SeaArt AI Novel
APP
ホーム  / 黒十字と白い祈り
黒十字と白い祈り

黒十字と白い祈り

更新日時: 2026-06-17 01:42:17
言語:  日本語4+
4.8
4 評価
13
エピソード数
64.7k
人気度
78k
合計文字数
読む
+ 本棚に追加
シェア:
通報

説明

『黒十字と白い祈り』は、Bloom of BlooDの物語としては『6月の吸血鬼』に続く第2作です。 作品の時系列としては、AERIAL HOUNDの始まりを描く『名もなき音が、空に恋した』、Bloom of BlooDの始まりを描く『6月の吸血鬼』、そして本作『黒十字と白い祈り』へと続いていきます。


白藤学園の音楽室で、Bloom of BlooDの鍵盤を担当するChris。 彼女はいつも穏やかで、仲間たちの音を静かに支えている。


けれど、ある日音楽室に現れた一人の少女によって、Chrisが隠していた過去が明らかになる。 かつて彼女は、名門退魔師の家で「黒十字」と呼ばれていた。


正しくあること。 誰かを守ること。 そのつもりで選んだはずの道が、いつか大切な声を聞けなくしていた。


置いてきた記憶と向き合うChris。 戸惑いながらも歌おうとするErika。 そして、まだ許せない想いを抱えたまま音楽室を訪れるAlice。


これは、黒十字と呼ばれた少女が、過去を消すのではなく抱えたまま、Chrisとして音を鳴らしていく物語。


エピソード1

 雨上がりの音楽室には、まだ音の匂いが残っていた。

 窓の外では、六月の雲がゆっくりと流れている。校庭の水たまりには、白藤学園の校舎が少し歪んで映っていた。さっきまで降っていた雨の名残が、窓枠を伝って、細い線になって落ちていく。

 音楽室の中は、誰もいない。

 ついさっきまで、ここには五人分の音があった。

 雪のドラムが、雨粒みたいに細かく刻んでいた。結菜のベースが、その下にしっかりと床を作っていた。桜のギターは、少しだけ前に出すぎるくらい明るくて、でも不思議と寂しさも連れていた。

 そしてChrisの鍵盤。

 正確で、静かで、でも今日は少しだけ柔らかかった。

 そこに、自分の声が乗った。

 まだ完璧な演奏ではなかった。途中で音は揺れたし、桜は一度テンポを走らせたし、結菜は眉間にしわを寄せた。雪は「今の二拍目、少し迷子」とだけ言って、Chrisは小さく笑った。

 それでもErikaは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。

 自分の声が、一人ではなかったからだ。

 忘れ物に気づいたのは、校門へ向かう途中だった。

「あっ」

 思わず声が出て、隣を歩いていた桜が振り返った。

「どうしたの、Erikaちゃん。吸血鬼の本能でも反応した?」

「違います。歌詞ノートを忘れました」

「あー、『雨に映える花』の?」

 そのタイトルを桜が口にした瞬間、Erikaの胸の奥がまた少しだけ揺れた。

 十一年前の雨上がり。
 公園。
 紫陽花。
 そして、名前も聞けなかった“王子様”。

 今はもう、王子様と呼ぶには少し違うと分かっている。けれど、あの記憶から生まれた歌が、音楽室に置き去りになっているのは落ち着かなかった。

「取ってきます。先に帰っていてください」

「一緒に行こうか?」

「大丈夫です。すぐ戻りますから」

 桜は少し考えたあと、わざとらしく笑った。

「じゃあ、吸血鬼ちゃんが夜にさらわれないように、五分だけ待ってあげる」

「さらわれません」

「分からないよ。六月の吸血鬼って噂、けっこう有名だし」

「その噂を広げて楽しんでいる人に言われたくありません」

「えー、私はかわいがってるだけだよ」

 結菜が横から桜の襟首をつかんだ。

「行きますよ、桜」

「はいはい。Erikaちゃん、五分ね」

「十六歳の歩幅で急ぎます」

「吸血鬼の足じゃないんだ」

「今日は人間社会に合わせています」

 そう言って別れてから、Erikaは一人で校舎へ戻った。

 放課後の廊下は静かだった。雨上がりの湿った匂いと、ワックスの匂いが混ざっている。窓の向こうでは、運動部の声が遠く聞こえた。けれど音楽室へ近づくにつれ、その声も少しずつ薄くなる。

 音楽室の扉を開けると、鍵盤の上に夕方の光が落ちていた。

 譜面台の横に、赤い表紙のノートがある。

「あった……」

 Erikaはほっと息をつき、ノートを手に取った。

 表紙には、まだ仮の文字で『雨に映える花』と書かれている。桜の字と、自分の字が混ざっていた。ところどころに結菜の注意書きがあり、雪が聞き取ったリズムのメモもある。Chrisの小さな書き込みは、音符の隙間に控えめに置かれていた。

 五人で作っている、未完成の歌。

 Erikaはそのノートを胸に抱えた。

「……悪くありません。吸血姫の眷属たちとしては、まだ荒削りですけれど」

 言ってから、すぐに顔が熱くなる。

「……誰も聞いていませんよね」

 その時だった。

 音楽室の扉が、静かに開いた。

 Erikaは振り返った。

 そこに立っていたのは、白い少女だった。

 白を基調にした服。整った姿勢。薄い光を受けた髪。どこかChrisに似ている。けれど、Chrisの静けさとは違う。

 祈りをそのまま人の形にしたような、清らかで、冷たい静けさ。

 少女はErikaを見た。

 その目が、一瞬で何かを判断した。

「……吸血鬼」

 Erikaの指が、ノートの表紙を強く握る。

 その呼び方には、校内の噂のような軽さがなかった。

 面白がっているわけではない。怖がっているわけでもない。珍しいものを見る目でもない。

 目の前の少女は、ただ確認したのだ。

 対象を、見つけたように。

 Erikaは喉の奥が少し乾くのを感じた。けれど、そのまま黙っているのも悔しかった。高貴に、堂々と、いつものように言い返そうとする。

「人の子よ、我をそのように呼ぶとは――」

 言葉は、最後まで続かなかった。

 少女の目が、まったく揺れなかったからだ。

 ふざけている空気ではない。
 これは、噂ではない。
 物語の中のごっこでもない。

 Erikaの中の、吸血鬼としての何かが、警鐘を鳴らした。

 白い少女は一歩、音楽室へ入ってくる。

「抵抗しなければ、痛みは最小限にします」

「……何を、言っているのですか」

 Erikaの声は、自分でも分かるくらい硬かった。

 少女は答えない。

 ただ、右手を胸の前に上げた。指先が小さく十字を切る。白い札のようなものが、その手の中に現れた気がした。光ではない。火でもない。けれど、音楽室の空気が一瞬で張りつめる。

 鍵盤が、ほんのわずかに鳴った。

 触れた者はいないはずなのに。

 Erikaは後ずさりしそうになり、それを必死にこらえた。

 怖い。

 その言葉を認めた瞬間、胸の奥が冷える。

 相手は自分を、噂の吸血鬼として見ているのではない。
 本物の吸血鬼として、見ている。

 白い札が、かすかに震える。

 少女が口を開いた、その瞬間。

「その手を下ろしなさい、Alice」

 鋭い声が、音楽室を切った。

 Erikaは息を呑んだ。

 扉の外に、Chrisが立っていた。

 いつもの穏やかなChrisではなかった。声を荒げているわけではない。表情も大きく崩れてはいない。けれど、その静けさの奥に、Erikaが今まで聞いたことのない硬さがあった。

 白い少女――Aliceは、ゆっくりとChrisを見る。

「……黒十字」

 音楽室の空気が、また変わった。

 Erikaは、その言葉を聞き取った。

「黒……十字?」

 Chrisの表情が、わずかに硬くなる。

「その名前で呼ばないで」

 Aliceは、まるでその反応を最初から知っていたように、静かに瞬きをした。

「知らなかったのですか」

 その視線が、Erikaへ向けられる。

「あなたの隣にいるその人は、ただのCrossfordではありません」

 Erikaは何も言えなかった。

 Crossford。

 その名前は知っている。吸血鬼や退魔に関わる者なら、一度は聞く名前。Chrisがその家の出身だと知った時も、怖くなかったわけではない。

 でもChrisは、家を出た人だと言った。
 もう、その仕事をするつもりはないと言った。
 鍵盤を弾く人だと、Erikaは思っていた。

 Aliceの声が、静かに落ちる。

「黒十字。Crossford家の最高傑作。歴代最強と呼ばれた退魔師です」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 いや、理解したくなかった。

 最高傑作。
 歴代最強。
 退魔師。

 その言葉が、Chrisの指と重なった。

 いつも鍵盤に触れていた指。
 Erikaの声が揺れた時、そっと隣に置かれていた音。

 その指が、かつては自分のような存在を祓うために育てられていたのだと、Aliceは言っている。

 Chrisは、Erikaの前へ出た。

 その背中は細い。けれど、決して揺れなかった。

「その子は、獲物じゃないわ」

 Aliceは目を細める。

「吸血鬼です」

「私の仲間よ」

 短い言葉だった。

 それだけだった。

 けれどErikaの胸に、痛いほど響いた。

 Chrisの声は、嘘ではなかった。迷いもなかった。

 私の仲間。

 そう言ってくれた。

 それなのに。

 Erikaの中で、何かがうまく重ならない。

 鍵盤の前のChris。
 穏やかに笑うChris。
 自分の歌を待ってくれるChris。

 そして、黒十字。

 自分を狩ることができたかもしれない人。

 Aliceは、Chrisを見つめたまま言った。

「黒十字が、吸血鬼を仲間と呼ぶのですか」

「ええ」

 Chrisは、迷わず答えた。

 Aliceはしばらく沈黙した。

 その沈黙の中に、怒りだけではないものがある気がした。寂しさ。失望。痛み。置いていかれた人の、白く凍った祈り。

 やがてAliceは、手を下ろした。

「今日は、ここまでにします」

 Erikaは息を吐くこともできなかった。

 AliceはChrisへ視線を戻す。

「あなたが何を失ったのか、分かっているのですか」

 Chrisは答えない。

 Aliceは次に、Erikaを見た。

「次に会う時までに、考えておいてください」

 その声は、刃のように静かだった。

「あなたの隣にいる人が、何者だったのかを」

 Aliceはそう言って、音楽室を出ていった。

 足音が廊下に消える。

 音楽室には、雨上がりの光と、止まったままの空気だけが残った。

 Erikaは、まだノートを抱えたままだった。指先が冷たい。息をするのが少し難しい。

 Chrisはゆっくりと振り返る。

「Erika」

 いつもの声だった。

 少なくとも、そう聞こえるはずだった。

 けれどErikaの耳には、さっきの名前が残っていた。

 黒十字。

 Chrisが一歩、近づこうとした。

 その瞬間、Erikaの足が、勝手に後ろへ下がった。

 一歩。

 たった一歩だった。

 けれど、その一歩で、Chrisの動きが止まった。

 Erikaは自分のしたことに気づき、顔から血の気が引いた。

「違うんです、Chris。私は……」

 言葉が続かなかった。

 違う。嫌いになったわけではない。責めたいわけでもない。Chrisが自分を仲間と言ってくれたことは、ちゃんと分かっている。

 それでも、体が先に怖がってしまった。

 Chrisは、静かに目を伏せた。

「……そうよね」

 その声が、痛かった。

「いいの。怖いと思うのは、当然よ」

「違います」

 Erikaは首を振る。

 けれど、何が違うのかを言葉にできなかった。

 怖かった。
 それは本当だった。

 でも、それだけではなかった。

 自分を守ろうとしてくれた人を怖がってしまったことが、怖かった。
 Chrisがどこか遠くへ行ってしまう気がして、それも怖かった。

 窓の外で、雲の切れ間から薄い光が差した。

 鍵盤の白い部分が、雨上がりの光を受けてかすかに光る。

 けれど、その音は鳴らない。

 Erikaは胸に抱えたノートを見下ろした。

 赤い表紙。
 未完成の歌。
 五人で作り始めたばかりの居場所。

 その日、音楽室に残ったのは、雨の匂いと、まだ鳴らない鍵盤と、言葉にできない一歩だった。

 Chrisは何も言わなかった。

 Erikaも、何も言えなかった。

 ただ、六月の夕方だけが、二人の間に静かに降りていた。

評価とレビュー

人気
新着

おすすめ作品

作品タイトル:『身代わりの花嫁は、北嶺の風に溶ける ―氷の公爵と秘密の薬草茶―』

作品タイトル:『身代わりの花嫁は、北嶺の風に溶ける ―氷の公爵と秘密の薬草茶―』

作者:行動哲学
「姉の代わりに、あの『死神公爵』の元へ嫁げ」 没落寸前の貴族・神代家の次女、陽葵(ひまり)に下されたのは、非情な命令だった。 結婚式の当日に恋人と駆け落ちした美貌の姉・小夜。家を守るため、地味で日陰者だった妹の陽葵は、顔をベールで隠し、姉の「身代わり」として極北の地・アシュクロフト領へと向かう。 待ち受けていたのは、凍てつくような吹雪と、「氷の心臓を持つ男」と恐れられる公爵レオンハルト。 「愛など期待するな」と冷たく突き放される陽葵だったが、彼女は絶望しなかった。得意の薬草の知識と温かい手料理で、荒廃した城と領民たちの心を、少しずつ解かしていく。 次第に距離を縮めていく二人。しかし、偽りの幸せは長くは続かない。 すべてを失った姉・小夜が、再び「公爵夫人の座」を奪い返すために現れたのだ。 「そいつは偽物よ! 本物の婚約者は、この私なの!」 暴かれる正体、突きつけられる真実。 名前を偽り、彼を騙し続けていた陽葵が下す決断とは? そして、孤独な公爵が最後に選ぶ「真実の愛」の形とは——。 冬を越え、春の訪れと共に奇跡が起きる。 孤独な二人が真実の居場所を見つける、王道のシンデレラ・ストーリー。
41.4k
0
作品タイトル:『身代わりの花嫁は、北嶺の風に溶ける ―氷の公爵と秘密の薬草茶―』
4.6