異世界学園の新入生は、うちの子猫でした。
説明
高校の入学式の朝。新しい制服に袖を通した三上小春は、リボンをくわえて逃げた子猫のムギを追い、玄関の扉を開けた。 その先にあったのは、いつもの通学路ではなく、空に校舎が浮かぶ異世界だった。
獣人、エルフ、ドワーフにヴァンパイア。人間のいない世界に迷い込んだ小春を待っていたのは、もっと予想外の出来事。 「新入生は、こちらの猫さんですね」 不思議な力を持つムギは学園に迎えられ、飼い主の小春は付き添いに。猫には昼寝つきの時間割。私には、まだ自分の席がない。
帰り道も、読めない文字も、初めての寮生活も、分からないことばかり。それでも、翼のある同室の少女や、猫への接し方だけは不器用な優等生との出会いが、知らない場所を少しずつ変えていく。 空を渡る門にも、授業にも、誰かの手入れがある。魔法が息づく日々に、小春が見つけるのは温かなつながり。
そんなある日、魔法のリボンをもらい、ムギと話せるようになった! けれど、聞こえてきたのは壮大な秘密ではなく――。 「こはる。ごはんのひとにゃ」 話せたって、猫は猫。大事なときにも飽きるし、眠いときには寝てしまう。振り回されながら、小春はいつもの世話のノートを開く。
魔法の才能はなくても、気づけることはあるだろうか。誰かに声をかける勇気は、ここで見つかるだろうか。 まだ何者でもない少女と、今日も気ままな子猫の、ちょっとおかしな新学期。小さな肉球に導かれて、知らない世界での一歩が始まる。
エピソード1

「初めまして、三上小春です。好きなものは――」
鏡の下で、白い前足が動いた。
椅子に掛けておいた制服のリボンが、するりと床へ落ちる。しまった、と思ったときには、三毛の子猫がそれをくわえていた。
「ムギ。それ、今日だけはだめ」
お願いする声になったせいだろうか。ムギは耳をこちらへ向けたまま、後ろ足をじりじり引いた。生後四か月。逃げると追ってもらえることだけは、もう覚えている。
高校の入学式まで、あと一時間だった。
母は保護者の受付に合わせて先に出かけ、父は出勤した。玄関の鏡に貼った母のメモには、忘れ物より戸締まり、とある。
私はブラウスの袖を引き、椅子の背からブレザーと通学鞄を取った。リボンを取り返して、そのまま靴を履けばいい。
「一回だけ。今日は絶対、追いかけっこしないからね」
ムギは廊下へ飛び出した。
もちろん、追いかけた。
中学三年間で、こんな声を教室で出したことはなかったと思う。大きな声で猫を呼びながら、肩に鞄を掛け直す。
玄関には朝の日が差していた。閉まっていたはずの扉の下に、細い光の線がある。ムギの三色の尻尾が、その隙間へ吸い込まれた。
「外はだめ!」
ローファーへ足を入れる暇もなく、取っ手を引いた。
風が、知らない花の匂いを運んできた。
隣の家がなかった。
道路も、向かいの自動販売機もない。靴下の裏に触れたのは、雨上がりのように冷たい石だった。
坂道の先に大きな塔がある。そのさらに上で、屋根が動いていた。
屋根ではない。校舎だ。
土と木を載せた島が空に浮かび、いくつもの窓に朝日を返している。校舎と校舎の間を渡る細い橋は、途中で透けて、青空に溶けていた。
「……工事?」
口にして、自分でも違うと思った。
振り返った。自宅の靴箱が見えるはずの場所には、蔦の絡んだ石の門があった。
取っ手を引く。押す。もう一度引く。扉はわずかに開いたけれど、向こうには煉瓦の壁しかない。
脇から覗いても壁だった。
「お母さん?」
返事はない。
鞄から出したスマートフォンには、七時五十八分と表示されている。圏外の二文字を見て、私は一度画面を消した。つけ直したら戻る気がした。戻らなかった。
細い声がした。
ムギが数歩先でしゃがんでいた。さっきまで弾んでいた尻尾を腹へ巻きつけ、頭上を横切る影を見上げている。
「ムギ」
駆け寄ると、逃げずにこちらを向いた。私はリボンごと猫を抱き上げた。前足がブラウスに引っかかる。痛かった。その痛さに、ようやく息を吸えた。
「だめって言ったじゃん」
怒るはずの声が、途中で裏返った。
ムギが私の顎に鼻を押しつけた。いつもの、少し湿った鼻だった。
門のそばに座り、母へ電話をかけた。接続できません、という文字が出た。父にも同じだった。
それでも何度か試しているうち、坂の下から人が来た。
額に短い角のある少年と、荷車を引いた大人。その後ろには、羽の透けた女の子がいる。私を見て歩みを緩めたが、やがて塔の方へ進んでいった。
「あの!」
声は思ったより小さかった。
もう一度呼ぼうとしたとき、荷車の大人が振り返った。私の足を見て眉を寄せ、坂の上を指さす。何を言っているのかは分からない。ただ、門のある建物の前に、机と人の列が見えた。
誰かに聞こう。まず、靴を貸してもらおう。
そう考えるだけで精いっぱいだった。
列の端へ近づくと、急に声が意味を持った。
「入学許可証を開いてお待ちください。鉢植えの方は右側へ。土はこぼさないように」
歩く鉢植えが、葉を振って返事をしていた。
私は見なかったことにして、受付の机へ向かった。山羊に似た顔の職員が、濡れた私の靴下と、腕の中の猫を順番に見る。
「転んだのかい?」
「家がなくなったんです」
職員の筆が止まった。
「家の扉を開けたら、ここで。日本なんです、家は。お母さんが学校に行ってて、私も行かないと」
「ゆっくりでいい。まず、名前を」
「三上小春です。好きなものは――」
練習の続きが出てしまった。
職員が聞き返す前に、私は首を振った。腕が震えてきたので、机の端へ鞄を置き、ムギの後ろ足を支え直した。
その白い足が、机の水晶に触れた。
青い輪が一つ、水晶の中を走った。
輪の内側に、もう一つ。さらにもう一つ。
紙の名簿が風もないのにめくれ、職員の長い耳がぴんと立つ。
「手を離して。いや、猫の足を」
私がムギを引き寄せると、光は消えた。
後ろの列で、誰かが息をのんだ。
「いまの、門の印?」
「全部光ったぞ」
職員が机の下の呼び鈴を押した。割ってしまったのかもしれない。弁償代なんて財布には三千円しかない。
謝ろうとした私の前へ、灰色のローブを着た女性が早足で来た。
「境界学担当のセラです。触っても?」
伸びた手が、ムギの顔の前で止まる。ムギは指先を嗅ぎ、興味をなくしたようにそっぽを向いた。
セラ先生は、光の消えた水晶を覗き込んだ。
「渡り猫……。本物なら、三十年ぶりです」
背後が一斉に騒がしくなった。
誰かの鞄が私の肘に当たり、腕の中でムギが身をよじる。私は猫を隠すように体を曲げた。さっきまで場所を聞きたかったのに、今はここから離れたかった。
「見学はあとです。皆さんは受付へ戻ってください」
先生が間に立つ。
「あなた、お名前をもう一度」
「三上、小春です」
「小春さん。この子と一緒に来て。足を温めましょう」
別室の床には絨毯が敷いてあった。
椅子に座ると、職員が布と室内履きを持ってきた。ムギ用の浅い水皿もある。私はまず猫を鞄の横へ下ろし、両手でカップを包んだ。
飲み物は薄い麦茶に似ていた。ひと口飲んだら喉が痛くなり、涙まで出た。
「熱かった?」
先生に聞かれて首を振る。泣いている場合じゃないと思うほど、鼻が詰まった。
「ここ、どこですか」
「聖アルカディア学園。いくつもの種族が集まって学ぶ学校です。あなたの言う日本は、この世界の地図にはありません」
先生は机の紙を裏返し、門の絵を描いた。
「あの子が開いた道を、あなたも通ったのだと思います」
渡り猫は、境目を見つけて隙間を開ける生き物だという。
ただし、何でも知っているわけではない。古い記録でも、同じ場所へ帰るときに力が現れる例が多く、初めて別世界につながる理由はまだ分からない。
「じゃあ、ムギにもう一回やってもらえば」
「戻る先を、私たちが確かめられていません。人が通る道は、行き先を確かめて支えなければ危険です」
「帰れないってことですか」
「今すぐには。でも、調べます。開いた場所には跡が残りますから」
先生は、いつまでに、と言いかけた私へ顔を上げた。
「数日は見てほしい。分からないことを、必ずできるとは言えません」
私はカップを置いた。受け皿とぶつかって、大きな音がした。
母は今ごろ、私のクラスを探している。入学式で校門の前に立って、写真を撮ると言っていた。
「電話だけでも、できませんか。帰れなくても、連絡だけ」
先生は私のスマートフォンを見せてもらい、首を横に振った。ただ、声を通す門なら人の通る門より小さくて済む、と紙の隅に書き加える。
「連絡を先に試します。家の入口について、覚えていることを教えて」
門柱の色。表札。靴箱の上の小さな観葉植物。
普段は見てもいなかったものを、私は一つずつ思い出した。
話しているあいだ、ムギは椅子の下で水を飲んでいた。
ごく普通の音だった。日本では一緒に朝ごはんを食べた。その続きを、猫だけがここでしている。
「時間は、同じですか」
スマートフォンの数字を見せると、先生はしばらく黙った。
「まだ分かりません。こちらの時計と、その時計は比べられる。でも日本に置いてきた時計とは、つながるまで比べられない」
最悪の想像を始めそうになって、私は膝の上で手を握った。
先生は私の前へ、新しい紙を置く。
「食べて、眠れる場所を先に決めましょう。帰る方法を考えるのは、そのあとも続けます」
お昼には、丸いパンと卵の入ったスープが来た。
ムギは診療室で体を診てもらい、こちらの食べ物を少量ずつ試すことになった。私が普段のフードの成分表示を写真で見せると、担当者は喜んで写し取った。
「嫌がったら、やめてください」
口に出してから、ずいぶん偉そうだったかと顔が熱くなった。
「もちろん。触られるのが苦手なのはどこ?」
「お腹と、足先。あと、抱っこは長いと怒ります」
担当者がそのまま書く。
こんなことで役に立てるのなら、もう少し話せる。私は食事の回数と、冬に拾ったときのことも伝えた。
食事が終わるころ、先生が戻ってきた。
「入口の石門に痕跡がありました。調査班が記録を取っています」
「そこにいなくていいんですか。私がいない間に、家につながったり」
「門には職員を置きました。変化があれば、すぐ呼びます」
先生が紙に印を押し、机の隅へ置く。私はその紙から目を離せなかった。
「家の方にも、誰かいますか」
「それはまだ、確かめられていません」
答えは変わらなかった。でも、聞くたびに先生がこちらを向くので、同じことをもう一度聞いてもよい気がした。
「お母さんに、怒られるかな」
質問するつもりのなかった言葉だった。
先生は少し考えてから言った。
「会えたら、心配したとは言われるでしょうね」
私はうなずいた。怒られてもいいから、声が聞きたかった。
ムギは学園の保護生物課程へ、一時的に籍を置くことになった。
学校に動物の生徒がいるらしい。自分で授業を選ぶ生き物もいれば、世話を受けながら力の使い方を覚える生き物もいるという。
「では、こちらが時間割です」
渡された紙には、昼寝を示す寝床の絵がいくつもあった。
「これ、ムギの?」
「はい。観察は短時間です。疲れたら中止」
新入生の時間割をもらったのは、私ではなかった。
膝に乗せた猫を見下ろす。ムギは紙の角を噛もうとした。
「入学するの、そっちなんだ」
つい声にすると、担当者が小さく笑った。私も少し笑えた。
私には寮の鍵と、透明な板の入った名札が渡された。
文字が読めないので、受付の人へ聞いた。
「渡り猫、管理補助員。これで飼育棟と食堂に入れます。お名前は滞在者名簿に登録しました」
板の下には、指一本ぶんの空白があった。
名前もここへ書いてほしい、と言えば済んだのかもしれない。けれど事務室の後ろには、まだ何人も並んでいた。私はうなずいて、首にひもを掛けた。
あとで聞こう。
中学でも、それで終わった質問がいくつもある。
寮へ案内される途中、広場から新入生の合唱が聞こえた。
開いた扉の向こうに、同じ制服の背中が並んでいる。遅れて入る子へ、隣の子が椅子を引いた。
私は少し足を緩めた。
母と参加するはずだった式にも、きっと同じような椅子がある。空いたままの一つを想像して、鞄の肩ひもを握り直した。
案内の職員が振り返る。
「疲れた?」
「大丈夫です」
そう答えたら、先へ進むしかなくなった。
寮の部屋には、二つのベッドと窓際の長机があった。
ムギには縁の盛り上がった立派な寝床まで用意されていたが、当の猫は梱包用の紙を見つけて潜り込んだ。
包み紙が、がさがさ鳴る。
「それじゃなくて、こっち。ほら、ふかふか」
寝床を叩いてみても、紙の中から目だけが覗く。
何度目かに諦めて座ったら、ムギが這い出して膝へ乗ってきた。皺になったスカートを踏み、向きを変え、結局そこで丸くなる。
私は背を丸めたまま、しばらく動かなかった。
貸してもらった室内履きは少し大きく、爪先を曲げると底が浮いた。脱いだ靴下には、見たことのない赤茶色の泥がついている。あとで洗う、と母に言い訳する自分を思い浮かべ、それが今は言えないのだと気づく。
鞄からハンカチを出した。入学祝いに祖母がくれた、小さな桜の刺繍があるものだった。
ムギがその端を押さえる。
「これは噛まないで」
今度は逃げなかった。白い足の下から布を引き抜くと、猫は目を細めて、膝へ顎を落とした。
扉が二度鳴った。
「入っていい?」
顔を出したのは、銀色の髪を後ろで結んだ女の子だった。背中に薄灰色の翼がある。片方の羽に、紙でできた受付札が引っかかっていた。
「私、リネ。こっちのベッドだって聞いたんだけど」
「はい。あの、私、この猫の世話をしていて」
猫を見せようとして立ち上がりかけ、眠りかけたムギに抗議された。
「そのままでいいわ。噂の猫?」
「ムギです」
「ムギ。じゃあ、あなたは?」
私は一度、名札へ目を落とした。
「小春。三上小春です」
「コハルね。よろしく」
リネは荷物を長机へ置き、羽の受付札を取ろうと腕を回した。
届かないらしい。右から左へ持ち替え、また失敗する。
「あの、背中に」
「知ってる。すごく知ってる」
思わず口元が緩んだ。
「取ってもいいですか」
「お願い。羽ごと引かないでね」
ムギを寝床へ移し、そっと紙を外す。小さな留め金が付いていた。
「ありがとう。到着してからずっと、羽が一枚重かったの」
「紙一枚なのに?」
「気分の話よ」
今度は二人で笑った。笑ってから、まだ笑えるのだと気づいた。
リネは長机の右半分に積んだ荷物を、自分のベッドへ移した。
「こっち、使って」
「いいんですか」
「二人部屋だもの。半分ずつでしょ」
空いたところへ鞄を置いた。
底から出した高校生活の目標用紙には、氏名だけ書いてある。その下の大きな枠は空白だった。友達をたくさん作る、と書くつもりで、たくさんとは何人だろうと考えているうちに今日になった。
「何の紙?」
「学校に出すやつです」
「それ、あなたの国の文字?」
うなずくと、リネは私の名前を指した。
「模様みたい。これ全部でコハル?」
説明しようとして、三上から始めるべきか迷う。迷っているあいだ、リネは急かさず待っていた。
夕食のあと、私は先生から借りた布でムギの足を拭き、世話のノートを出した。
日本で使っていた記録の続きに、こちらで食べた量を書く。動物病院へ寄れるようにと、母が鞄へ入れてくれたものだった。
赤いチェックのリボンは、洗って窓際に干した。拾い上げた石畳の泥が、端に少し残っている。
ムギは部屋の点検に忙しかった。開けていた収納へ入ったので、出てきたのを確かめて扉を閉める。
その直後、かり、と音がした。
収納の前で、ムギが首をかしげている。
閉じた扉の下に、細い青い線があった。猫が前足を入れると、木の板の途中から白い靴下のような足先が消えた。
「リネさん」
呼ぶ声がひっくり返った。
リネが覗き込んだときには、足はもう戻っていた。ムギは収納から転がり出た糸くずを追いかけている。
「今、閉まってたよね」
「うん。取っ手、動いてない」
二人で扉を開ける。中には畳まれた毛布しかない。
リネが私を見る。
「先生に、明日話そう」
私はノートに、見えたことだけを書いた。閉じた扉。青い線。さっき入った収納。
消灯後も、窓の外は完全には暗くならなかった。
浮いた校舎の灯りが、カーテン越しにゆっくり移る。壁の小さな案内灯が一度ちらついた。
「あれも魔法?」
「そう。明日、整備の人に言っておく。気になるわよね」
リネが寝返りを打つ。声が、枕へ半分沈んだ。
「おやすみ、コハル」
「……おやすみなさい」
私はスマートフォンをもう一度開いた。
母へ書いた『ムギと一緒にいます』の横に、小さな赤い印が付いている。送れない画面を伏せ、鞄の目標用紙へ手を伸ばしたが、今夜はやめた。
隣のベッドから、寝息が聞こえてきた。
膝に乗ってきたムギを抱え直す。名前を呼べば振り向くものが、この部屋には二人と一匹いる。
布団の端を猫の体に掛けないよう、そっとめくった。
最終更新: 2026-10-08
最終更新: 2026-10-08







