説明
秋は、気づいたときにはもう終わりかけている――。
都内のワンルームで働くフリーランスのイラストレーター・澪は、締め切りに追われる日々の中で、いつの間にか季節を「見る」ことさえ忘れかけていた。そんな彼女に、恋人の悠斗が紅葉を見に行こうと誘う。
三年付き合っている二人は気が合うようで、ひとつだけ絶対に譲れないことがある。澪は深煎りのブラックコーヒー派。悠斗は筋金入りの紅茶派。朝の一杯から旅先の飲み物まで、どちらが秋にふさわしいかという小さな論争は今日も続いている。
二枚の切符を手に、二人は都心を離れ、紅葉に染まる山あいの渓谷へ。落ち葉を踏む音、冷たい風、川のせせらぎ、古い喫茶店の薪ストーブ。そして、デジタルの色彩では表せない秋の光――。
違うものを好きな二人が、同じ景色を見つめながら過ごす、ほんの半日の寄り道。
コーヒーと紅茶、そのどちらにも似た琥珀色の季節をめぐる、静かで温かな秋の恋物語。
エピソード1
季節は、こちらの都合を待ってくれない。
気づいたときには、もう次の色をまとっている。
十一月半ばの朝。
私はパソコンの右下に浮かぶ日付を見て、ようやく秋の終わりが近いことを知った。
「……もう十五日」
ついこの間まで、夜になっても湿気がまとわりつき、窓を開けると夏の匂いが入り込んできた。
それなのに今は、半分だけ開けた窓から入る風に、細い冬が混じっている。
冷たいが、嫌いではない。
むしろ、頭の奥に溜まっていたものをひとつずつ外へ運び出してくれるような風だった。
私は都内のワンルームで働くフリーランスのイラストレーターだ。
締め切りが重なると、二日、三日と外へ出ない。朝と夜の境目さえ、ディスプレイの明るさで決めるようになる。
昨夜、大きな仕事を一本納品した。
次の打ち合わせは二日後。
だから今日は、何もない日だった。
――何もない。
たったそれだけのことが、少し落ち着かなかった。
休めばいい。
眠ればいい。
分かっているのに、指は勝手にメールソフトへ向かう。
返信漏れはないか。次の資料を整理しておいたほうがいいのではないか。ラフだけでも先に描けば、明日の自分が楽になる。
「澪」
「ん?」
「それ、休んでる人の顔じゃない」
背後から声がして、私は振り返った。
ベッドの端に腰掛けていた悠斗が、呆れたようにこちらを見ている。
付き合って三年になる恋人だ。
同棲はしていない。でも互いの部屋には互いの歯ブラシがあり、着替えがあり、置き忘れた本がある。
境界線はある。
ただ、その線はもうずいぶん柔らかい。
「休んでるよ」
「今、メール開こうとしてた」
「確認するだけ」
「それを仕事って言うんだよ」
「厳しいなあ」
「三年かけて学習しました」
悠斗はスマートフォンを置き、窓辺まで来た。
向かいのイチョウが、朝の光を抱えている。
黄色。まだ緑を残す黄色。端だけ茶色く枯れた黄色。
一色に見えて、よく見れば一枚ごとに違う。
風が吹いた。
一枚。
また一枚。
葉がくるくると回りながら、舗道へ落ちていく。
「秋、終わるね」
悠斗が言った。
「まだ秋でしょ」
「あと二週間もしたら、みんな冬って言い出すよ」
「それはそうだけど」
「紅葉、今年ちゃんと見た?」
私は少し考える。
SNSでは見た。
広告でも見た。
資料として検索もした。
赤い山。
黄色い並木。
夕方の逆光。
でも、自分の目で見たかと聞かれると。
「……駅前のイチョウ」
「それ、買い物途中の景色」
「見たことには変わりないでしょ」
「澪」
「はい」
「屁理屈」
逃げるようにキッチンへ向かった。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「紅茶なら」
来た。
私は振り返る。
「朝から?」
「朝だからでしょ」
「朝はコーヒーでしょ」
「なんで朝っぱらから苦いもの飲むの」
「目が覚めるから」
「紅茶でも覚めるよ」
「香りのついたお湯じゃん」
悠斗が、ゆっくりこちらを見る。
「今の発言、紅茶文化圏全部に謝ったほうがいい」
「大げさ」
「コーヒーなんて焦がした豆の汁でしょ」
「戦争?」
「そっちが宣戦布告した」
このやり取りも、何度目だろう。
私は深煎りのブラックコーヒーが好きだ。
酸味より苦味。砂糖もミルクもいらない。
悠斗は紅茶派。
ストレート。茶葉の産地や季節の違いまで、頼んでもいないのに語る。
別に、互いの飲み物が嫌いなわけではない。
ただ、自分のほうが美味しいと信じている。
そこだけは、三年経っても譲れなかった。
私は豆を挽く。
ゴリ、ゴリ。
悠斗は一度ティーポットへ熱湯を注ぎ、温めてから捨てる。
それから茶葉を量り、沸いたばかりの湯を静かに注いだ。
「そこまでやる?」
「そこまでやる」
「毎朝?」
「毎朝」
「偉いね」
「澪が適当すぎるんだよ」
「コーヒーは勢いも大事なの」
「初めて聞いた」
湯気が二つ、狭いキッチンに上がる。
私の厚手のマグには、黒に近い褐色。
悠斗の薄いカップには、赤みを帯びた琥珀色。
同じ湯から生まれて。
同じように温かくて。
それでも、香りも味も違う。
「ねえ」
悠斗が言った。
「今日、出かけない?」
「どこへ?」
「ここ」
差し出されたスマートフォンには、山あいの渓谷が映っていた。
赤。
黄。
橙。
深い緑。
その下を、青緑色の川が流れている。
「今、ちょうど見頃らしい」
「遠い?」
悠斗は画面をスクロールする。
「電車で二時間くらい」
「遠い」
「日帰り」
「疲れてる」
「近くに紅茶の美味しい店もある」
「行かない」
「紅茶って聞いただけで拒否するのやめない?」
「コーヒーが美味しい店なら考える」
「条件が増えた」
悠斗が検索を始める。
私はコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。
落ちるイチョウ。
青い空。
低くなった太陽。
母が昔、「秋は短い」とよく言っていた。
子どもの頃は、そうは思わなかった。
運動会があって、遠足があって、文化祭があって。栗も、芋も、月もあった。
秋はちゃんと長かった。
大人になると違う。
暑さがやわらいだと思ったら、次の締め切りが来る。
一つ終える。次へ進む。また一つ終える。
その隙間で、秋は音もなく薄くなる。
「あ」
悠斗が声を上げた。
「何?」
「自家焙煎コーヒーもある」
「行こう」
「早っ」
「何時の電車?」
「一時間後」
「準備する」
「さっきまで疲れてるって言ってた人は?」
「コーヒーで回復した」
「万能薬みたいに言わないで」
クローゼットから一年ぶりのトレンチコートを引っ張り出す。
財布。
スマートフォン。
スケッチブック。
小さなペンケース。
私はそれだけを鞄へ放り込む。
悠斗はモバイルバッテリー、ティッシュ、折りたたみ傘まで確認している。
「晴れてるよ?」
「山の天気は変わりやすいから」
「荷物増えるじゃん」
「俺が持つ」
「じゃあいいや」
「そこは遠慮しないんだ」
「信頼してるから」
「便利に使われてる気がする」
外へ出る。
冷たい風が頬をなでた。
「寒っ」
「マフラー持ってくればよかったね」
「悠斗、持ってる?」
「一本だけ」
「じゃあ貸して」
「自分で準備しなかった人が強い」
「信頼してるから」
「二回目は効かないよ」
駅までの道には、落ち葉が薄く積もっていた。
私はわざと舗道の端を歩く。
サク。
サク。
「子ども?」
「秋限定」
「楽しそう」
「悠斗もやれば」
「やらない」
三歩後。
サク。
私は横を見る。
「やった」
「たまたま」
「絶対狙った」
「気のせい」
駅前へ着く頃には、いつもの街まで少し違って見えた。
パン屋から流れてくる焼きたての匂い。
コンビニの前に漂う肉まんの湯気。
自転車で通り過ぎる学生のマフラー。
毎日あるものばかりなのに。
「何見てるの?」
「街」
「毎日あるよ」
「知ってる」
「珍しいものみたいに見てる」
「今日は、ちょっと違って見える」
悠斗は何も言わず、少しだけ笑った。
たぶん、街が変わったわけではない。
私のほうが、ようやく顔を上げただけだ。
駅前の小さな売店を通り過ぎるとき、焼き栗の甘い匂いがした。
「買う?」
「今?」
「秋っぽい」
「基準それだけ?」
「大事でしょ」
結局、小袋を一つ買った。
熱い栗を半分に割る。
湯気が上がる。
「ほら」
悠斗が差し出す。
「半分でいいの?」
「あとで紅茶飲むから」
「またそれ」
口に入れると、ほくりと甘かった。
特別な味ではない。
それでも、冷たい空気の中で食べるだけで、少し違う。
たぶん今日の私は、何かを味わう準備ができていた。
景色も。
匂いも。
食べ物も。
いつもは通り過ぎてしまうものを、今日はひとつずつ拾っている。
悠斗と歩く速度まで、いつもより少しゆっくりだった。
改札前で指定席を取る。
「窓側、澪でいい?」
「悠斗だって景色見るでしょ」
「途中で交代すればいい」
「珍しく譲るね」
「景色は共有財産だから」
「コーヒーは?」
「私有財産」
「そこは徹底してるなあ」
二枚の切符。
同じ列車。
同じ号車。
隣り合った席。
数字だけ見れば、きれいに揃っている。
けれど、私たちは揃っていない。
悠斗は旅行前に時刻表を見る。
私は現地で考える。
悠斗は荷物を小分けにする。
私は全部ひとつの鞄へ入れる。
悠斗は紅茶。
私はコーヒー。
付き合い始めた頃は、似ていることが多いほど相性がいいのだと思っていた。
今は、少し違う。
違うところが見えても。
それでも隣にいられることのほうが、たぶん大事だ。
売店で、私はブラックの缶コーヒー。
悠斗は無糖の紅茶。
「またそれ?」
「そっちこそ」
「旅にはコーヒーでしょ」
「むしろ紅茶」
「なんで?」
「列車と紅茶って合う」
「根拠ふわふわじゃん」
「コーヒーが旅に合うって根拠もふわふわだよ」
ホームへ出ると、特急が滑り込んできた。
風がひとつ、先に走る。
私たちは乗り込んだ。
列車が動き始める。
東京のビルが、少しずつ後ろへ流れていく。
「乾杯する?」
悠斗が言った。
「何に?」
「今年の秋に」
「もう終わりかけだけど」
「だから」
私は缶を差し出す。
カツン。
「秋に」
「秋に」
最初の三十分は、仕事の愚痴を話した。
最近見た映画のこと。駅前にできた店のこと。
途中、私は何度かスマートフォンに手を伸ばしかける。
「メール、来てるかな」
「見ない」
「まだ見てないよ」
「今から見ようとした」
「通知だけ」
「見ない」
「厳しい」
「今日の仕事は秋を見ること」
「そんな案件あったっけ」
「報酬は紅葉」
「現物支給?」
「あとコーヒー」
「それは自腹」
スマートフォンを鞄へ戻す。
高層ビルが低い住宅に変わる。
住宅が畑に変わる。
遠かった山が、少しずつ近づいてくる。
窓の外が変わるたび、自分の中の速度もゆっくり落ちていく。
さらに一時間。
列車は山へ入った。
深い緑。
黄色。
橙。
赤。
「この景色なら、ダージリンのオータムナルかな」
「まだ紅茶の話するの?」
「秋摘みだから」
「秋ならコーヒーも美味しいし」
「コーヒーに秋摘みってある?」
「……知らない」
「勝った」
「何に?」
トンネルへ入る。
窓が黒くなる。
そこに、私たちの顔が並んで映った。
次の瞬間。
光。
トンネルを抜けた。
「あ……」
声が漏れる。
谷いっぱいに紅葉が広がっていた。
山肌を埋め尽くす赤。
燃えるような橙。
光を含んだ黄色。
その奥に残る深い緑。
谷底には、銀色の川。
「澪」
「うん」
「すごいね」
「うん」
それだけだった。
コーヒーも。
紅茶も。
もう、どうでもよかった。
私は毎日、色を扱っている。
RGB。CMYK。彩度。明度。色相。
必要なら、数値で指定できる。
でも、目の前の山は数字にならなかった。
赤の中に黄がある。
黄の中に緑がある。
一枚の葉の中ですら、端と中心で色が違う。
「写真撮る?」
悠斗が聞いた。
私はスマートフォンへ手を伸ばしかけて、やめた。
「今はいい」
「珍しい」
「今は、ただ見たい」
悠斗は何も言わなかった。
並んで、窓の外を見る。
列車が曲がるたび、新しい色が現れる。
やがて、目的地を告げるアナウンス。
ホームへ降りた瞬間、空気が変わった。
「寒っ!」
「だから言ったでしょ」
悠斗が笑いながらマフラーを外す。
「ほら」
「いいの?」
「風邪引かれるよりいい」
巻くと、まだ少し彼の体温が残っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ホームには、土と乾いた葉、それからどこか遠くで燃える薪の匂いがあった。
私は深く息を吸う。
「どうしたの?」
「匂い」
「秋の?」
「たぶん」
「ざっくりしてるなあ」
「言葉にできないものもあるの」
「イラストレーターらしい言い訳」
「褒めてる?」
「半分」
足元を葉が一枚、ころころと転がっていく。
それを追うように、私たちは歩き出した。
赤いモミジ。
苔のついた石。
古い郵便受け。
石垣の上で丸くなる猫。
私は何度も立ち止まる。
スケッチブックを開く。
「ごめん。また止まった」
「いいよ」
「退屈じゃない?」
「澪が描いてるとこ見るの好きだし」
「……そういうこと、さらっと言うよね」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
今度は悠斗が立ち止まる。
「何してるの?」
「この橋、昭和三十八年に架けられたんだって」
「へえ」
「興味ないでしょ」
「ない」
「即答」
「でも待つよ」
悠斗が振り返る。
「じゃあ、おあいこだね」
落ち葉を踏む音が二つ重なる。
同じリズムにはならない。
でも、離れもしない。
そのまま私たちは、秋の奥へ歩いていった。







