標のようにそびえ立つ物流センターの地下で、彼はひたすら流れてくる箱を仕分けていた。午前九時から午後五時まで。時給1200円。休憩は一時間。
「おい、佐伯。そこ、溜まってるぞ」
自分より十歳は若かろう、リーダー格の男が顎で指図する。金髪を雑にまとめ、安っぽい銀のネックレスを揺らしたその男にとって、佐伯は名前すら正確に覚える価値のない「記号」に過ぎない。
佐伯は何も言わない。ただ、背中を丸め、泥の詰まった排水溝のような深々とした辞儀を返し、再び手を動かす。返事をするための呼気さえも、この場所ではコストの無駄だった。
周囲のバイトたちは、互いに昨夜のテレビ番組や、パチンコの戦績について語り合っている。彼らの言葉は佐伯の鼓膜を滑り落ちていく。まるで言語の体をなしていない、猿の鳴き声と同じだ。
(せいぜい、その薄っぺらな平穏を貪っていればいい)
軍手の中で指がかすかに動く。キーボードを叩くときの、あの滑らかなリズムを求めているのだ。
この物理的な世界において、佐伯亮介は無価値な塵に等しい。誰からも尊敬されず、誰からも愛されず、老いた両親からも「まだあんなことをしているのか」と匙を投げられた存在。
だが、彼らは知らない。
この猫背の、冴えない中年男の頭脳が、夜にはどれほどの火力を生み出すのかを。
帰路、西友の入り口で足を止める。
自動ドアから吐き出される冷気。惣菜コーナーから漂う、酸化した油の臭い。佐伯は迷わず、ワゴンセールの棚へと向かった。
そこには、ラベルが少し剥がれかけた輸入ビールの缶が並んでいる。半額のシール。一本、115円。
(妥当だ)
佐伯は冷徹な計算機のように、その値段と自分の残高を照合する。彼にとって食費の節約は、単なる困窮ゆえの行動ではない。社会という巨大なシステムに対し、自分がどれだけ「損をしていないか」を確認するための聖なる儀式だった。
レジで小銭をぴったりと出し、店員と目を合わせることもなく店を出る。
アパートまでの道すがら、街灯の下を歩く人々の背中を眺める。家族連れ、恋人同士、酔客。彼らは皆、明日という日が今日と同じように続くことを疑っていない。その無防備さが、佐伯には滑稽でならなかった。
築30年の木造アパート。六畳一間の「神殿」。
部屋の中には、家具らしい家具はない。あるのは、部屋の片隅に鎮座するL字型のデスクと、その上に置かれた三枚のモニター。そして、床を這い回る蛇のような配線。
佐伯は儀式を開始する。
まず窓を閉め切り、遮光カーテンを引く。世間との境界を完全に断つ。
それから、複数のVPNサーバーを立ち上げ、海外の匿名プロキシを経由させる。デスクの引き出しには、それぞれ異なる名義で契約されたSIMカードが整然と並んでいる。
これが、彼の武装だ。
安ビールのプルタブを引く。プシュッという微かな音が、開戦の合図だった。
一口含んだビールは、鉄のような味がした。だが、それが喉を通る頃には、佐伯の意識はすでに「ここ」にはない。
モニターの青白い光が、彼の蒼白な肌に反射する。そこには、数多の匿名掲示板やSNSのタイムラインが、激流のような速さで流れている。
彼は「ジャッジメン」というコテハン(固定ハンドルネーム)を使い分けていた。
ネットの深淵において、ジャッジメンは審判者であり、指導者であり、そして破壊の神だった。
(さて、今夜の獲物は……)
情報の海を潜る。彼の指先は、獲物の臭いを嗅ぎ分ける猟犬のように鋭い。
数分後、指が止まった。
画面に映し出されたのは、中堅食品メーカー「日の出食品」の工場長・高梨のインタビュー記事だ。
数日前の経済系ネットニュース。50歳前後と思われる高梨は、作業服を正しく着こなし、カメラに向かって実直そうな笑みを浮かべていた。
『食の安全は、誠実さから始まります。私たちは、目に見えない微細な異物さえも許さない体制を整えています』
その言葉を読んだ瞬間、佐伯の口端が吊り上がった。
「誠実、か」
その言葉の響きに含まれる、裏付けのない健全さ。何の疑いもなく自分の正しさを信じ切っている者の傲慢。それは、佐伯が最も嫌悪し、同時に最も惹かれる「破壊の餌」だった。
高梨の表情を拡大する。額のしわ、わずかに疲労の滲む目元、背景に映り込む工場のライン。
佐伯の脳内で、パズルのピースが組み合わさっていく。
彼が必要としているのは、事実ではない。「真実らしい物語」だ。
彼はまず、日の出食品の過去の細かなトラブルを洗った。五年前の軽微な包装不良。三年前の配送遅延。どれも取るに足らない出来事だが、それらを一本の線で繋ぎ、その中心に「隠蔽」という毒を垂らす。
『【衝撃】日の出食品の元従業員だけど、質問ある?』
掲示板に、スレッドを立てる。
佐伯は「ジャッジメン」ではなく、現場で使い潰された名もなき弱者を演じた。彼にはその才能がある。昼間の配送センターで浴びせられる蔑みや、自分が感じている閉塞感を、巧みに文章へと変換していく。
『正直、もう限界だ。高梨工場長の指示で、先週からラインで異物混入事故が三件も起きてるのに、全部揉み消された。高梨は「誠実」なんて言ってるけど、裏じゃノルマのために破片入りの製品を出荷させてるんだよ』
文章は簡潔に。だが、現場の人間しか知り得ないような固有名詞――工場の休憩室にある自動販売機の種類や、高梨が履いている安全靴のメーカーなどを散りばめる。
信憑性という名の薄いベールが、嘘を真実へと変質させていく。
最初の十分、反応は鈍かった。
だが、佐伯は慌てない。別回線の端末から「証拠はあるのか」「また釣りかよ」といった懐疑的なレスを自作自演で投下する。疑わせることで、逆に議論を加熱させるのだ。
30分後、変化が訪れた。
「マジか……高梨のインタビューと矛盾してないか?」
「俺、日の出の製品、昨日食べたんだけど。ヤバい?」
静かな水面に投げ込まれた小石が、波紋を広げていく。
佐伯はさらに加熱させる。あらかじめ用意しておいた「捏造された報告書の画像」をアップロードした。それは、どこか別の企業の流失書類を切り貼りし、日の出食品のロゴを合成したものだ。スマホの小さな画面で見れば、誰も偽物とは気づかない程度の粗さ。
その「証拠」が出た瞬間、掲示板は爆発した。
スレッドの勢いを示す数字が、垂直に跳ね上がる。まとめサイトが情報を拾い、ツイッター(現X)へと拡散されていく。
23時を回った頃。
佐伯は別のモニターで、日の出食品のPTS(夜間取引)株価を表示させた。
画面のグラフが、音もなく折れ曲がった。
マイナス3%。5%。7%。
数千万、数億という企業の価値が、デジタルの闇に溶けていく。
自分の指先一つで、見知らぬ誰かの運命が書き換えられ、巨大な組織が悲鳴を上げている。
その感覚が、佐伯の脊髄を駆け上がった。
下腹部が熱くなる。射精にも似た、暴力的な快楽。
「動いている……」
独り言が漏れる。部屋の隅にある古い冷蔵庫が、ブーンと不快な音を立てて振動しているが、それすらも今は賛美歌のようだった。
昼間、自分を無視した世界が、今夜は自分の言葉に怯え、踊っている。
高梨という男は今頃、眠りの中にいるのだろうか。あるいは、突然鳴り出した電話に叩き起こされ、狼狽しているのだろうか。
どちらでもよかった。佐伯にとって、高梨は人間ではない。自分の「正しさ」を証明するための、安価な部品に過ぎないのだ。
深夜2時。祭りはピークを迎えていた。
ネット上では「#日の出食品の異物混入を許すな」というハッシュタグがトレンド入りしている。正義を盲信する群衆が、佐伯の用意したデマを燃料にして、炎を大きくしている。
彼らは自分が操られていることにも気づかず、善意の顔をして誰かの人生を破壊する加担者となっていた。
佐伯は最後の一口のビールを飲み干した。ぬるくなった液体が、喉に張り付く。
彼はふと、自分の手元を見つめた。
液晶に照らされた、ささくれ立った指先。
この指先一つで、何千人もの首を切ることができる。何万人の生活を脅かすことができる。
ふと、自分の中に芽生える「無敵感」を反芻した。
世間では、自分に失うものがない人間を「無敵の人」と呼ぶらしい。
佐伯は自室を見渡す。
安物の寝具。コンビニの空き容器。埃を被った大学の卒業証書。
ここにあるものすべてを奪われたところで、何一つ惜しくはない。
彼には守るべきキャリアもなければ、守るべき家族もいない。愛しているものも、信じている神もない。
権力者も、金持ちも、幸福な市民も、みんな「持っている」から弱いのだ。守らなければならないものがあるから、法に怯え、名誉にすがり、道徳という枷を自分ではめている。
だが、自分は違う。
自分はすでに、奈落の底にいる。ここからさらに落ちる場所などない。
だからこそ、誰よりも自由で、誰よりも高い場所に立てる。
佐伯は全ての通信を切断し、PCの電源を落とした。
急激に静寂が戻ってくる。闇の中で、自分の荒い呼吸の音だけが響く。
明日もまた、あの薄汚れた配送センターへ行かなければならない。屈辱に耐え、泥をすするようにして生きる「昼」が待っている。
だが、今の彼に苦痛はなかった。
この狭い六畳間は、安アパートの一室ではない。
世界を裁く、絶対的な神の玉座だ。
布団に潜り込み、目を閉じる。
まぶたの裏には、なおも鮮烈な光を放つ株価チャートが焼き付いていた。
自分が放った小さな嘘が、明日の朝にはどれほどの巨大な「真実」となって世界を飲み込むのか。
その想像だけで、彼は深い、深い安眠へと誘われていった。
高梨たちが、明日から始まる地獄に震えることも知らずに。
最新エピソード
空は、安物のプラスチックを熱で溶かしたような不透明な茜色に染まっていた。
佐伯亮介は、泥とコンクリートの粉塵
独房の空気は、冬の朝の氷のように澄み、そして鋭かった。
佐伯亮介は、冷え切ったコンクリートの床に正座し、刑務官から差し出された封筒を見つめていた。指先の傷跡はすっかり
独房の空気は、医務室のそれよりもさらに数度、低く感じられた。
佐伯亮介は、まだ微熱を孕んだ身体を引きずるようにして、コンクリートの床を踏み締めた。掌の傷は、ガーゼ越し
白い天井。
無機質な蛍光灯の光が、網膜の奥に薄く張り付いている。
佐伯亮介は、意識の混濁が引いていくのを、まるで干潮の波際を見つめるような静







