説明
戦国時代のくのいち、冬花。生きるか死ぬかの世界の闇の世界で生きる彼女は任務に失敗し、冬の海に落下する。死を覚悟した冬花が次に目を覚ましたのは異国の地、スペインだった。
エピソード1
喉の奥で血の味がする。
肺が膨らむたびに千切れるような激痛が胸部を走る。泥を跳ね上げる足はとうに感覚を失い、ただ前へ、前へと機械的に繰り出されるだけだ。
背後に迫る松明の灯りが、木々の隙間から獣の目のようにいくつも揺れている。
雨でぬかるんだ斜面を蹴り上がり、獣道を滑るように進む。右手が無意識に胸元を押さえた。懐の奥、布越しに伝わる硬い感触。小国の城の奥深く、三重のからくりを経てようやく奪い取った書状。これさえ持ち帰れば、里はあと数ヶ月、米と塩に困らずに済む。
それだけのための命だった。
「逃がすな!山がりだ、一匹残らず仕留めろ!」
遠くから怒号が木霊する。雨音を切り裂くように響く声に、唇を強く噛む。
すでに霞、幻六、小鳩の気配はない。
三十分前まで隣を走っていた仲間たちは、一人、また一人と暗闇に呑まれていった。罠を張り、血を撒き、自らの肉を囮にして追手の足を止めた。残されたのは、最も足の速い自分ただ一人。
背中の荷袋は空だ。撒菱も、毒煙の玉も、焙烙火矢も、すべて使い果たした。腰の手裏剣すら最後の一枚を幻六の絶命と同時に投げ切り、残るは刃こぼれした小太刀が一本のみ。
視界がふいに開けた。
叩きつけるような雨足の先、黒々とした闇がぱっくりと口を開けている。
海。
足元の土が崩れ落ち、轟音を立てて砕け散る波の音が真下から湧き上がってくる。断崖絶壁。
足先が虚空を蹴る寸前で、泥に爪を立てて立ち止まる。
荒れ狂う風が肩まで伸びた黒髪を顔に叩きつける。振り返る。
十数本の松明が一斉に森の端に姿を現した。火の粉が雨に濡れてジュッと音を立てる。
追手の兵たちが、半月状に広がりながらじりじりと間合いを詰めてくる。先頭の数人が、筒状の黒い鉄を構える。火縄銃だ。
「撃てぇぇ!」
号令。
火蓋が切られる音がした。
身を沈め、泥を蹴って跳躍。
直後、空気を切り裂く鋭い破裂音が連続して轟く。耳元を不可視の塊が通り過ぎ、背後の虚空を薙いだ。熱風が頬を焼き、髪の毛が数本焦げて飛ぶ。
泥の上で転がり、体勢を低く保ったまま軌道を変える。弾丸の装填には時間がかかる。その隙に森へ飛び込めば。
二列目の兵が前に出た。
膝をつき、すでに火のついた火縄を筒に押し当てる。
早撃ちの二段構え。
予測が遅れた。右足で地を蹴ろうとした瞬間、視界が真っ白に染まった。
雷鳴のような銃声。
直後、肩口を熱した鉄串で貫かれたような衝撃が走る。
「うっ……!」
声が漏れるより先に、体が独楽のように弾け飛んだ。
熱い。熱い。
鎖骨の下、右の肩口から肉が弾け飛び、骨が軋む嫌な音が頭蓋に響く。
泥にまみれてもがく。立ち上がろうとする。左手で地面を押し返す。
さらに三発。四発。
腹の横、左の太もも、背中の浅い部分。
次々と肉を抉る鉛玉の衝撃。焼けるような熱と同時に、全身の力が一本の糸を切られたように抜け落ちていく。
「あぅっ……!! あぁっ……!!」
膝が折れる。体が傾く。
ぐらりと、視界の天地がひっくり返った。
足元にはもう、這いつくばる泥すらない。
虚空。
風の音が消えた。迫り来る松明の火も、兵たちの怒号も、遥か頭上へと遠ざかっていく。
重力に引かれ、真っ暗な海へと落ちていく。
不思議と、恐れはなかった。
全身をあますところなく焼く激痛すら、風の中に溶けていくように遠い。
視界の端で、千切れた黒髪がゆっくりと空へ舞い上がっていくのが見える。
ああ、これで。
終わるのだ。
里の掟。命は使い捨ての駒。決して名を残さず、感情を持たず、ただ役目を果たして死んでいく。そのために、生まれてからずっと血を吐くような鍛錬を重ねてきた。
明日生きているかどうかもわからない日々。冷たい握り飯を飲み込み、血の匂いの染み付いた布団で眠る。誰の命令で、誰のために殺すのかもわからないまま、刃を振るってきた。
懐の書状も、この海の底に沈んでしまえば何も意味を為さない。
楽になれる。
もう、走らなくていい。隠れなくていい。誰の顔色を窺うことも、息を殺して夜を明かすこともない。幻六も、小鳩も、先にこの泥沼から抜け出していった。
天国なのか地獄なのか。血まみれの自分が行き着く先など知れている。あの暗く冷たい底で、また皆に会えるのだろうか。
背中から、氷柱のような冷たさが激突してきた。
痛覚が麻痺する以上の凄まじい衝撃。
海水が、鼻腔を、喉を、容赦なく塞ぐ。
ごぼごぼと泡が浮かび上がり、視界は完全な黒に塗りつぶされた。
底へ。さらに深い底へ。
身体中の傷口から命の熱が海へと溶け出し、意識がゆっくりと糸を引いて消えていく。
暗い。冷たい。そして、どこまでも静かだった。
◆
揺れている。
水底の暗闇の中で、ひたすらに揺られている。
木の軋む音。絶え間なく打ち付ける水の響き。
誰かの声がする。荒々しく、怒鳴るような、あるいは歌うような。聞いたことのない響きだ。獣の鳴き声にも、鳥のさえずりにも似ていない。
口の端から、ひどく苦い液体を流し込まれる。
咳き込む。吐き出そうとするが、強引に顎を押さえられ、喉の奥へと流し込まれる。
燃えるような痛みが肩や腹を走る。
傷口を何かで擦られ、焼け火箸を押し当てられたような激痛。
声の出ない叫びをあげる。
深い闇の中に、また落ちていく。沈む。浮かぶ。波の音。タールの匂い。汗。埃。
ここはどこだ。
あの冷たい海の底では、ないのか。
◆
光。
瞼の裏がじりじりと熱い。
刺すような明るさに、重い瞼をわずかに持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、眩しいほどの白だった。
木目も節もない、平らで白い天井。
首を巡らせる。
日本の家屋とは異なる。障子も畳もない。分厚い石や煉瓦で囲まれた部屋の壁には、真っ白な漆喰が塗られている。窓にはめ込まれた透き通った板。そこから、突き刺さるような陽光が部屋全体を照らし出している。
「……つぅ……!」
体を起こそうとして、肩口から雷のような激痛が走った。
奥歯を強く噛み締め、呼吸を止める。
痛みがある。痛覚が残っている。
死後の世界では四肢の苦しみから解放されると、寺の坊主が語っていた。嘘だ。これほど生々しい痛みがあるはずがない。
自分の体を見下ろす。
見慣れた黒の忍び装束はない。代わりに、ひどく肌触りの良い、ふわりとした白い布地の衣服を着せられている。胸元には細やかな刺繍まで施してある。
痛みの走る右肩、そして腹部に手を当てる。
何重にも、白い布がきつく巻きつけられている。手ぬぐいではない。もっと織りの細かい、見知らぬ布地だ。傷口からはうっすらと古い血の匂いと、独特の強い薬草の匂いが漂う。
寝台。
板の間ではなく、ふかふかとした、動物の毛や柔らかい草を限界まで詰め込んだような四角い台の上で寝かされていた。掛けられている毛布も、羊の毛を編み込んだような厚みがある。
全てが異質。
全てが未知。
死後の世界。
ここは、六道のはざまか。
見たこともない造りの部屋。嗅いだことのない匂い。光の差し方すら、日本のそれとはどこか違う。乾ききった風が、透き通る板の向こうで葉を揺らしている。
扉の開く音がした。
瞬時に呼吸を殺す。痛みを奥歯でねじ伏せ、全身の筋肉を硬直させる。
寝台の横に身を滑らせ、武器を探す。小太刀はない。身につけていたはずの暗器もすべて取り上げられている。指先が虚しくシーツを引っ掻く。
入ってきたのは、二人。
「!!☆○△☆☆!!」
「□○◎!!☆△」
声。
まったく耳馴染みのない、舌を巻くような、弾くような破裂音の連続。
人語なのかすら疑わしい。
一人は小柄な女で、白い頭巾のようなものを被り、裾の長い暗い色の服を着ている。手には木の器と、湯気を立てる白い布。
もう一人は、顎に濃い髭を蓄えた大柄な男。腰には革の帯を巻き、柄の透かし彫りが施された長剣を提げていた。
目を見開いたまま、寝台の端で身構える。
女がこちらを見て、あっと声を上げた。手にしていた木の器を盆に置き、慌てたように何かをまくしたてながら近づいてくる。
その手には何も持っていないが、男の方は警戒したように腰の剣に手をかけた。
「来ないで」
枯れ果てた喉から、掠れた声が漏れた。
女は立ち止まらずに、さらに何かを優しげな口調で言いながら手を伸ばしてくる。
その手首を払いのける。いや、払いのけようとして、腕が上がらなかった。
痛みに体を丸める。
「⋯⋯あの、ここは?」
問いかける。もちろん、通じるはずがない。
女は言葉の通じない動物を宥めるような表情を浮かべ、男の方を振り返った。男は肩をすくめ、開け放たれた扉の外に向かって、誰かを手招きしている。
コツ、コツ、コツ。
硬い靴底が、石の床を叩く足音が近づいてくる。
足音の主が扉を潜り、部屋に入ってきた。
思わず、息を呑む。
そこに立っていたのは、おおよそ人間離れした、あるいは歌舞伎の舞台から抜け出してきたような派手な出立ちの男だった。
栗色の癖のある髪。わずかに日焼けした色黒の肌。
襟元が大きく開いた、深い緑と金糸で彩られた上着。首回りには白い襞襟が花びらのように装飾され、足元には革の長靴。腰には、先ほどの護衛の男よりもはるかに豪奢な柄の剣が下げられている。
その男は、寝台の傍で警戒心を剥き出しにするこちらを見ると、薄い唇の端を吊り上げて、極めて柔和な笑みを浮かべた。
「君、ジャポネンス……日本人だろ?」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
その男の口から紡がれたのは、間違いのない日本語だった。
言い回しこそどこかくぐもっているものの、はっきりと意味の通じる言葉。
「よかった。無事に目を覚ましたみたいだね。言葉、通じてるかな?」
理解が追いつかない。
異界の住人が、なぜ自分の言葉を話すのか。
栗毛の優男の瞳は、底知れぬほど深く、同時に底抜けに明るい。その視線は、傷ついて怯える獲物を観察するようでもあり、貴重な宝物を愛でるようでもあった。
「あの、ここは……?」
二度目の問い。喉が震えているのがわかった。
優男は、大袈裟な身振りで両手を広げた。金糸の袖が光を反射して輝く。
「ここはスペインだよ」
すぺいん。
音が、脳内で何度も木霊する。
「僕はアンドレ・デ・アギール。日本と交易した帰りの船で、海に浮かぶ君を拾ったんだ」
アンドレ。交易。船。海。
言葉の破片が、頭の中で少しずつ形を成していく。
ポルトガル。南蛮。イスパニア。
くのいちとして大名の密談を天井裏で聞いていた時、幾度となく耳にした単語。異国からやってくる巨大な黒い船。火縄銃や火薬をもたらす、見たこともない風貌の商人たち。
ここは、死後の国などではない。
天国でも、地獄でもない。
「そんな、まさか……」
ひゅう、と息を吸い込む。傷ついた肺が悲鳴を上げる。
生きている。
あの鉛玉を何発も食らい、冬の海に沈み、それでも生き延びたのだ。
何日、いや何ヶ月、あの暗い波の上を越えてきたというのか。
目の前のアンドレと名乗る男は、ニコニコと、ひどく機嫌の良さそうな笑みを浮かべたままこちらを見下ろしている。
その笑顔の裏にどれほどの計算が隠されているのか、まだ知る由もない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
里の仲間たちは死んだ。
あの泥濘みの中で、名もなき死体として朽ち果てた。
そして自分は、地の果てとも言うべき未知の異国で、呼吸をしている。
窓の外から、潮の香りを孕んだ風が吹き込んでくる。
それは、血と泥の匂いしか知らなかったくのいち冬花の、二度目の生が産声を上げた瞬間だった。
最新エピソード
足裏を濡らす湿った苔の感触も、肌にまとわりつく夜気も、すべてが毒のように重い。
黒い森。
忍びとして生きてきた半生で、これほどまでに己の理を疑った夜はなかった。気配を探る、風
背後でマルタが何かを叫んでいる。引き止める声か、あるいは祈りか。今の冬花には、それが遠い異国の鳥の鳴き声のようにしか聞こえない。
手が、慣れ親しんだ感触を求めて
銀色の徽章が、重い。
冬花は、磨き抜かれたそれを手のひらでそっと包み込む。艦隊司令官の証。まだ正式な辞令は下りていないが、アンドレの胸にこれが飾られる日は近い。
地響きが、足裏から膝へ、そして背骨へと突き抜けた。
「放てぇ!」
アンドレの鋭い叫び声と同時に、四門の青







