説明
気ままに温泉巡りをする女子大生の旅日記。
エピソード1
草津温泉駅。バスのステップを降りた瞬間、アイの五感は強烈な歓迎を受けた。
青空を背景に白く立ち上る膨大な湯煙。鼻腔を鋭く刺す、卵が腐ったような独特の硫黄の匂い。そして、平日だというのに駅前を埋め尽くしている、色とりどりの上着を着た観光客たちの喧騒。
「うわぁ……」
アイは小さく声を漏らし、引きずるようにしてリュックサックの紐を強く握りしめた。
アイは極度の恥ずかしがり屋だった。大学の講義ではいつも一番後ろの席に座り、教授と目が合いそうになるとサッと視線を伏せる。サークルの飲み会で「次どこ行く?」と聞かれれば、本当は終電で帰りたいのに「みんなが行く方でいいよ」と笑顔で流されてしまう。そんな臆病で押しに弱い自分に、いつも小さなコンプレックスを抱えていた。
アパートでの一人暮らしを始めてから、唯一見つけたささやかな息抜きが、この「気ままな一人旅」だった。誰にも気を遣わず、誰の顔色も窺わなくていい。そう思って、温泉の聖地と呼ばれる草津へやってきたのだが、到着早々、その熱気と人の多さに圧倒されていた。
(来るところを、間違えちゃったかも……)
すでに心は折れかけていたが、今さら引き返すバスもない。アイはなるべく目立たないよう、他人の視線の死角を探しながら、そろそろと温泉街の中心へと歩き出した。
坂道を下っていくと、急に視界が開けた。
草津温泉のシンボル、「湯畑」だ。
街の中央に鎮座する巨大な湯の池。エメラルドグリーンの源泉が、幾重にも並んだ木製の樋をトコトコと音を立てて流れていく。周囲にはもうもうと白い湯煙が立ち込め、まるでここだけ異世界のようだった。
しかし、その幻想的な景観の周りは、さらに凄まじい人だかりだった。
「ほら、こっち向いて!」
「湯畑を背景に一枚撮るよ!」
あちこちで自撮り棒が掲げられ、スマートフォンを向けた人々が行き交う。アイにとっては、四方八方に監視カメラが設置されているようなものだった。誰かのカメラの背景に自分が写り込んでしまわないか、誰かの邪魔になって「ちょっと退いて」と睨まれないか、そればかりが気になって生きた心地がしない。
アイは湯畑の景観をじっくり見ることもできず、スマートフォンの画面を見るフリをしながら、観光客の波を避けるようにして、路地の端っこをコソコソと這うように歩いた。
「はい、お姉さん! 伝統の湯もみ体験、ちょうど今から始まるよ! 旅の記念にどうだい!」
不意に、頭上から威勢のいい声が降ってきた。
見上げると、歴史を感じさせる木造二階建ての建物「熱乃湯」の前だった。お揃いの法被を着たスタッフの男性が、アイの目の前で満面の笑みを浮かべてパンフレットを差し出している。
「あ、いえ、私は……」
アイは慌てて首を横に振った。目立つことなど言語道断、大勢の人の前で何かを体験するなんて、恥ずかしさで爆発してしまう。
「せっかく草津に来たんだから、やっていかなきゃ損だよ! ほら、ちょうど一人分空きが出たから、今ならすぐ入れる!」
「でも、あの、本当に結構で――」
「さあさあ、どうぞ!」
ぐいぐいと背中を押され、アイは「結構です」の決定的な一言を言えないまま、流されるようにして建物の中へと引き込まれてしまった。
館内は、すり鉢状の観客席が二階までびっしりと人で埋まっていた。その中央、大きな湯船の周りに、アイを含めた数人の体験客が立たされる。観客たちの視線が一斉に自分たちに注がれるのを感じて、アイの心臓は早鐘を打ち始めた。顔がカッと熱くなり、胃のあたりがキリキリと痛み出す。
(どうしよう、逃げ出したい。みんなが私を見ている……)
スタッフから、長さ一メートル八十センチほどもある大きな木の板を手渡された。ずしりと重い。
「それでは皆さん、音楽に合わせて、元気に湯をもんでみましょう! せーの!」
伝統的な『草津節』の唄が流れ出す。
「草津よいとこ、一度はおいで、チョイナ、チョイナ……」
周りの体験客たちが、慣れない手つきで板を湯に入れ、バシャリと動かし始めた。アイもパニックになりながら、言われるがままに板を湯船に差し入れ、前後に動かす。
バシャバシャバシャ!
勢いよく湯が跳ね返り、真っ白な湯気が一気にアイの顔を覆った。
その瞬間、アイはハッとした。
湯気が濃すぎて、一メートル先にいる隣の体験客の顔すらまともに見えない。当然、客席にいる大勢の観客の顔も見えなかった。聞こえてくるのは、激しい湯の音と、立ち込める湯煙、そしてお腹に響くような唄声だけ。
(あ……そっか)
誰も、自分を凝視してなんていないのだ。みんな、この草津の湯の勢いと、お祭りのような熱気そのものを楽しんでいる。自分という存在は、この巨大な湯煙の中に完全に隠され、溶け込んでいる。
そう気づいた瞬間、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
アイは少しだけ腰を落とし、今度は自分の意思で、しっかりと板を握り直した。
「チョイナ、チョイナ」
口の中で小さく掛け声を真似てみる。木の板を通じて伝わってくるお湯の抵抗が、なんだかとても心地よかった。
湯もみ体験を終えて外に出ると、不思議と足取りが軽くなっていた。
お腹が空いていることに気づき、近くの蕎麦屋に入った。注文したのは、草津名物の「ひもかわうどん」だ。
運ばれてきたうどんを見て、アイは目を丸くした。一反木綿のようにつるりとした、驚くほど幅の広いうどん。それを箸で慎重に持ち上げ、濃いめのツユにつけて口に運ぶ。
「ん……!」
もちもちとした独特の食感と、喉を滑り落ちていく感覚。出汁の旨味が口いっぱいに広がる。お店の中も賑やかだったが、先ほどの湯もみのおかげか、不思議と周囲の目が気にならなくなっていた。美味しいものを美味しいと感じる、その当たり前の幸福に、アイは静かに浸っていた。
夕方になり、アイは予約していた宿の温泉へと向かった。
草津の湯は、自然湧出量が日本一。そして、強酸性という非常に強い泉質を持っている。「恋の病以外は治す」と言われるほどの高い効能が自慢だ。
浴場に入ると、やはりここにも濃密な硫黄の香りと湯気が満ちていた。
かけ湯をして、そろりと湯船に足を浸す。
「ひゃ……」
思わず声が出るほど、お湯は熱く、そしてピリピリとした刺激があった。肌の細かな傷に、お湯の成分がじきに染み込んでいくのがわかる。しかし、そのピリピリ感が、次第にじわじわとした快い温かさへと変わっていった。
湯船の隅っこに頭を預け、アイは大きく息を吐き出した。
お湯が自分の輪郭を優しく包み込んでくれる。日常の人間関係の疲れや、自分の不甲斐なさに悩む鬱屈とした気持ちが、この強い酸性のお湯によって、じりじりと殺菌されていくような気がした。
どれくらい経っただろうか。十分にかいた汗を流し、脱衣所でバスタオルで体を拭いていたときのことだ。
「あらぁ、お姉さん、いいお肌してるねぇ」
突然、背後からガラガラとした、しかし妙に温かみのある声が響いた。
アイがビクッとして振り返ると、そこには頭にタオルを乗せた、地元の人らしき元気なおばあちゃんが立っていた。肌はツヤツヤとしていて、見るからにエネルギーに満ち溢れている。
「あ、は、はい……ありがとうございます」
アイは急に恥ずかしさが戻ってき、体を小さく丸めてペコペコと頭を下げた。できればこのまま会話を終わらせて逃げ出したかったが、おばあちゃんの鋭い眼光はアイを逃さなかった。
「でも、なんだい。色白で綺麗なのに、ちょっと元気がなさそうだ。せっかくいいお湯に入ったのに、眉間に皺が寄ってるよ。なんだい、恋の病かい?」
「えっ!? ち、違います、そんなんじゃ……!」
あまりにも直球な質問に、アイは真っ赤になって手を振った。
「違わないよ。草津の湯はね、『恋の病以外は治す』って言うんだ。恋じゃないなら、体に悪いもんでも溜まってるのかい?」
おばあちゃんの、他人のプライベートに土足で踏み込んでくるような、しかし悪意の全くない勢いに、アイはすっかり圧倒されてしまった。いつもなら適当に話を合わせて逃げるところだが、温泉で心が解き放たれていたせいか、あるいは草津の湯の強い刺激に当てられたせいか、アイの口から、いつもは絶対に他人に言わない本音が、ポロリと溢れ出てしまった。
「……あの、私、すごく臆病で。恥ずかしがり屋で、いつも他人の目ばっかり気にして、周りの空気に流されてばかりなんです。そんな自分が、すごく嫌で……」
言ってから、アイは激しい後悔に襲われた。初対面の、しかも旅先のおばあちゃんに、何を重い相談をしているのだ。引かれてしまうに決まっている。
アイは俯き、ぎゅっとバスタオルを握りしめた。
しかし、おばあちゃんは呆れるどころか、カッカッカと豪快に笑い飛ばした。
「なんだい、そんなことかい! あんた、真面目だねぇ」
「え……?」
「いいかい、お姉さん。この草津のお湯を見てごらんよ。ピリピリして、酸性が強くて、最初はちょっと痛いだろう? でもね、だからこそ体に効くんだよ。人生だって同じさ。ずっと他人に合わせて、ぬるま湯に浸かってるだけじゃ、退屈だし自分を見失っちまう。たまにはね、このお湯みたいにピリッと自分の意見を主張したり、他人とぶつかったりするくらいの刺激がある方が、ちょうどいいんだよ」
おばあちゃんはそう言うと、アイの細い背中を、手のひらでパシィィン! と小気味よい音を立てて叩いた。
「ほら、シャキッとしな! あんたはあんたのままで、いいお湯なんだからさ!」
おばあちゃんはそれだけ言うと、扇風機の風を浴びながら、鼻歌混じりでさっさと脱衣所を出て行ってしまった。
残されたアイは、叩かれた背中のじんじんとした熱さと、おばあちゃんの言葉の余韻の中で、呆然と立ち尽くしていた。
(私自身のままで、いいお湯……)
不思議と、嫌な気持ちはしなかった。むしろ、お湯のピリピリ感が、まだ体の中で心地よく生きているように感じられた。
夜。アイは浴衣の上に羽織を重ね、再び湯畑へと足を運んだ。
昼間の喧騒とは一転して、夜の湯畑は幻想的なライトアップに彩られていた。湯気は夜の闇に白くくっきりと浮かび上がり、まるで紫や青の光を放つ魔法の霧のようだった。
周囲には相変わらず多くの観光客がいたが、夜の暗闇と、さらに濃くなった湯煙が、アイの姿を優しく隠してくれていた。
アイは、湯畑を囲む石の柵に近づき、そっと手をかけた。
立ち上る温かい湯気が、アイの頬を撫でていく。
押しに弱くて、流されやすい自分。それはすぐには直らないかもしれない。けれど、今日、あの湯もみの中で感じた「誰も自分を見ていない」という解放感や、おばあちゃんに背中を叩かれたときの熱さは、確かにアイの心に小さな小さな、けれど消えない杭を打ち込んでいた。
(たまには、ピリッとしてもいいのかもな)
アイは、夜の湯畑に向かって、誰にも気づかれないくらいの小さな声で呟いた。
周囲の観光客の自撮りの列を避けるとき、昼間のようにコソコソと俯くのではなく、すれ違う人とほんの一瞬だけ目を合わせ、小さく会釈をして通り過ぎることができた。
湯煙の中に身を隠しながら、アイは昼間よりも少しだけ、しっかりと胸を張って歩いていた。草津の熱いお湯が、彼女の臆病な心を、ほんの少しだけ芯から温めてくれたようだった。
最新エピソード
どん底の気分のまま、ホテルのベッドで目覚めた朝だった。
カーテンの隙間から差し込む大分の眩しい朝日が、かえってアイの心をちくちくと刺す。昨日のあのガイドの男に騙され、一万円を巻き
いわき湯本温泉から戻り、忙しない日常を過ごしていたアイだったが、彼女の心の中にある「気ままな一人旅」への情熱は、回を重ねるごとに確かなものへと育っていた。
「いつか、あの日本一の温
和歌山の白浜温泉から戻って数週間。日常生活は相変わらず慌ただしかったが、アイの心には、温泉の持つあの温かいぬくもりが静かに息づいていた。
「今度は、東北の方へ行ってみようかな」
愛媛の道後温泉の旅を終え、しばらくの間、日常の喧騒に追われていたアイだったが、あの古い歴史を持つお湯のぬくもりがずっと忘れられずにいた。
「今週末は、もう一つの歴史ある温泉に行って







