聖火隊黙示録〜鋼鉄の讃美歌〜
説明
正教会特務機関「聖火隊」は、祈りを歌に、歌を弾丸に変えて怪異を討つ精鋭部隊。旧市街に現れた冒涜者を前に、第九聖火隊は鐘、聖歌、聖別弾、神聖幾何学を重ねて戦う。だが敵は、正しすぎる祈りで仲間の声を塗り潰し、合唱そのものを壊していく。
陣形が砕け、死者が出る寸前の戦場へ現れたのは、銀髪と青い瞳を持つ少女、“第一聖歌”アンセム。彼女はたった一人で聖域を上書きし、冒涜者を一発で浄化する。圧倒的な救い。けれどその姿は、仲間と響き合うことを捨てた、あまりにも孤独な独唱でもあった。
地下本部で、隊長エリアスはアンセムに見習いシスター・セシリアを付ける。完璧な拍に紛れ込む、不器用で調子外れな二つ目の音。セシリアはやがて、第一聖火隊の古い記録から、黒髪で笑っていた昔のアンセム、彼女を支えた仲間たち、聖歌の師マティアス、そして病弱な少女エリスの記憶に触れていく。
最強の聖女は、なぜ一人になってしまったのか。失われた歌と、まだ語られていない悲劇の始まりが、静かに幕を開ける。
エピソード1

鐘が鳴っていた。
夜の旧市街へ、ひとつ、またひとつと、低く澄んだ音が落ちていく。
それは、大聖堂の塔から時刻を告げる鐘ではなかった。生まれた子を祝福する鐘でも、死者の旅立ちを見送る弔鐘でもない。
戦場へ持ち込まれた、銀製の携行鐘。
正教会特務機関「聖火隊」が、怪異討伐の際に用いる、祈りと殺戮の拍子である。
鐘の胴には、縦横の十字と、その交点を抱く円環が刻まれていた。
聖環十字。
正教会の祭服、聖堂、武器、聖別弾に共通して刻まれる紋章だった。
鐘音係のシスターが手首を返すたび、紋章の溝へ淡い光が走る。
澄んだ一音が石畳を伝い、煉瓦造りの壁を震わせ、路地を埋めていた黒い霧を押し返した。
霧は、風に漂う煙ではない。
音を嫌う生き物のように、鐘が鳴るたび軒下へ身を縮め、排水溝の闇へ爪を立てていた。
「第一小節を維持。前衛は半歩だけ詰めなさい。中心へは、まだ入らないで」
第九聖火隊隊長、シスター・カタリナが命じた。
声を張り上げる必要はなかった。
彼女の言葉は鐘と聖歌の隙間へ正確に差し込まれ、九名の隊員へ同時に届く。
黒い戦闘祭服の左肩には、聖環十字と数字の九が、銀糸で刺繍されていた。
第九聖火隊。
通常の教会騎士では対処できない怪異災害へ投入される、聖火隊の精鋭部隊である。
前方には、大型の聖盾を構えた聖堂騎士が二名。
その後ろに、回転式拳銃を携えた銃兵が三名。
左右には聖歌兵が一人ずつ立ち、中央後方には治癒と聖域の補修を担う支援役。
最後方では、鐘音係が全員の呼吸と拍を支えている。
誰か一人が強くても成立する戦いではない。
守る者。
歌う者。
撃つ者。
傷をつなぐ者。
拍を刻む者。
それぞれの肺と筋肉と祈りが、同じ一節の中へ収まった時、初めて聖火隊は一つの武器となる。
右側に立つ聖歌兵が、わずかに息を吸い損ねた。
若いソプラノだった。
緊張で胸郭が固くなり、第一音が本来よりわずかに高く出る。
隣のアルトが、声量を下げた。
音程を責めるのではない。
自分の声を彼女の高さへ寄せ、そこから二人でゆっくりと本来の旋律へ戻っていく。
完全ではない。
だからこそ、互いを聞いている。
二つの声が夜気の中で重なり、わずかな揺らぎを抱えたまま、一つのうねりへ変わっていく。
歌声を受け、祭服の襟と袖へ縫い込まれた銀糸が発光した。
銀刺繍は装飾ではない。
胸郭から発した振動を拾い、肩から腕へ、腕から指先へ、さらに隣に立つ者へと伝える音叉だった。
石畳に散っていた塵が動く。
先ほどの銃撃で排出された真鍮の薬莢。
煉瓦壁から剥がれ落ちた砂。
砕けた鉄柵から零れた鉄粉。
それらが誰にも触れられていないのに滑り出し、振動の弱い場所へ集まっていく。
円。
正三角形。
六角形。
中心を貫く十字と、それを抱く円環。
幾つもの形が重なり、花弁にも似た複雑な幾何学を描いた。
神聖幾何学。
それは異界から力を呼び出す魔法陣ではない。
乱されていた空間が、歌によって秩序を取り戻した結果である。
その中心に、一体の冒涜者が立っていた。
正確には、立たされていた。
かつては旧市街の文書聖堂で、禁書の管理を任されていた司書だったという。
几帳面な男だったと記録にはある。
古書の頁へ触れる前には必ず指を清め、破れた祈祷書を見つければ、夜を徹して補修した。
ある夜、男は封印書庫から一冊の書物を持ち出した。
理由は残されていない。
知識への渇望だったのか。
救いたい誰かがいたのか。
あるいは、書物の中から、自分の名を呼ぶ声を聞いたのか。
分かっているのは、男が地下書庫へ七日間閉じこもり、祈りを逆さに唱え続けたことだけだった。
今、その身体に人間だった頃の面影はほとんど残っていない。
全身を黒い聖衣に似た皮膜が覆い、背中からは砕かれた聖環十字のような骨が四本突き出している。
顔のあるべき場所に目も鼻もなく、頭部を縦に裂く口だけが開いていた。
裂け目から、濡れた声が漏れる。
「れわ救を、よ主……れわ救を、よ主……」
逆さまの祈り。
意味を持つために並べられた言葉を、故意に破壊した音だった。
耳から入るのではない。
声は胃の底へ直接落ち、冷たい指で内臓を撫でるように、隊員たちの身体を内側から震わせた。
若い銃兵が唾を呑み込む。
「聞き取ろうとしないで」
シスター・カタリナは冒涜者を見据えたまま言った。
「あれは祈りではありません。人の願いから形だけを剥ぎ取り、その内側へ泥を詰めたものです。こちらの声だけを聞きなさい」
鐘が鳴る。
前衛二名が、同時に一歩を踏み込んだ。
冒涜者の足元から、黒い文字が噴き上がる。
逆さまの聖句に似た無数の線が虫の群れとなり、石畳を這って聖堂騎士へ殺到した。
黒い奔流が盾へ激突する。
盾に刻まれた聖環十字が白く燃え上がった。
前衛二人の身体が腰から後方へ押し込まれる。石畳を踏み締めた踵が滑り、膝と肩の関節へ重い圧力が食い込んだ。
一人の右肩から、鈍い音がした。
関節が外れかけている。
それでも彼女は盾を下ろさない。
「圧力が上がります!」
「右肩で受けないで。左の盾へ重ねなさい」
二枚の盾が、わずかに傾いた。
聖環十字の円環が重なる。
腕へ集中していた衝撃が盾の縁から地面へ流れ、石床に描かれた神聖幾何学へ吸収されていく。
隣の騎士は何も言わず、ほんの数センチだけ立ち位置をずらし、負傷した側へ自分の体重を寄せた。
その小さな移動によって、二枚の盾は再び一つになった。
後方の支援役が片膝をつき、右手を石畳へ触れさせる。
袖から流れ出した淡い光が神聖幾何学の外周を走り、前衛の足元へ届く。
傷そのものを消す力ではない。
肩から腕へ集中していた痛みを胸郭と背筋へ分散させ、あと数分だけ盾を支えられるようにするための補助だった。
「右前衛、呼吸を三拍へ。痛みに合わせないで、鐘に合わせてください」
「了解……!」
負傷した騎士が歯を食いしばり、乱れていた呼吸を鐘の拍へ戻していく。
盾の光が安定した。
「銃兵、第二聖別。急がず、正確に」
三名の銃兵が同時に膝をつく。
まだ撃たない。
それぞれがポーチから一発の弾丸を取り出し、手袋を外した掌へ載せた。
弾頭には、肉眼でかろうじて判別できるほど微細な聖環十字が彫られている。
「主よ、我らの鉛に火を」
一人目が唱える。
「火に祈りを」
二人目が続ける。
「祈りに慈悲を」
三人目が結んだ。
息を吐くたび、弾丸の表面へ淡い光が満ちる。
銀を混ぜただけの弾丸では、強大な不浄を滅ぼせない。
恐怖を抱えた人間が、それでも撃つ理由を選び取った時にのみ、鉛は聖別弾となる。
「照準、中心より指二本分下」
シスター・カタリナが聖別剣を動かした。
刀身には、五線譜を思わせる五本の銀線が走っている。
剣であると同時に、部隊の旋律を整える指揮具でもあった。
「前衛、衝撃に備えて」
聖歌が一段高くなる。
支援役が幾何学の外周を固定する。
鐘音係が腕を上げる。
シスター・カタリナの剣先が落ちた。
「撃ちなさい」
三発の銃声が、ほとんど一つの音となって夜を裂いた。
青白い尾を引く弾丸が和音となり、神聖幾何学の節へ拘束された冒涜者の胸を貫く。
黒い皮膜の内側で光が膨らんだ。
冒涜者の上半身が仰け反り、背から伸びた骨の一本が砕ける。
骨片は地面へ落ちる前に灰となり、定常波の流れに沿って円環の外へ押し出された。
若い銃兵の口元に、安堵が浮かぶ。
シスター・カタリナは剣を下ろさなかった。
「歌を維持して」
「直撃です。核まで届きました」
「だからです。まだ終わっていません」
冒涜者の身体が前へ折れた。
肩が細かく震えている。
苦痛に耐えているようにも、泣いているようにも見えた。
やがて、頭部の裂け目から音が漏れた。
笑い声だった。
顔の中央にあった口が、さらに大きく開く。
その奥に、もう一つの口があった。
さらに奥にも。
濡れた歯を持つ小さな口が、喉の暗がりから次々と押し出されてくる。
黒い皮膜が裂けた。
胸に。
腹に。
腕に。
掌に。
指先にまで、無数の口が咲いた。
「変異を確認!」
「前衛、そのまま。銃兵は再聖別!」
無数の口が、同時に息を吸った。
シスター・カタリナは、それが何をしようとしているのか理解した。
「聖歌兵、耳を閉じては駄目!」
警告と、冒涜者の声はほぼ同時だった。
『主よ、我らを救いたまえ』
正しい祈りだった。
発音にも、旋律にも、言葉の並びにも、何一つ誤りがない。
大聖堂の朝の祈りで、幼い信徒が最初に教わるものと同じだった。
だからこそ、恐ろしかった。
そこには願いがない。
痛みもない。
誰かを救いたいという焦りも、自らが救われたいという弱さもない。
ただ正確で、ただ美しく、ただ完全なだけの祈り。
人間の声から、人間だけを取り除いた音だった。
無数の声が聖歌兵の旋律へ重なる。
低い声。
高い声。
幼い声。
老人の声。
男の声。
女の声。
すべてが同じ音程で、同じ息遣いで、同じ祈りを唱えている。
ソプラノの喉が震えた。
自分の声が、どれなのか分からない。
隣で歌うアルトの声さえ、冒涜者が生み出した完全な合唱へ溶けていく。
息を継ぐ位置が、一拍遅れた。
ほんのわずかな乱れだった。
だが、定常波にとって一拍は致命的だった。
石床の薬莢が跳ねる。
円の一部が崩れ、正三角形の頂点がずれた。
聖環十字を形作っていた中央の空白へ、黒い霧が細い指のように入り込む。
「私を見なさい!」
シスター・カタリナが剣を掲げた。
「敵の声ではない。隣の声を聞いて!」
アルトのシスターが、乱れたソプラノを支えようと声量を上げる。
肺へ深く空気を取り込んだ瞬間、冒涜者の祈りが、その開かれた呼吸へ入り込んだ。
声が濁る。
唇の端から血が流れた。
それでも歌うことをやめない。
彼女は隣の若いシスターの手を握った。
指先が震えていた。
その震えを感じることで、若いソプラノはようやく、無数の完全な声の中から、たった一つの不完全な声を聞き分けた。
仲間の声だった。
二人はもう一度、旋律を重ねようとした。
後方では支援役が、崩れかけた図形へ両手を押し当てていた。
円環の亀裂を光でつなぎ、ずれた頂点を元の位置へ戻そうとする。
だが、冒涜者の声が一つ増えるたび、指先から腕へ黒い文字が這い上がってくる。
「外周、維持できません……!」
「あと二拍だけ持たせて!」
シスター・カタリナが叫ぶ。
鐘音係が携行鐘を振る。
澄んだ音が一度響いた。
二度目は、冒涜者の祈りと重なり、歪んだ。
三度目。
鐘が割れた。
銀の胴に亀裂が走り、破片が石畳へ散る。
鐘音係の手には、細い柄だけが残された。
戦場の拍子が失われた。
聖歌が二つに裂ける。
神聖幾何学の花弁が崩れ、集まっていた薬莢が弾け飛んだ。
外周を支えていた支援役も衝撃に押し戻され、背中から石畳へ倒れ込む。
節から解放された冒涜者が、折れていた背をゆっくりと伸ばした。
黒い文字の奔流が前衛へ襲いかかる。
二枚の盾が同時に砕けた。
右肩を傷めていた聖堂騎士が壁へ叩きつけられ、煉瓦の装飾を背中で割る。
もう一人は、盾の破片を脇腹へ食い込ませながら片膝をついた。
銃兵の一人が、反射的に引き金を引く。
聖別を終えていない弾丸だった。
普通の鉛は冒涜者の肩へ穴を開けたが、黒い肉は弾丸を押し戻すように盛り上がり、傷口を塞いでいく。
「撃たないで!」
シスター・カタリナの声が飛ぶ。
だが、恐怖に指を奪われた銃兵は、さらに二発を撃った。
銃声が聖歌の残骸をかき乱す。
薬莢が転がる。
もはや、それらを秩序へ集める波は残っていない。
冒涜者の口が笑った。
『聞こえていない』
無数の喉から発せられた同じ言葉が、完全に揃って響く。
『お前たちの声など、天上の御方には聞こえていない』
「耳を貸すな!」
シスター・カタリナは叫んだ。
「祈りの答えを、敵に求めるな!」
黒い霧が前衛を呑み込む。
負傷した騎士を引き戻そうとした銃兵の腕へ、逆さまの文字が絡みついた。
皮膚の上を黒い聖句が這い、その下の血管が、墨を流し込まれたように変色していく。
銃兵が悲鳴を上げた。
倒れていた支援役が身を起こし、その腕へ手を伸ばす。
しかし、侵食を止めるための祈りは、冒涜者の合唱に呑み込まれ、光となる前に指先で霧散した。
シスター・カタリナは、陣形の崩壊を認めた。
第九聖火隊は弱くない。
誰も逃げていない。
誰も任務を放棄していない。
前衛は骨を傷めても盾を捨てず、聖歌兵は喉から血を流しても声を止めず、銃兵は恐怖に震えながら次の一発を聖別しようとしている。
支援役は自らも侵食を受けながら、仲間の腕から黒い文字を引き剥がそうとしていた。
彼女たちは、訓練された精鋭だった。
だが、どれほど優れた演奏者でも、楽譜そのものを引き裂かれれば、合奏を続けることはできない。
「第二防御陣形へ移行します」
シスター・カタリナは剣を両手で握り直した。
「負傷者を後退させなさい。前衛は私と残ります」
「隊長、幾何学が形成できません!」
「分かっています」
彼女は冒涜者を見据えた。
「ですから、形成できるまで身体で止めます」
命令の意味を、隊員たちは理解した。
シスター・カタリナと前衛が時間を稼ぐ。
後衛が陣形を組み直す。
その間、前に残る者が生きていられる保証はない。
若い銃兵が、血に濡れた弾丸を握り締めた。
「私も残ります」
「あなたは下がりなさい」
「まだ撃てます」
「撃てることと、残るべきことは同じではありません」
「でも――」
冒涜者が一歩を踏み出した。
石畳に残っていた神聖幾何学が、その足の下から黒く腐り始める。
シスター・カタリナが剣を構えた。
その時、濁っていた空気の中へ、一本の透明な糸が通った。
音ではなかった。
少なくとも、最初は。
風でもない。
光でもない。
壊れていた呼吸の奥へ、正しい音程を思い出させる何かが触れた。
血を流していた聖歌兵が顔を上げる。
砕けた携行鐘の破片が、石床の上で微かに震えた。
シスター・カタリナは路地の奥を見た。
そこから、一人の少女が歩いてくる。
長い黒いベール。
足首近くまでを覆う純白のケープ。
喪服のように漆黒の戦闘儀礼服。
その裾と袖へ施された銀刺繍が、まだ歌声も聞こえないうちから淡く脈動している。
ベールの下から零れる髪は、月光を溶かしたような銀色だった。
瞳は、冬の夜明けに似た青。
身体は細く、年齢だけを見れば、戦場よりも聖歌学校の回廊にいる方が似合う少女だった。
それでも、第九聖火隊の全員が、彼女をただの少女とは思わなかった。
「第一聖歌……」
若い銃兵が呟いた。
少女は、倒れた鐘音係の傍らで足を止めた。
砕けた携行鐘を見下ろす。
「拍が壊れています」
静かな声だった。
責めてはいない。
慰めてもいない。
傷口の深さを測る医師のように、彼女は戦場の事実だけを告げた。
「アンセム」
シスター・カタリナが名を呼ぶ。
「下がりなさい。ここは第九聖火隊の戦場です」
「第九の陣形は崩壊しています」
「まだ終わっていません」
「立て直す前に死者が出ます」
「だからといって、あなたが一人で入る理由にはならない」
アンセムはシスター・カタリナの横を通り過ぎた。
「私一人の方が早いです」
その言葉には、自負も侮蔑もなかった。
当然の事実を述べるのと同じ響きだった。
冒涜者の無数の口が、銀髪の少女へ向いた。
『歌うな』
『お前の声も届かない』
『主は、お前を見ていない』
アンセムは答えなかった。
砕けた盾の前で膝をつく聖堂騎士と、血を吐きながら旋律を保とうとする聖歌兵を一度だけ見た。
その青い瞳は、戦場に残された条件を数えるように静かだった。
「第九聖火隊は陣形を解除してください」
シスター・カタリナが剣を握り直した。
「まだ戦えます」
「必要ありません」
「ここは第九聖火隊の戦場です」
「その戦場は、すでに崩壊しています」
淡々とした指摘だった。
怒りを向ける余地さえないほど、正しかった。
「負傷者を連れて退避を。残留する聖周波も停止してください」
「停止すれば、奴の拘束が完全に解ける」
「私が上書きします」
シスター・カタリナは少女を見つめた。
第九聖火隊が鐘と盾と銃と複数の歌声を重ね、ようやく形にした聖域。
それを、この細い少女は一人で置き換えると言っている。
「アンセム」
「早くしてください」
冒涜者が一歩を踏み出した。
石畳に残っていた神聖幾何学が、その足の下から黒く腐っていく。
シスター・カタリナは歯を食いしばり、剣先を下げた。
「第九聖火隊、陣形解除。負傷者を回収し、第二線まで後退」
聖歌が途切れた。
石畳を彩っていた円と三角形と六角形が、形を失って崩れていく。
薬莢が節から解放され、乾いた音を立てながら路地へ転がった。
黒い霧が勢いを取り戻す。
無数の口が笑った。
その笑いを遮るように、アンセムが息を吸った。
そして、歌う。
声は細かった。
だが、その一音が空間へ触れた瞬間、黒い霧の流れが止まった。
祭服の銀刺繍が、胸元から肩、腕、指先へ順に光を灯す。
砕けた携行鐘の破片が震え、地面へ散乱していた薬莢が一斉に動き始めた。
第九聖火隊の神聖幾何学を修復したのではない。
異なる形だった。
一人の声を中心として、複数の円環が同心円状に広がっていく。
正三角形と六角形が寸分の乱れなく重なり、その中央へ聖環十字が現れる。
隊員の呼吸を待つ必要はない。
鐘の拍子もいらない。
前衛の足場も、銃兵の照準も、隣の歌声も必要としない。
アンセム自身が振動源であり、音叉であり、陣形であり、祈りだった。
第九聖火隊の揺らぎを抱いた合唱が消え、代わって、一人の少女による完全な秩序が路地を満たした。
冒涜者の身体が定常波の節へ引き込まれる。
無数の口が、端から閉じていった。
『なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……』
最後に残った口が震えた。
『なぜ、一人で――』
アンセムは儀式用拳銃を上げた。
その顔に歓喜はない。
怒りもない。
ただ、標的と銃口と聖周波の中心を、一つの直線へ揃える真剣な眼差しだけがあった。
引き金が引かれる。
一発。
普通の鉛弾が銃身を走り、六花状の神聖幾何学の中心を通過した。
一瞬で聖別された弾丸が、冒涜者の胸を撃ち抜く。
黒い皮膜の内側から青白い光が溢れた。
背中の骨が砕け、無数の口が祈りにも悲鳴にもならない息を吐く。
肉体は輪郭を失い、やがて黒い灰となって、石畳へ静かに崩れ落ちた。
アンセムが歌を止める。
戦闘は終わった。
第九聖火隊が十七分をかけても倒しきれなかった敵は、少女が前へ出てから一分も経たずに消えていた。
息も乱れていない。
祭服にも傷はない。
拳銃を収める指先にも、疲労の兆候はなかった。
シスター・カタリナは何も言わなかった。
ただ、アンセムが一人で立つ石畳と、そこから少し離れた場所で互いの肩を支え合う第九聖火隊員たちを見比べた。
*
「負傷者を並べてください」
浄化を終えたアンセムは、壁際へ運ばれた隊員たちの前に膝をついた。
第九聖火隊の支援役も、その隣へ座る。
黒い文字に侵された腕を押さえながら、重傷者の状態を一人ずつアンセムへ伝えた。
「右前衛、肩関節損傷。肋骨にも亀裂の疑いがあります。銃兵一名は右腕へ侵食。聖歌兵二名は喉と肺に損傷」
「分かりました。呼吸を合わせてください」
アンセムが歌い始める。
先ほどまでの戦闘聖歌とは異なる、穏やかな旋律だった。
傷を強引に塞ぐ歌ではない。
衝撃によって乱れた呼吸と血流へ、身体が本来持っていた拍子を思い出させる歌だった。
肩を外しかけた聖堂騎士の呼吸が、少しずつ深くなる。
砕けた肋骨の周囲で強張っていた筋肉が緩み、肺が再び空気を受け入れる。
黒い聖句に侵された銃兵の腕から、染み込んでいた文字が薄れていく。
支援役もアンセムの旋律へ低い声を重ね、剥がれ落ちた不浄を聖環十字の小さな円環へ封じ込めた。
アンセムの目元が、わずかに柔らかくなった。
戦闘中にはなかった変化だった。
敵を滅ぼす時には現れず、傷ついた者を癒やす時にだけ、閉ざされた表情の奥から小さな温度が浮かんでいる。
治療を受けていた若い銃兵が、掠れた声を出した。
「ありがとうございます」
アンセムは歌いながら、その言葉を聞いた。
返事はない。
けれど、青い瞳が一瞬だけ、銃兵の顔を確かめるように動いた。
やがて歌が終わる。
最後の音が消えると同時に、柔らかさも彼女の目元から消えた。
「応急処置は完了しました」
アンセムは立ち上がった。
「重傷者二名は医療礼拝堂へ。残りも本部帰還後に再検査を受けてください。侵食を受けた者は、今夜の聖歌任務から外してください」
第九聖火隊の支援役が頷く。
「承知しました。アンセム様も、聖周波の消耗を確認させてください」
「必要ありません」
「ですが、あれだけの領域を単独で――」
「異常はありません」
アンセムは自分の拳銃を確認し、ホルスターへ収めた。
先ほどの銃兵が、無事な方の手を伸ばす。
「アンセム様。立つ時に、よろしければ――」
アンセムはすでに立っていた。
差し出された手を見る。
「不要です」
それは相手を拒絶する声ではなかった。
必要の有無を確認し、その結果を告げただけの声だった。
若い銃兵は、行き場を失った手をゆっくりと下ろした。
シスター・カタリナが歩み寄る。
「助かりました、アンセム」
「任務です」
「それでも、礼は言います」
アンセムは答えなかった。
黒い灰が舞う路地の向こうへ視線を向ける。
遠くで、大聖堂の鐘が鳴り始めていた。
戦場へ持ち込まれた小さな鐘とは違う、聖都全体へ時刻を知らせる大鐘の音だった。
アンセムは一度だけ、その音を聞くように顔を上げた。
青い瞳には何も浮かばない。
やがて彼女は踵を返し、一人で路地の奥へ歩き始めた。
黒いベールが夜風に揺れる。
純白のケープが、灰の降る旧市街を横切っていく。
誰かがその背を呼び止めることはなかった。
鐘は鳴り続けていた。
この世界に、まだ音があることを告げるように。
最新エピソード
万聖節の夜から数日後、正教会北西支部の討魔請負人受付所には、祭りの飾りよりも損害報告書の方が多く残されていた。
壁を埋めていた高額依頼はすでに剥がされ、代
王冠級反応が消失してからも、アンセムは何度も暗がりを見た。
旧市場から正教会本部へ戻る装甲救護車の窓には、夜明け前の街が断片的に流れている。倒れた街灯、濡
黒猫は、もう一度だけ鳴いた。
それは瓦礫の下から聞こえる呻きでも、閉じかけた夜会門の残響でもなかった。呼びかけられたことに応じただけの、ごく平凡な猫の声だ
最終更新: 2026-09-08







