説明
――犯罪都市クライン・ハーフェン。マフィア幹部レイナと弟リコは、組織の裏切りを知ったことで命を狙われ、逃亡を始める。幾度も銃撃や裏切り、家族や過去の罪に揺れながら、謎のSDカードと「D・S・R」の真実を巡る決断を迫られる。情報屋スカーレットとの再会と葛藤、警察・マフィア・第三勢力との激しい攻防も繰り広げられ、限界まで追い詰められた姉弟は家族の絆と生き抜く希望を胸に、夜明けの港から新しい未来へと船出する――痛みと喪失の先に小さな温もりが残る、濃密なサスペンスドラマ。
エピソード1
――足音が響いた。
石畳の隙間に溜まった水が、かすかに波打つ。深夜の裏路地には街灯もなく、月明かりだけが瓦の端を銀色に浮かび上がらせている。レイナ・ディ・マルコは、黒いトレンチコートの裾を風に揺らしながら、ゆっくりと振り返った。
「遅い」
小声で舌打ちする。取引の後始末を終えてから十五分。まだ誰も来ない。指先で銃把をなぞり、安全装置を外す。冷たい金属の重みが、手の平にじわりと汗をかかせる。
――また足音。
今度は近い。重い軍靴の底が石を砕くような響き。一歩、また一歩。レイナは壁際に身を寄せ、息を殺す。藍色の瞳が暗闇をすくい、影の動きを読む。
「姉さん……」
掠れた声。驚いたことに、それは弟のリコだった。黒髪を垂らした少年は、肩で息をしながら路地に飛び込んでくる。頬に血の線が走っている。
「リコ? どうした」
レイナは素早く周囲を見回し、彼の腕を掴む。指に伝わる体温が熱すぎる。
「追われてる。組織の人間が……大幹部を裏切る計画を聞いちまった」
「声を低く」
レイナは弟の口を手のひらで塞ぐ。軍靴の音が再び、路地の奥から近づいてくる。今度は複数だ。三つ、いや四つ。
「こっちだ」
彼女はリコの手を引き、ゴミ箱の陰に滑り込ませる。腐った野菜と油の匂いが鼻をつく。弟の体が小刻みに震えている。
「どうしてお前がそんな話を」
「……俺、金が必要で、夜の運び屋をやったんだ。先週、港で荷物を受け取ったとき、コンテナの中で野郎らが話してた。ファミリーのボスを今夜、あの人に」
リコの喉が鳴る。レイナは眉をひそめる。ファミリーとあの人――つまり警察の黒幕、ヴィトーリオ検事のことだ。組織の最高幹部が警察に売られる。それは血の雨が降る意味だった。
「誰かに見られたか」
「……すまなかった、姉さん」
レイナは唇を噛む。弟の目に浮かぶ涙を、指でそっと拭う。
「泣くな。男だろ」
「でも、俺がしゃべれば姉さんも……」
「黙れ」
レイナは銃を抜き、安全装置を外した。金属音が静寂を裂く。足音が路地の入り口で止まった。
「ディ・マルコの女、ここにいるはずだ」
低い声。聞き覚えがある。エンリコ・ブランチ、組織の処刑人だ。
「リコ、聞き分けて。これから俺が出て行く。お前はここで息を殺してろ」
「待てよ、姉さん! 出たら殺される」
レイナは苦笑いを浮かべる。
「私は幹部だ。まだ刃向かうだけの値打ちはある。お前は違う。ただの荷物運びだ」
「でも……」
「いいから」
レイナは立ち上がり、ゴミ箱の陰から一歩踏み出す。月明かりが黒いショートボブを青白く照らす。
「用か、ブランチ」
男たち――四人のシルエットがざわめく。銃口が一斉に向けられる。
「ディ・マルコ、裏切り者の弟を隠してるって話だが」
「知らんな。私はただ、今夜の掃除を終わらせに来ただけだ」
ブランチが一歩近づく。顔の皺が月光に浮かび上がる。
「お前の弟が、ファミリーの秘密を警察に売った。証拠もある。今夜、ボスを殺す計画を漏らした」
「で、私に何をしろと」
レイナは銃口を下げ、ゆっくりと歩を進める。男たちが緊張する。
「お前も同罪だ。だが、ボスは惜しいと言ってる。弟を出せ。そうすればお前は助かる」
背後でゴミ箱が軋む。リコが立ち上がりそうな気配。レイナは大声で笑う。
「ブランチ、お前は馬鹿だな。私が弟を売ると思うか?」
「血は水より濃い、って言うだろうがな。だが、この世界では金の方が重い」
「なら、私も条件を出そう」
レイナは左手をポケットに突っ込み、小さなスイッチを握る。それは携帯用の発信機だ。押せば、五秒後にこの路地に火が吹く。彼女の最後の切札。
「五分待て。弟を連れてくる。その間、お前たちは此処を動くな」
「五分でどうする」
「私は幹部だ。逃げも隠れもしない。だが、ここで撃ち合っても損失ばかりだろう」
ブランチが舌打ちする。
「いいだろう。五分だ。だが、逃げたら分かってるな。お前も弟も、街中の電柱に括りつけて焼く」
レイナは肯き、ゆっくりと後退る。背中でリコの腕を掴む。
「姉さん……」
「歩け。静かに」
二人は路地の奥へ、闇の深まる方へと進む。足音が遠ざかる。レイナの指がスイッチを離さない。
「どうするんだ。あのままじゃ……」
「黙れ、考えてる」
路地は尽き、古い納屋の壁に突き当たる。行き止まりだ。風が止み、息遣いだけが響く。
「リコ」
レイナは弟の肩を掴み、額を寄せる。
「お前には二つの道がある」
「……どういうことだ」
「一つは、此処で私と別れ、港の古い灯台へ走ること。そこに俺の知り合いの船が停泊してる。金は持ってるな」
「もう一つは?」
「私と共に戻ること。ブランチの前で、お前の首を刎ねる。私は生き残る」
リコの瞳が揺れる。レイナは続ける。
「どちらを選ぶ。お前の人生だ」
「姉さんは……どちらを望む」
「私は幹部だ。望みなどない」
――嘘だ。レイナは心の奥で呟く。望みはある。弟を逃がし、自分も逃れ、どこかで普通の朝を迎えたい。だが、それは叶わぬ夢だ。
「時間はない。選べ」
リコは唇を噛み、目を閉じる。そして静かに言った。
「俺は……姉さんと歩く」
「バカ。それは死だ」
「なら、一緒に死のう。俺が逃げたら、姉さんが殺される。それだけは嫌だ」
レイナは息を呑む。弟の手が、震えながらも彼女の指を包む。
「……馬鹿な弟だ」
「姉さんのせいだ」
二人は額を寄せ合い、静かに息を揃える。遠くでブランチの声が響く。
「五分たったぞ、ディ・マルコ!」
レイナはスイッチを握りしめ、弟を見つめる。
「最後に一つ、約束をしよう」
「なんだ」
「誰の足音も、もう怖くない。俺たちは、此処で道を選ぶ。闇の中でも、自分の足で立つ」
リコは肯く。レイナは微笑み、スイッチを――
「出てこい、ディ・マルコ! さもないと――」
――押した。
五秒。
レイナは弟の手を引き、納屋の横の溝へ飛び込む。次の瞬間、路地の入り口で火柱が上がる。ガソリンと火薬の匂いが夜を裂く。悲鳴と銃声が交錯する。
「走れ!」
二人は溝を這い、暗渠へと滑り込む。冷たい水が足首を捉える。背後で炎が唸り、男たちの怒声がこだまする。
「姉さん、これから……」
「まだ終わってない。お前が選んだ道、後悔するな」
「後悔なんか、しない」
暗渠の先に、薄ぼんやりとした光が見える。夜明けの気配だ。レイナは弟の手を離さず、足を速める。
「足音を聞き分けろ、リコ。誰が追ってきても、自分の足で歩け」
「ああ」
「そして、誰に従うかも、自分で決めろ」
二人の足音が、闇の下水道に響く。灯火のない世界で、彼らはただ一つ、自分の選択を胸に、朝を目指して走り続けた。
最新エピソード
――夜明け前のクライン・ハーフェン貨物駅は、錆と冷たい石ころの匂いがした。
レンガ壁にへばりつくように、レイナはリコの腕を肩に回す。弟の体温が、じっとりと自分の首筋に染みた。高い。
――夜明け前のクライン・ハーフェンは、まるで錆びついた写真の裏側みたいに色がない。
ビニールシートが張られた歩道橋を、レイナは肩でリコを支えながら這い上がる。弟の靴が金網を蹴り、が
廃工場の棟うち、雨漏りが鉄板を叩くリズムはまるで心臓の裏側で鳴っているようだった。
レイナはコンクリートの柱にもたれ、膝の上で息を荒らげるリコの肩を抱きしめた。弟の首筋
――夜明け前の空気は、鉄のように冷たかった。
暗渠の出口は、古い鉄柵のはずれた河川敷に開いていた。レイナは肩で柵を押し上げ、先にリコを外に出す。弟の手のひらが、まるで氷ででも作られた







