説明
『小清水由美のミッドナイト・ダイアリー』。それは、特別な誰かのためではなく、この光の銀河に浮かぶ、無数の孤独な夜の一つひとつのための番組。 世界の片隅で膝を抱える、まだ出会わぬ誰かのために。『深夜のランプ』を灯していく深夜ラジオです。 この物語が、あなたの心の灯(ともしび)になれますように。
“ベンチマーク小説企画 #7”応募作品です。
今日のテーマ: 「ベンチマーク」深夜ラジオ 深夜ラジオ・第四チャンネル ベンチマーク小説企画 #7:リスナー、パーソナリティ、または偶然聴いている人として、深夜ラジオ番組の物語を書いてください
エピソード1
第一章
「――というわけで、今週も始まりました!『小清水由美のミッドナイト・ダイアリー』、みんな、眠い目こすって聴いてくれてるかな?あなたの夜のコンシェルジュ、由美ちゃんこと小清水由美です!」
マイクの向こう側、幾千の夜に溶け込むように、由美はプロフェッショナルな笑顔を声に乗せた。時刻は深夜一時を少し回ったところ。「ON AIR」の赤いランプだけが、薄暗い放送ブースの中で生命を持っているかのように、厳かに灯っている。
目の前には、リスナーから届いたお便りの葉書やメールを印刷した紙が、まるで雪崩を起こす寸前の山のように積まれていた。一つ一つに、誰かの日常、悩み、喜びがインクとピクセルに込められている。
「さーて、今夜もたくさんのお便り、本当にありがとう!全部読ませてもらってるからね。…うん、じゃあ早速、今夜の一枚目、行ってみようかな」
由美は指先で器用に葉書の山をさばいていく。その中の一枚、妙にシンプルな白い便箋に、几帳面すぎるほど整った手書きの文字が並んでいるのが目に留まった。差出人のラジオネームは、「静かなる観測者」。
「えーと、ラジオネーム『静かなる観測者』さんから。…『由美さん、こんばんは。いつも楽しく拝聴しています。突然ですが、僕のアパートの隣の部屋は、ここ三ヶ月ほど空き室のはずなんです。なのに、毎晩、壁の向こうから赤ん坊の泣き声が聞こえるんです。気のせいでしょうか』…」
読み上げた瞬間、ブースの中の空気がすっと一度冷えた気がした。よくある怪談話のようでありながら、その淡々とした文章には、作り話とは思えない奇妙な切実さが滲んでいる。ディレクターがガラスの向こうで「お、面白そうじゃん」とでも言うように、親指を立てて見せた。
「…そっか。それは、気になるね…。管理会社とかには連絡してみたのかな?うーん…」
由美は卓上に置かれたペットボトルの水を一口、喉を潤すために飲んだ。冷たい液体が食道を下っていく。そして、悪戯っぽい笑みを声色に含ませて、こう続けた。
「よし、決めた!今夜の『突撃!生電話コーナー』は、この『静かなる観測者』さんにかけちゃいます!もしもし、あなたの体験、もっと詳しく聞かせてくれませんか?」
スタッフが慌ただしく動き出し、葉書に書かれた電話番号を電話機に打ち込んでいく。数回、電子的なコール音がスタジオのスピーカーから響いた後、ぷつり、と音が途切れた。
「……もしもし」
電話の向こうから聞こえてきたのは、年齢の判別が難しい、低く、落ち着いた男の声だった。ノイズはほとんどなく、まるで静寂そのものが喋っているような声だ。
「あ、もしもし!深夜にすみません、『ミッドナイト・ダイアリー』の小清水由美です!ラジオネーム『静かなる観測者』さんで、お間違いないでしょうか?」
「…はい。そうです」男は短く答える。
「わー、繋がった!ありがとうございます!お便り、読ませていただきました。その、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえるっていう…」
「ええ。毎晩です。午前二時ぴったりに」
「に、二時ぴったり…」由美は背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、声を弾ませる。「それって、いつ頃からなんですか?」
「二週間前の、火曜日からです」
男は淀みなく答える。彼の声には恐怖も興奮もなく、ただ事実を報告するような、奇妙な平坦さがあった。それがかえって、話の信憑性を高めている。
「最初は、どこか他の部屋から聞こえてくるのかと。あるいは、テレビの音か何かだと。でも、ある晩、確信したんです。壁に耳を当ててみたら、すぐ向こう側…誰もいないはずの、102号室から聞こえてくる」
「ひゃあ…」由美は素直な感嘆の声を漏らす。「それ、めちゃくちゃ怖いじゃないですか…」
「怖い、というよりは…奇妙、なんです」観測者は言った。「泣き声は、一時間きっかりで止まる。そして、泣き方が…少し、普通じゃない」
「普通じゃない?」
「ええ。感情がこもっていないんです。まるで、テープを再生しているみたいに、同じ調子で、ただひたすら…」
リスナーの語りが熱を帯びるにつれて、由美は完全に話に引き込まれていた。だがその時、意識の片隅で、別の感覚が静かに芽生え始めていた。下腹部の奥の方に、ごく微かな、しかし無視できない圧迫感。
(…あれ?ちょっと、トイレ行きたい…かも)
さっき飲んだ水がもう来たのだろうか。いや、まだ大丈夫。生放送中にそんなことを考えるなんて、プロ失格だ。由美は軽く太ももを擦り合わせ、意識を電話の向こうの声に集中させようと努めた。
「テープみたいに、ですか…」
「はい。それで、三日前の晩、ついに我慢できなくなって、ドアスコープから隣の部屋の玄関を覗いてみたんです」
「えっ、したんですか!?」由美の声が上ずる。
「ええ。僕の部屋のドアスコープは、少し角度を変えると、隣の玄関がギリギリ見えるんです。泣き声が聞こえる中、ずっと。三十分くらい、ずっと覗いていました」
観測者の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「何も見えませんでした。ただ、暗い廊下が続いているだけ。…諦めて離れようとした、その瞬間です」
「……」
「隣の部屋のドアノブが、ゆっくりと、本当にゆっくりと…回り始めたんです」
「ひっ…!」
由美は思わず短い悲鳴をあげ、口元を手で押さえた。ブースの中の温度が、また二、三度下がった気がする。ガラスの向こうのディレクターも、ゴクリと喉を鳴らしたのが見えた。
まさにその時だった。きゅう、と下腹部を内側から締め付けられるような、はっきりとした尿意の波が押し寄せてきたのは。それはもう「行きたいかも」というような曖昧なものではなく、「行かなければならない」という明確な指令だった。
(うそ…なんで、今…?)
冷や汗が背中を伝う。恐怖から来るものなのか、それとも生理的な焦りから来るものなのか、もう判別がつかない。由美は無意識に、椅子の座面の上で身じろぎし、キュッと内股に力を込めた。
「ど、ドアノブが…?それで、それで、ドアは開いたんですか!?」
マイクに乗る声は、恐怖に引きつったリスナーを気遣うパーソナリティーのものだ。しかし、その裏側で、由美の頭の中は警報が鳴り響いていた。
(やばい、やばい、やばい!なんでこんな時に!まだコーナー始まったばっかりなのに!)
「いえ」観測者の声は、なおも静かだった。「ドアノブは、回りきるところで止まりました。そして、元の位置に、またゆっくりと戻っていった。まるで、誰かがドアを開けようとして…寸前でやめたみたいに」
その言葉がもたらす恐怖よりも、今や由美を支配しているのは、膀胱が張り裂けそうになる感覚だった。子宮が圧迫され、下腹部全体がずしりと重い。まるで、熱を持った水の塊が、今にも決壊しようと出口を求めているようだ。
「そ、そうですか…。誰も、出てこなかったんですね…」
「はい。ただ…それ以来、泣き声に混じって、別の音が聞こえるようになったんです」
観測者の話は、クライマックスに向かおうとしている。だが、由美の我慢もまた、クライマックスに近づいていた。彼女はマイクに拾われないよう、必死に息を殺し、デスクの下で両膝を強く押し付け合う。スカートの生地が擦れる音が、やけに大きく感じられた。
(だめ、だめだめだめ…!ここで集中切らしちゃ…!でも、でも…!)
意識が明滅する。怪談の恐怖と、生理的な恐怖。二つの恐怖が渦を巻き、彼女の思考を飽和させていく。
「別の、音…?」かろうじて、由美は言葉を絞り出した。その声は、自分でもわかるほど震えていた。
電話の向こうで、観測者が息を吸う気配がした。
「ええ。壁を…内側から、誰かが引っ掻いているような…カリ、カリ…という音が」
その瞬間、由美の身体を、抗いがたいほどの強烈な尿意の衝撃が貫いた。ずくん、と膀胱が大きく脈打つ。熱い液体が、制御の弁をこじ開けて、すぐそこまで迫っている。
「……っ」
声にならない声が喉から漏れ、由美はぐっと奥歯を噛み締めた。デスクの縁を掴む指が、白くなるほど力が入る。もう、怪談どころではなかった。
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