説明
幼馴染に言えていなかった言葉。素直になれず、気がつけば40才になっていた。
あの日、誘われたのに行かなかった学園祭。
あの頃、いつも自宅のポストにいつの間にか入っていたルーズリーフの手紙。
自宅の整理で、未だに捨てずに存在し続けるルーズリーフを目の当たりにし、当時の記憶とそして後悔、伝えなければいけない言葉があると自覚した。
エピソード1
店内の冷気は、薄手のカーディガン越しでも肌に鋭く突き刺さる。
スーパーマーケットの惣菜売り場。ビニールで包装された揚げ物の匂いが、冷えた空気と混じり合って停滞していた。そこには生活の湿り気のようなものがある。
籠の中には、半額のシールが貼られたひじきの煮物と、成分無調整の牛乳、それから一個売りのリンゴ。
レジの店員が商品をスキャナーに通すたび、電子音が無機質に響く。指先がレジ袋の端を探る。乾燥した皮膚が滑り、なかなか開かない。後ろの客の視線を背中に感じながら、ようやく開いた袋へ手際よく商品を詰め込んでいく。
完璧な、平均的な大人の背中を演じきること。
それがこの街で一人で生きていくための、最低限の作法だった。
マンションの三階。鍵を回し、扉を開ける。
暗い玄関に、ほのかにラベンダーの香りが漂っていた。消臭プラグが刻んでいる、人工的な安らぎの香り。靴を揃え、電気をつける。
部屋の中は、どこまでも白く、整えられている。
フローリングには髪の毛一本落ちておらず、システムキッチンのステンレスは曇りひとつない。調味料の瓶は背の順に並び、ラベルはすべて正面を向いている。
キッチンペーパーを一枚引き出し、滴ってきた牛乳の底についた結露を拭き取る。
冷蔵庫の決まった位置へ収める。
ひじきの煮物は、プラスチックの容器から磁器の小鉢に移し替える。
一人きりの食卓であっても、パックのまま食べるような真似はしない。それは自分の中の「だらしなさ」という底なし沼へ滑り落ちないための、最後の防衛線だった。
定時制高校卒。
その経歴が、常に背後から影のように付きまとっている。
誰も尋ねはしない。履歴書を出して十数年経った今の職場でも、それはただの提出済みの記録に過ぎない。けれど、自分だけが知っている。自分が「普通」のレールから一度外れた人間であることを。だからこそ、この部屋だけは、誰に見せる予定がなくても、徹底的に滅菌されていなければならなかった。
週末。
窓から差し込む陽光が、空気中を舞うわずかな埃を可視化させている。
それが許せず、掃除機をかけた後に、使い捨てのクロスで床を磨き上げた。
次に着手したのは、クローゼットの整理だった。
数年間袖を通していない服、流行の終わったバッグ。それらを一つずつ吟味し、情け容赦なくポリ袋へ放り込んでいく。「執着」という重りを捨て去るたび、体の中から澱が消えていくような錯覚があった。
棚の最上段。奥の方に、指先が冷たい金属の感触に触れた。
手を伸ばし、引きずり出してみる。
それは、かつて贈答品でもらったであろうクッキーの缶だった。
蓋の表面には、微かな錆が浮いている。
数年前の引っ越しの際、迷った末に「保留」として持ち越してしまったもの。これさえ処分すれば、この部屋から不確かな過去は一掃されるはずだった。
床に座り込み、缶を膝に乗せる。
ずっしりとした重みがあった。
蓋の隙間に爪をかけ、力を込める。
古い金属が擦れる、嫌な音が静かな部屋に鼓膜を刺すように響いた。
「あ……」
蓋が開くと同時に、特有の匂いが溢れ出した。
それは、今のこの部屋には存在しない匂いだ。
古い紙が酸化したような、甘ったるい埃の匂い。かつての教室の隅、放課後の湿った空気、そして、誰かの体温。
中には、何十枚ものルーズリーフが乱雑に詰め込まれていた。
束ねられず、折れ曲がり、厚みを持った紙の塊。
一番上にあった一枚を、指が震えながら摘み上げる。
黄ばんだ紙面。そこに躍っているのは、丸っこい、勢いだけは一人前の文字だった。
その書体を見た瞬間、喉の奥がキュッと締まるような感覚に襲われた。
心臓が不規則なリズムを刻み始める。
指先から這い上がってくる拒絶感。
佐山紀美。
その名前を思い出す必要すらなかった。文字自体が、彼女そのものだったからだ。
周囲を気にせず、大きな声で笑う唇。
夏休み明け、真っ黒に日焼けした細い腕。
「みどりは考えすぎなんだよ」と笑いながら、主人公の卑屈な自意識を土足で踏み荒らしていった、無垢な暴力の化身。
一枚目の書き出しに目が止まる。
『元気? ねぇ、あの日からずっと考えてたんだけどさ』
その一文を目にした途端、耳の奥で掠れた音が再生された。
カタン、という乾いた金属音。
二十数年前。木造のアパートの一階。
玄関ドアの横についていた、薄い金属製の郵便受け。
『それ』に気付かず開けた時、そこから何かが滑り落ち、三和土(たたき)のタイルにぶつかった時の、あの重みのない音。
平穏だったはずの部屋の空気が、急激に密度を変えていく。
窓から差し込む日光は変わらないはずなのに、視界がセピア色のフィルターを通したように彩度を失っていく。
足元から、黒い水のような過去が静かにせり上がってくるのを、肌で感じていた。
この手紙が届いた日のことを、身体が鮮明に記憶している。
梅雨の終わりの、まとわりつくような湿気。
バイトから帰ってきたばかりの、疲れ切った体。
郵便受けから覗いていた、このルーズリーフの端。
それを拾い上げた時、指先についたインクの匂い。
あの時、自分はそれを読んですぐにこの缶に封じ込めたはずだった。
見なかったことにしたはずだった。
自分が「正しい大人」になるために、切り捨てたはずの記憶の断片。
けれど、文字は消えていなかった。
二十年の時を経て、紙の上に定着したインクは執拗なまでに鮮明なままだ。
紀美の、あの屈託のない笑顔が脳裏にフラッシュバックする。
彼女は今、二児の母になっているという。風の便りで聞いたその事実は、今の自分とは何の関係もないはずだった。
ルーズリーフを持つ指が、小さく震えている。
その微かな振動が、静止していたはずの部屋の秩序を崩していく。
整理整頓された棚も、磨き上げられた床も、今の自分を守ってはくれない。
この薄汚れたルーズリーフ一枚が、強固に築き上げてきた四十歳の城壁を、あまりにも容易く突き崩していく。
もう一度、最初の一行を見つめる。
文字が歪んで見えるのは、部屋の照明のせいではないだろう。
鼻の奥に、あの頃の教室で漂っていたチョークの粉の匂いが蘇る。
肺が浅い呼吸を繰り返し、酸素を求めて喘ぐ。
捨てるべきだった。
あの時、いや、何度もあった引っ越しの途中で、この缶ごとゴミ捨て場へ持っていくべきだったのだ。
なぜ手元に残してしまったのか。
それは、捨て去る勇気がなかったからではない。
それを捨ててしまえば、自分がかつて「あの場所」に存在していたという唯一の証拠さえも、消えてしまうと知っていたからだ。
平穏な午後の静寂が、ルーズリーフが微かに擦れる音によって、決定的に壊された。
過去という名の異物が、今、滅菌された部屋の真ん中で脈動を始めている。
最新エピソード
駅ビルの時計が正午を指すと同時に、人混みの向こうから見慣れた、けれど記憶よりもずっと鮮やかな色彩が飛び込んできた。
黄色いカーディガンを羽織り、大きく手を振る女
スマートフォンの画面が消えたあとも、指先に残った微かな熱が消えない。
『行こ行こ!』という、弾むような無邪気な文字列。それが網膜の裏側でいつまでも明滅していた。
静まり返った部屋の床で、スマートフォンのバイブレーションが短く二度、空気を震わせた。ブブッ、という無機質な振動が、フローリングを通じて膝の下へ直接伝わってくる。送信したばかりの決死のメッセージに
フローリングに広げられた二十年分の空白を、指先が慎重に辿っていく。涙で濡れた頬を袖で拭い、吸い出した鼻を一度すすってから、床に散らばった便箋を一枚ずつ拾い上げた。事務職で培われた几帳面さが、無意







