説明
リディアたちフローター・クレーヴが世界で一番大きな、軍事国家カイアス王国を脱出するまでの、アポカリプスな紀行。
エピソード1
胃の腑が引きちぎれるような痛みに、リディアは目を覚ました。
板張りの床から伝わる冷気が、タイトスカートで覆いきれない太ももを容赦なく冷やしている。起き上がろうとすると、頭の奥で鐘が鳴るような眩暈がした。手を伸ばし、埃の積もった壁を支えにする。指先が白く汚れた。
「……また、この天井ね」
漏れ出た声は、掠れて掠れてカサカサと乾いていた。
ここはカイアス王国の外縁にある、名前も失われかけた名もなき廃村だ。
吹きさらしの部屋の隅には、誰のものかもわからない錆びついた鉄兜と、泥に汚れた木彫りの馬の玩具が転がっている。ここの家主は、数ヶ月前に徴兵令状を受け取って東の戦線へ行ったきり、戻ってこない。彼が命を落としたのか、あるいはどこかの泥濘で生き延びているのか、リディアたちには知る由もなかった。
わかっているのは、この家が空き家であり、自分たちがその主のいない温もりを盗んで生き延びているという事実だけだ。
「リディア、起きたの……?」
声をかけてきたのは、黄緑色の長い髪を揺らしたフローラだった。
毛布代わりの薄汚れた麻袋から顔を覗かせたその肌は、血の気が失せて陶器のように白い。黄金色の瞳が、心細げにリディアを見上げている。
「ええ。おはよう、フローラ。みんなは?」
「カトリーヌとエミリエンヌは、裏庭の井戸を見てくるって。クロディーヌは……あそこで、暖炉の灰を漁ってるわ」
フローラが指差した先、冷え切った石造りの暖炉の前に、銀白色の短い髪を揺らす少女が背を丸めてしゃがみ込んでいた。クロディーヌだ。かつては由緒正しい貴族の令嬢だった面影は、煤で汚れた白いフリルブラウスの袖口に辛うじて残っている。
「んっ……」
クロディーヌは短く息を漏らしながら、火かき棒で冷たい灰を執拗にかき回していた。何か燃え残りの炭でも探しているのだろう。立ち上がろうとした拍子に、ふらりと身体が揺れる。
「いやっ……」
小さな悲鳴と共に膝をつきかける彼女の身体を、リディアは素早く駆け寄って支えた。タイトスカートが突っ張り、足元がもつれそうになるのをこらえる。
「無理をしないで、クロディーヌ。まだ身体が冷え切っているわ」
「……申し訳、ありません。リディア様。はしたない姿を……」
クロディーヌは深紅の瞳を伏せ、自嘲気味に微笑んだ。その額には、じっとりとした冷たい汗が浮かんでいる。
「様はやめてって、いつも言っているでしょう。私たちはもう、ただの……何でも屋よ」
「何でも屋、ですか。今の私たちは、泥棒と大差ありませんわ。戦地に行った方の家を占拠し、その残飯を漁り……」
「生きるためよ」
リディアは遮るように、しかし自分自身に言い聞かせるように言葉を絞り出した。
胸の奥を刺すような罪悪感はある。この家に残されていた乾燥小豆の袋を見つけ、貪るようにスープにして飲み干した時の、あの泥のような後ろめたさは今も舌の奥に残っている。だが、あの時食べなければ、今ここにいる五人のうち誰かは冷たい骸になっていたはずだ。
戸口の破れた隙間から、乾いた風が吹き込んできた。
カサカサと、乾燥した秋の葉が床を転がる音が静まり返った部屋に響く。
パタパタと軽い足音がして、玄関の扉が開いた。
入ってきたのは、金髪を乱暴に束ねたカトリーヌと、水色の髪に黄色いケープを羽織ったエミリエンヌだった。二人の表情は一様に暗い。
「どうだった?」
リディアの問いに、カトリーヌは首を横に振った。海賊風のコートのポケットから出した両手には、何も握られていない。
「駄目ね。井戸水は砂混じりで泥臭いし、裏の畑もとっくに掘り返されて根っこ一つ残ってないわ。近隣の森も、他の浮浪者やはぐれ兵が刈り尽くしたみたい」
「……この二日、まともな食事をしていないわね」
エミリエンヌが黄色いケープをきつく巻き直しながら、冷え切った声を出す。鋭い眼差しが、部屋の隅にある空の木箱に向けられた。
「リディア、昨日言っていた『仕事』はどうするの?」
「カイアスの街道を通る商人から、物資を『融通』してもらう件ね」
リディアは腰のポーチに手を当てた。中には、使い古された魔法の杖が一本入っているだけだ。
便利屋「フローター・クレーヴ」。聞こえはいいが、仕事の依頼などこの荒廃したカイアスでは滅多にない。最後に受けた仕事は、隣村の養蜂所で悲鳴を上げながら蜂の巣を退治したことだ。あの時の報酬で買った小麦粉も、とっくに底をついた。
今、彼女たちが生き延びるために残された手段は、街道での強盗まがいの行為しかなかった。
「……本当に、やるの?」
フローラが不安そうに囁く。水や風の魔法を得意とする彼女だが、そもそも魔力を練るための体力が残っていない。
「やるしかないわ。ここにいても、あと24時間もすれば全員動けなくなる。そうでしょう?」
リディアは一同を見回した。
カトリーヌが唇を噛む。エミリエンヌは静かに頷いた。クロディーヌは、自身の白いブラウスの汚れた襟元を握りしめ、静かに呼吸を整えている。
「狙うのは、防備の薄い商人の荷馬車よ。傷つけるのが目的じゃない。食料を少し奪って、すぐに逃げる。それだけよ」
リディアは精一杯、冷静なリーダーの声を装った。だが、タイトスカートの中で膝が微かに震えているのを、自分自身で自覚していた。飢えによる震えか、それとも恐怖か。
5人は、住み慣れた「他人の家」を出た。
最新エピソード
塩分を含んだ湿った風が、容赦なく石畳の隙間を吹き抜けていく。
中央大陸の南端に位置する港町スパロウ。かつては交易の要所として栄えたこの場所も、今や近づく戦争の影に怯え、息を潜めていた
塩の結晶が白くこびりついた窓硝子を、鈍い午後の光が透過していく。
潮だまりの悪臭と、どこかで魚が腐っていくような生臭い風が、スパロウの港町を支配していた。空は低く、灰色に濁った雲が千
港に近づくにつれ、潮風は魚の腐った臭いを帯びて湿り気を増していく。
カイアス中央南端の街、スパロウ。かつては活気に満ちていたはずの交易港だが、現在の空気を支配しているのは、ただひたす
乾いた砂が、黒いパンプスの爪先を容赦なく汚していく。
冬のカイアス南部の街道は、踏み固められた土が日光に焼かれ、歩くたびに細かい黄砂となって宙に舞った。モンテーロを南に発ってから、す
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