説明
『黒十字と白い祈り』は、Bloom of BlooDの物語としては『6月の吸血鬼』に続く第2作です。 作品の時系列としては、AERIAL HOUNDの始まりを描く『名もなき音が、空に恋した』、Bloom of BlooDの始まりを描く『6月の吸血鬼』、そして本作『黒十字と白い祈り』へと続いていきます。
白藤学園の音楽室で、Bloom of BlooDの鍵盤を担当するChris。 彼女はいつも穏やかで、仲間たちの音を静かに支えている。
けれど、ある日音楽室に現れた一人の少女によって、Chrisが隠していた過去が明らかになる。 かつて彼女は、名門退魔師の家で「黒十字」と呼ばれていた。
正しくあること。 誰かを守ること。 そのつもりで選んだはずの道が、いつか大切な声を聞けなくしていた。
置いてきた記憶と向き合うChris。 戸惑いながらも歌おうとするErika。 そして、まだ許せない想いを抱えたまま音楽室を訪れるAlice。
これは、黒十字と呼ばれた少女が、過去を消すのではなく抱えたまま、Chrisとして音を鳴らしていく物語。
エピソード1
雨上がりの音楽室には、まだ音の匂いが残っていた。
窓の外では、六月の雲がゆっくりと流れている。校庭の水たまりには、白藤学園の校舎が少し歪んで映っていた。さっきまで降っていた雨の名残が、窓枠を伝って、細い線になって落ちていく。
音楽室の中は、誰もいない。
ついさっきまで、ここには五人分の音があった。
雪のドラムが、雨粒みたいに細かく刻んでいた。結菜のベースが、その下にしっかりと床を作っていた。桜のギターは、少しだけ前に出すぎるくらい明るくて、でも不思議と寂しさも連れていた。
そしてChrisの鍵盤。
正確で、静かで、でも今日は少しだけ柔らかかった。
そこに、自分の声が乗った。
まだ完璧な演奏ではなかった。途中で音は揺れたし、桜は一度テンポを走らせたし、結菜は眉間にしわを寄せた。雪は「今の二拍目、少し迷子」とだけ言って、Chrisは小さく笑った。
それでもErikaは、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
自分の声が、一人ではなかったからだ。
忘れ物に気づいたのは、校門へ向かう途中だった。
「あっ」
思わず声が出て、隣を歩いていた桜が振り返った。
「どうしたの、Erikaちゃん。吸血鬼の本能でも反応した?」
「違います。歌詞ノートを忘れました」
「あー、『雨に映える花』の?」
そのタイトルを桜が口にした瞬間、Erikaの胸の奥がまた少しだけ揺れた。
十一年前の雨上がり。
公園。
紫陽花。
そして、名前も聞けなかった“王子様”。
今はもう、王子様と呼ぶには少し違うと分かっている。けれど、あの記憶から生まれた歌が、音楽室に置き去りになっているのは落ち着かなかった。
「取ってきます。先に帰っていてください」
「一緒に行こうか?」
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
桜は少し考えたあと、わざとらしく笑った。
「じゃあ、吸血鬼ちゃんが夜にさらわれないように、五分だけ待ってあげる」
「さらわれません」
「分からないよ。六月の吸血鬼って噂、けっこう有名だし」
「その噂を広げて楽しんでいる人に言われたくありません」
「えー、私はかわいがってるだけだよ」
結菜が横から桜の襟首をつかんだ。
「行きますよ、桜」
「はいはい。Erikaちゃん、五分ね」
「十六歳の歩幅で急ぎます」
「吸血鬼の足じゃないんだ」
「今日は人間社会に合わせています」
そう言って別れてから、Erikaは一人で校舎へ戻った。
放課後の廊下は静かだった。雨上がりの湿った匂いと、ワックスの匂いが混ざっている。窓の向こうでは、運動部の声が遠く聞こえた。けれど音楽室へ近づくにつれ、その声も少しずつ薄くなる。
音楽室の扉を開けると、鍵盤の上に夕方の光が落ちていた。
譜面台の横に、赤い表紙のノートがある。
「あった……」
Erikaはほっと息をつき、ノートを手に取った。
表紙には、まだ仮の文字で『雨に映える花』と書かれている。桜の字と、自分の字が混ざっていた。ところどころに結菜の注意書きがあり、雪が聞き取ったリズムのメモもある。Chrisの小さな書き込みは、音符の隙間に控えめに置かれていた。
五人で作っている、未完成の歌。
Erikaはそのノートを胸に抱えた。
「……悪くありません。吸血姫の眷属たちとしては、まだ荒削りですけれど」
言ってから、すぐに顔が熱くなる。
「……誰も聞いていませんよね」
その時だった。
音楽室の扉が、静かに開いた。
Erikaは振り返った。
そこに立っていたのは、白い少女だった。
白を基調にした服。整った姿勢。薄い光を受けた髪。どこかChrisに似ている。けれど、Chrisの静けさとは違う。
祈りをそのまま人の形にしたような、清らかで、冷たい静けさ。
少女はErikaを見た。
その目が、一瞬で何かを判断した。
「……吸血鬼」
Erikaの指が、ノートの表紙を強く握る。
その呼び方には、校内の噂のような軽さがなかった。
面白がっているわけではない。怖がっているわけでもない。珍しいものを見る目でもない。
目の前の少女は、ただ確認したのだ。
対象を、見つけたように。
Erikaは喉の奥が少し乾くのを感じた。けれど、そのまま黙っているのも悔しかった。高貴に、堂々と、いつものように言い返そうとする。
「人の子よ、我をそのように呼ぶとは――」
言葉は、最後まで続かなかった。
少女の目が、まったく揺れなかったからだ。
ふざけている空気ではない。
これは、噂ではない。
物語の中のごっこでもない。
Erikaの中の、吸血鬼としての何かが、警鐘を鳴らした。
白い少女は一歩、音楽室へ入ってくる。
「抵抗しなければ、痛みは最小限にします」
「……何を、言っているのですか」
Erikaの声は、自分でも分かるくらい硬かった。
少女は答えない。
ただ、右手を胸の前に上げた。指先が小さく十字を切る。白い札のようなものが、その手の中に現れた気がした。光ではない。火でもない。けれど、音楽室の空気が一瞬で張りつめる。
鍵盤が、ほんのわずかに鳴った。
触れた者はいないはずなのに。
Erikaは後ずさりしそうになり、それを必死にこらえた。
怖い。
その言葉を認めた瞬間、胸の奥が冷える。
相手は自分を、噂の吸血鬼として見ているのではない。
本物の吸血鬼として、見ている。
白い札が、かすかに震える。
少女が口を開いた、その瞬間。
「その手を下ろしなさい、Alice」
鋭い声が、音楽室を切った。
Erikaは息を呑んだ。
扉の外に、Chrisが立っていた。
いつもの穏やかなChrisではなかった。声を荒げているわけではない。表情も大きく崩れてはいない。けれど、その静けさの奥に、Erikaが今まで聞いたことのない硬さがあった。
白い少女――Aliceは、ゆっくりとChrisを見る。
「……黒十字」
音楽室の空気が、また変わった。
Erikaは、その言葉を聞き取った。
「黒……十字?」
Chrisの表情が、わずかに硬くなる。
「その名前で呼ばないで」
Aliceは、まるでその反応を最初から知っていたように、静かに瞬きをした。
「知らなかったのですか」
その視線が、Erikaへ向けられる。
「あなたの隣にいるその人は、ただのCrossfordではありません」
Erikaは何も言えなかった。
Crossford。
その名前は知っている。吸血鬼や退魔に関わる者なら、一度は聞く名前。Chrisがその家の出身だと知った時も、怖くなかったわけではない。
でもChrisは、家を出た人だと言った。
もう、その仕事をするつもりはないと言った。
鍵盤を弾く人だと、Erikaは思っていた。
Aliceの声が、静かに落ちる。
「黒十字。Crossford家の最高傑作。歴代最強と呼ばれた退魔師です」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
最高傑作。
歴代最強。
退魔師。
その言葉が、Chrisの指と重なった。
いつも鍵盤に触れていた指。
Erikaの声が揺れた時、そっと隣に置かれていた音。
その指が、かつては自分のような存在を祓うために育てられていたのだと、Aliceは言っている。
Chrisは、Erikaの前へ出た。
その背中は細い。けれど、決して揺れなかった。
「その子は、獲物じゃないわ」
Aliceは目を細める。
「吸血鬼です」
「私の仲間よ」
短い言葉だった。
それだけだった。
けれどErikaの胸に、痛いほど響いた。
Chrisの声は、嘘ではなかった。迷いもなかった。
私の仲間。
そう言ってくれた。
それなのに。
Erikaの中で、何かがうまく重ならない。
鍵盤の前のChris。
穏やかに笑うChris。
自分の歌を待ってくれるChris。
そして、黒十字。
自分を狩ることができたかもしれない人。
Aliceは、Chrisを見つめたまま言った。
「黒十字が、吸血鬼を仲間と呼ぶのですか」
「ええ」
Chrisは、迷わず答えた。
Aliceはしばらく沈黙した。
その沈黙の中に、怒りだけではないものがある気がした。寂しさ。失望。痛み。置いていかれた人の、白く凍った祈り。
やがてAliceは、手を下ろした。
「今日は、ここまでにします」
Erikaは息を吐くこともできなかった。
AliceはChrisへ視線を戻す。
「あなたが何を失ったのか、分かっているのですか」
Chrisは答えない。
Aliceは次に、Erikaを見た。
「次に会う時までに、考えておいてください」
その声は、刃のように静かだった。
「あなたの隣にいる人が、何者だったのかを」
Aliceはそう言って、音楽室を出ていった。
足音が廊下に消える。
音楽室には、雨上がりの光と、止まったままの空気だけが残った。
Erikaは、まだノートを抱えたままだった。指先が冷たい。息をするのが少し難しい。
Chrisはゆっくりと振り返る。
「Erika」
いつもの声だった。
少なくとも、そう聞こえるはずだった。
けれどErikaの耳には、さっきの名前が残っていた。
黒十字。
Chrisが一歩、近づこうとした。
その瞬間、Erikaの足が、勝手に後ろへ下がった。
一歩。
たった一歩だった。
けれど、その一歩で、Chrisの動きが止まった。
Erikaは自分のしたことに気づき、顔から血の気が引いた。
「違うんです、Chris。私は……」
言葉が続かなかった。
違う。嫌いになったわけではない。責めたいわけでもない。Chrisが自分を仲間と言ってくれたことは、ちゃんと分かっている。
それでも、体が先に怖がってしまった。
Chrisは、静かに目を伏せた。
「……そうよね」
その声が、痛かった。
「いいの。怖いと思うのは、当然よ」
「違います」
Erikaは首を振る。
けれど、何が違うのかを言葉にできなかった。
怖かった。
それは本当だった。
でも、それだけではなかった。
自分を守ろうとしてくれた人を怖がってしまったことが、怖かった。
Chrisがどこか遠くへ行ってしまう気がして、それも怖かった。
窓の外で、雲の切れ間から薄い光が差した。
鍵盤の白い部分が、雨上がりの光を受けてかすかに光る。
けれど、その音は鳴らない。
Erikaは胸に抱えたノートを見下ろした。
赤い表紙。
未完成の歌。
五人で作り始めたばかりの居場所。
その日、音楽室に残ったのは、雨の匂いと、まだ鳴らない鍵盤と、言葉にできない一歩だった。
Chrisは何も言わなかった。
Erikaも、何も言えなかった。
ただ、六月の夕方だけが、二人の間に静かに降りていた。
最新エピソード
あの雨上がりの公園から、数日が過ぎた。
白藤学園の六月は、まだ完全には夏になりきっていない。
晴れているようで、雲の端には雨の気配が残っている。窓の外のアジサイは、昨日
Aliceから連絡が来たのは、雨上がりの公園でChrisと向き合ってから数日後のことだった。
白藤学園の音楽室には、放課後の光が薄く差し込んでいた。六月の空はまだ完全には晴れず、
白藤学園の音楽室には、朝の光がまだ薄く残っていた。
放課後ではない音楽室は、少しだけよそよそしい。椅子も譜面台も、まだ眠っているみたいに静かで、窓の外のアジサイだけが、昨夜の雨を
翌朝の白藤学園は、いつも通りだった。
雨は上がっていたけれど、校舎の外のアジサイにはまだ水滴が残っている。坂道を上ってくる生徒たちの靴音が、湿った地面に少しだけ柔らかく響いていた







