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作品タイトル:『身代わりの花嫁は、北嶺の風に溶ける ―氷の公爵と秘密の薬草茶―』

作品タイトル:『身代わりの花嫁は、北嶺の風に溶ける ―氷の公爵と秘密の薬草茶―』

更新日時: 2026-06-29 07:04:25
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説明

「姉の代わりに、あの『死神公爵』の元へ嫁げ」


没落寸前の貴族・神代家の次女、陽葵(ひまり)に下されたのは、非情な命令だった。


結婚式の当日に恋人と駆け落ちした美貌の姉・小夜。家を守るため、地味で日陰者だった妹の陽葵は、顔をベールで隠し、姉の「身代わり」として極北の地・アシュクロフト領へと向かう。


待ち受けていたのは、凍てつくような吹雪と、「氷の心臓を持つ男」と恐れられる公爵レオンハルト。


「愛など期待するな」と冷たく突き放される陽葵だったが、彼女は絶望しなかった。得意の薬草の知識と温かい手料理で、荒廃した城と領民たちの心を、少しずつ解かしていく。


次第に距離を縮めていく二人。しかし、偽りの幸せは長くは続かない。


すべてを失った姉・小夜が、再び「公爵夫人の座」を奪い返すために現れたのだ。


「そいつは偽物よ! 本物の婚約者は、この私なの!」


暴かれる正体、突きつけられる真実。


名前を偽り、彼を騙し続けていた陽葵が下す決断とは?


そして、孤独な公爵が最後に選ぶ「真実の愛」の形とは——。


冬を越え、春の訪れと共に奇跡が起きる。


孤独な二人が真実の居場所を見つける、王道のシンデレラ・ストーリー。


エピソード1

第1フェーズ:偽りの門出(1〜10シーン)


第1シーン:姉の消失


鏡の中に映る自分は、まるで精巧に作られた死人のようだった。


最高級のシルク、南方の海を渡ってきた繊細なレース、そして家一軒が買えるほどの銀糸で施された刺繍。神代(かみしろ)家の家威を最後に見せつけるための婚礼衣装は、本来、私のために用意されたものではない。


「……お姉様。やはり、行ってしまわれたのですね」


私は、鏡台の上にぽつんと残された一枚の便箋に指を触れた。 そこには、乱れた筆跡で、あまりにもこの家の長女らしい言葉が並んでいた。


『愛する人と生きます。冷酷で恐ろしい「北の死神」の元へ行くなんて、私には耐えられません。地味で丈夫な陽葵(ひまり)なら、きっとあちらでも上手くやれるはずよ。探さないでください』


鼻をつくのは、姉が愛用していた独りよがりな薔薇の香水の匂い。 足元を見れば、脱ぎ捨てられた昨夜の部屋着が、無造作に床に転がっている。


姉の小夜(さよ)にとって、家は脱ぎ捨てる衣服に過ぎなかったのだ。 けれど、残された私たちにとって、この家は——逃げ出すことのできない「檻」だった。


「陽葵! 陽葵、いるか! 大変なことになった、小夜が、小夜が……!」


凄まじい勢いで扉が開き、父がなだれ込んできた。 かつては王都の社交界で鳴らした父の顔は、今や借金取りに追われる者のように土気色で、血走った目が私を捉える。


「……お父様。お姉様の手紙は、ここに」


私が便箋を差し出すと、父はそれを奪い取るようにして読み、その場に膝をついた。


「ああ……なんということだ。よりによって、今日という日に!

契約金(結納金)は既に受け取っているのだぞ。投資の失敗も、領地の不作も、すべてこの婚姻で清算するはずだったんだ!」


父の震える拳が、床を叩く。

その拳が守ろうとしているのは、娘の幸せではない。神代家という看板と、自らの体面。そして、アシュクロフト公爵家から振り込まれた「莫大な金」の行方。


私は静かに、自分の手を見た。 姉のように美しく磨かれた爪ではない。 毎日、庭の隅で薬草を掘り返し、土を払い、実験を繰り返してきた、少し節くれだった指。


アシュクロフト公爵。 戦場を氷に変えると言われる、冷酷無比な『北の死神』。 彼が求めたのは、王都の薔薇と謳われた美しい小夜だ。


「陽葵。お前……小夜に、似ているな」


父の、粘りつくような視線が私を舐めるように動いた。 絶望が、確信に変わる時の色。 この瞬間、私の人生は私のものではなくなった。


鏡の中の「死人」が、悲しげに微笑んだように見えた。


第2シーン:父の狂気


「お前が、小夜になるんだ」


父の口から漏れた言葉は、湿った毒のように私の耳にまとわりついた。

膝をついていた父が、這いずるようにして私に歩み寄る。その瞳には、もはや親としての慈愛など欠片もなく、溺れる者が藁を掴むような、濁った狂気だけが宿っていた。


「陽葵、聞け。我が家はもう、崖っぷちなんだ。先代から引き継いだ領地は度重なる不作で、王都での投資もすべて失敗した。この婚姻のためにアシュクロフト公爵から振り込まれた結納金は、既に借金の返済と、今日という日の見栄のために使い果たしてしまったんだよ!」


父は私の婚礼衣装の裾を、汚すことも厭わず強く掴んだ。


「今さら『花嫁がいなくなりました』などと言えるか?

相手はあの『北の死神』だぞ。戦場での冷酷さを思い出せ。もし契約不履行となれば、ただの破産では済まない。不敬罪だ。神代家は、お前も私も、一族郎党すべて首を括ることになる!」


背後で、扉の陰に隠れていた母が「ああ……」と声を上げて泣き崩れるのがわかった。母もまた、姉の逃亡を止めることもできず、ただこの事態に怯えている。


「お前は昔から地味で、目立たず、庭で雑草(薬草)ばかりいじっていた。社交界の誰も、お前の本当の顔などまともに見ていない。ベールを深く被り、小夜の振りをしていれば、北の果てに着くまでは誰にもバレないはずだ」


父の指が、私の肩に食い込む。 痛い。けれど、それ以上に心が冷えていくのを感じた。

物心ついた時から、私は「小夜の影」だった。美しい姉が社交界で華やかに舞うため、私は目立たぬよう、騒がぬよう、ただ家の隅で息を潜めて生きてきた。私を顧みることのなかった父が、今、生まれて初めて私を真っ直ぐに見つめている。


それが、「家の命運を握る道具」としての期待であったとしても。


「陽葵、頼む。この通りだ。お前が小夜になってくれ。お前があの男に嫁いでくれれば、我が家は救われる。お前は……神代家の救世主なんだ!」


父の血走った目が、期待にギラギラと輝く。 『救世主』。その甘美な言葉が、どれほど残酷な犠牲の上に成り立っているかを、父は理解していない。


私はそっと、父の手を振り払った。

そして、鏡台の隅に置いていた自分専用の小さな小瓶——私が独自に研究し、煮詰めた、緊張を和らげるためのハーブの香油——を、震える指で握りしめた。


「……わかりました、お父様」


私の声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。

父の狂気にあてられたわけではない。ただ、この機能不全に陥った「家」という名の檻から出るためには、毒をもって毒を制すしかないのだと、私は悟ったのだ。


「私が行きます。私は今日から、『神代家の小夜』として生きましょう」


父の顔が、歓喜に歪んだ。 その瞬間、私の背後にあった「陽葵」としての平穏な日々は、音を立てて崩れ去った。


第3シーン:着付けの儀


「詰めろ! もっとウエストを絞るんだ。小夜はもっと、こう……華やかで肉感的な体つきをしていたはずだ!」


父の怒声が響く中、私は支度部屋の中央で、まるで生きた剥製のように立たされていた。


三人の年嵩の侍女たちが、震える手で私の体に触れる。

本来、数ヶ月かけて姉の体に馴染ませるはずだった婚礼衣装は、細身の私にはあまりにも大きく、無残に余っていた。銀糸の刺繍を施されたシルクが、私の肩から力なく滑り落ちようとする。


「奥様、動かないでください……針が刺さりますわ」


筆頭侍女が、口に数本の待ち針を咥えたまま、私の腰回りの生地を容赦なく手繰り寄せた。 「ブスリ」と、背中に鋭い痛みが走る。

仕立て直す時間などない。彼女たちは、豪華な生地を内側に折り込み、無理やり太い糸で「仮縫い」をして、私の体型を姉のシルエットへと偽造していくのだ。


「……痛いですか、陽葵様」


一人の若い侍女が、耳元で小さく囁いた。彼女だけは、私が庭で薬草を摘んでいる時に、よく手伝ってくれた子だ。 私は首を振る。 痛みなど、どうでもよかった。

銀の針が、私の肌のすぐ側を通り、嘘を固定していく。その一針ごとに、私が私であるための「余白」が縫い潰されていくのを感じていた。


「これを見ろ。この銀糸だけで、我が家の領民が一年暮らせるだけの金がかかっているのだ」


父が、私の背後で衣装の裾を指さした。

「アシュクロフト公爵は、この『装飾』を買ったのだ。中身が誰であろうと、まずは完璧な『商品』として納品されなければならない。いいか、絶対にバレるな。お前は今日から、このドレスに見合う価値のある女、小夜なんだ」


重い。 ドレスの重みではない。この銀糸一本一本に絡みついた、神代家の強欲と負債、そして見栄の重さだ。

無理やり詰められたウエストのせいで、呼吸が浅くなる。肺が圧迫され、酸素が足りない。


「胸元にパットを入れろ。デコルテの薄さを隠すんだ」 「顔はベールで隠れますが、顎のラインに小夜様のような華やかさが足りません。化粧を濃く……!」


侍女たちの手によって、私の顔に王都で流行している香りの強い白粉(おしろい)が塗りたくられる。

私が好んでいた、ハーブの清涼な香りは、瞬く間に高価で重苦しい麝香(じゃこう)の香りに塗りつぶされた。


数時間後、鏡の中に立っていたのは、もう「陽葵」ではなかった。

不自然に膨らまされた胸元、きつく締め上げられた腰、そして濃密な化粧によって作り上げられた、美しくも歪な「身代わりの花嫁」。


「……完璧だ」


父が満足げに頷く。 けれど、ドレスの内側で、仮縫いの糸がギリギリと鳴っているのを私は知っている。 一歩、呼吸を乱せば。 一歩、歩き方を間違えれば。

この「小夜」という偽造品は、たちまち弾け飛んでしまう。


「出発だ。馬車が待っている」


私は重い裾を引きずり、一歩を踏み出した。 背中に刺さったままの待ち針が、チクリと皮膚を突いた。それが、この嘘の始まりを告げる、私だけの痛みだった。


第4シーン:王都の離脱


ガタゴトと、不自然なほど滑らかに回り出した車輪の音が、耳底に重く響く。


アシュクロフト公爵家から差し向けられた馬車は、王都のそれとは一線を画していた。漆黒の木肌に、冷ややかな輝きを放つ銀の装飾。車内に一歩足を踏み入れれば、極上の羊毛が敷き詰められ、座席には柔らかな深紅のベルベットが張られている。


この馬車そのものが、神代(かみしろ)家が受け取った「莫大な結納金」の、ほんの一部に過ぎないのだ。


「……豪勢なものね」


分厚いレースのベール越しに、私は王都の景色を眺めた。

陽光が降り注ぐ石畳の街路。白壁の建物が立ち並び、至る所に花が咲き乱れる王都は、一見すると豊かさと平和に満ちている。だが、その足元は、我が家と同じように腐りかけた借金(負債)の泥沼だ。


馬車の行く手を遮らぬよう、大通りに整列させられた民衆たちの姿が見える。 婚礼を祝う歓声など、どこからも聞こえなかった。

聞こえてくるのは、低く、冷ややかな囁き声と、嘲るような視線の雨。


「おい、あれが神代家の……」 「破産寸前の名門が、ついに娘を売り払ったか」

「相手は北の『死神公爵』だろう? いくら美貌の長女とて、あんな氷の地へ送られては、ひとたび冬を越せるかどうか」

「いい気味だ。贅沢の限りを尽くした薔薇が、極北で朽ち果てるのだからな」


容赦のない言葉が、開いた窓の隙間から車内へと滑り込んでくる。


民衆は知っているのだ。この華やかな婚礼が、実際にはただの「債務不履行を避けるための売買契約」に過ぎないことを。神代家が、アシュクロフトの持つ圧倒的な軍事力と富にすがって生き延びようとしている醜い現実を。


胸が痛む、ということはなかった。 ただ、妙に冷徹な滑稽さを感じていた。


民衆が哀れみ、そして嘲笑っている「身代わりの薔薇」は、私ではない。彼らが罵っているのは、今ごろ愛する男と国境を越えているはずの、美しい姉・小夜(さよ)だ。


私は、誰もが見ていながら、誰もその存在を認識していない、ただの抜け殻。 小夜の身代わりに仕立て上げられた、無価値な妹。


『王都の薔薇を、莫大な金で買い取る』

アシュクロフト公爵が結んだその契約において、私はただ、納品書に書かれた数字を合わせるためだけに送り出される「代用品」だった。


馬車が王都の巨大な正門をくぐり抜ける。 その瞬間、陽光の温もりがすっと遮られ、長い影が車内を支配した。


冷ややかな民衆の視線から逃れられた安堵と、これから向かう「死神の領地」への底知れぬ恐怖。

二つの感情を抱えながら、私は懐の中に忍ばせた薬草の匂い袋を、ドレスの上からそっと握りしめた。王都の香油にまみれた車内で、その僅かな土の香りだけが、私が「陽葵(ひまり)」として生きていた唯一の証拠だった。


第5シーン:境界線


王都を出て数日。馬車の窓から見える景色は、残酷なほど明確に「世界の終わり」を告げていた。


昨日まで街道を彩っていた鮮やかな緑は影を潜め、木々は葉を落とした骨のような枝を晒している。空は低く、重苦しい鉛色に閉ざされ、色彩という色彩がこの地から奪い去られたかのようだった。


やがて、馬車がガタンと大きく揺れた。 それまでの整えられた石畳が途切れ、ごつごつとした岩場と凍てついた泥の道へと変わったのだ。


「……寒い」


思わず独り言が漏れた。

隙間風が、豪華なはずの馬車の壁を突き抜けて入り込んでくる。王都では富の象徴だった薄いシルクの婚礼衣装は、この寒さの前ではあまりにも無力だった。肌に触れる生地は氷のように冷たく、体温を容赦なく奪っていく。


仮縫いで無理やり詰められたウエストの糸が、寒さで強張った体に食い込み、鈍い痛みを与えた。


(ここが、境界線なのだわ……)


窓の外には、切り立った灰色の岩壁がそびえ立っている。

ここから先は、王都の華やかな社交界の常識も、神代家が必死に守ろうとした「貴族の体面」も、何の意味もなさない。


神代家が公爵から受け取った莫大な金。それは、この厳しい冷気に耐え、魔獣の脅威に晒されながら領地を守る人々が、命を削って差し出した対価なのだ。父はそれを「当然の権利」のように使い果たしたが、この灰色の景色を見ればわかる。そんな軽薄な論理が通用するほど、北嶺(ほくれい)は甘くない。


私は震える肩を抱き、足元に置いていたトランクをそっと手繰り寄せた。 中には、王都の家を出る直前に詰め込んだ、自作の乾燥ハーブと薬草の種がある。


「小夜(さよ)」として、贅沢と美貌だけでこの地を乗り切るなど、到底不可能だ。 この北の冷気は、飾り立てただけの嘘を、一瞬で凍りつかせて砕いてしまう。


ふと、窓硝子に自分の顔が映った。 白粉(おしろい)の下で青ざめた私の顔。 ベールを被り、名前を偽り、姉の代わりに「売られた」私。


馬車が峠を越えた瞬間、風の音がひときわ高く鳴り響いた。 遠く、灰色の雲の切れ間に、突き刺すような鋭い黒い影が見えた。

あれが、私の「夫」が待つ、アシュクロフト公爵領の城。


温かな王都の記憶は、今、完全に背後へと去った。

冷気がシルクを透かし、私の芯まで凍らせようとする。私はただ、これからの自分を救ってくれるであろう、トランクの中の土の香りを、必死に思い起こしていた。


第6シーン:北の威圧


馬車の速度が落ち、鈍い地鳴りのような音が響き渡った。


「つきましたぞ、小夜様……いえ、公爵夫人閣下」


御者の声に、私は重いベールを少しだけ持ち上げた。

視界に飛び込んできたのは、王都の優美な城館とはあまりにもかけ離れた、異様な威容を誇る「黒亜(こくあ)の城」だった。


切り立った崖の上に、周囲の岩山と同化したかのようにそびえ立つその城は、装飾という概念をすべて削ぎ落とし、ただ「敵を拒むこと」だけを目的に造られている。黒い石材は、数多の吹雪と戦火に耐えてきたのか、鈍い金属のような光沢を放っていた。


(これが……アシュクロフト公爵家。北の防衛線の要……)


王都の城が、富を誇示するための「宝石箱」だとするなら、この城は、国を守るための「抜き身の剣」だ。 そそり立つ尖塔は、空を突き刺す牙のように鋭い。


城の重厚な鉄門が開くと、左右には整然と列をなす騎士たちの姿があった。

王都の近衛兵が纏うような、儀礼用のきらびやかな羽飾りなどどこにもない。彼らが身につけているのは、傷だらけで煤けた、実戦のための黒鉄の甲冑。抜かれた剣の切っ先が、冷たい外光を反射して白く光る。


ガチャン、ガチャンと、彼らが一斉に膝を突く音が、地響きとなって馬車の中にまで伝わってきた。 歓迎の声はない。ただ、圧倒的な規律と、凍てつくような静寂。


私は、息を呑んだ。 神代(かみしろ)家が浪費したあの莫大な結納金は、この硬く、冷たく、鉄の匂いがする場所から絞り出されたものなのだ。

父が、姉が、軽薄に扱った「婚姻の契約」の重みを、私は今、目の前にそびえる要塞の威圧感をもって突きつけられていた。


ここは、わがままな令嬢が着飾って踊る場所ではない。 一歩間違えれば、この城の鋭い規律に、私の嘘は無残に切り裂かれるだろう。


「……参りましょう」


私は震える手で膝の上のシルクを握りしめ、自分に言い聞かせた。 馬車の扉が開く。 外から流れ込んできたのは、雪の混じった、暴力的なまでの北風だった。

それは、偽りの花嫁を歓迎する、最初の咆哮のようにも聞こえた。


第7シーン:レオンハルト登場


馬車の扉が完全に開け放たれた瞬間、暴力的なまでの冷気が車内を蹂躙した。


私は、仮縫いの糸が弾けぬよう慎重に、震える足を地面に下ろした。シルクの靴越しに伝わる北嶺の石床は、心臓が凍りつくほどに冷たい。


整列する黒鉄の騎士たちの中心。 そこに、その男は立っていた。


(……彼が、レオンハルト・ヴァン・アシュクロフト公爵)


背が高い。夜の闇をそのまま裁断して纏わせたような黒いマントが、風に煽られて重厚な音を立てている。王都の貴族が好む華美な金銀の飾りは一切なく、ただ実用的な黒い革と、胸元に光る公爵家の銀の紋章だけが、彼の地位を語っていた。


彼は無言で、私の方へと歩み寄ってきた。 一歩。また一歩。 雪を踏みしめる軍靴の音が、死神の足音のように私の鼓動を追い詰める。

彼の放つ圧倒的な威圧感の前に、呼吸をすることさえ忘れてしまいそうだった。


私の目の前で、歩みが止まった。 見上げれば、そこには彫刻のように整いながらも、一切の慈悲を削ぎ落としたような冷徹な貌(かお)がある。


「……神代(かみしろ)家の小夜(さよ)か」


低く、地響きのように重い声。 返事をする間もなかった。 彼は冷たい革の手袋をはめた手で、私の顎をグイと持ち上げたのだ。


「あ……」


繊細なレースのベール越しに、視線が突き刺さる。 それは、射抜くような、鋭利な銀色の瞳だった。 凍てついた湖の底を覗き込んでいるような、感情を拒絶する色。

その瞳に見つめられた瞬間、私の内側にある「陽葵(ひまり)」という正体が、すべて暴かれ、凍りついてしまうのではないかという錯覚に陥った。


「『王都の薔薇』と聞いていたが……随分と、怯えているな」


顎を掴む手袋の冷たさが、薄い化粧を透かして肌に伝わってくる。 指先に込められた力は強く、逃げることを許さない。 彼は私という人間を見ているのではない。

莫大な結納金と引き換えに届いた「納品物」が、契約通りの品質であるかどうかを検品している——そんな、冷酷な品定めの目だった。


「……あまりの寒さに、戸惑っていただけでございますわ、閣下」


私は、喉の震えを必死に抑え込み、練習した通りの「小夜」の声で答えた。 レオンハルトは鼻で笑うと、私の顎を突き放すように離した。


「そうか。ならばせいぜい、その豪華なドレスが氷の塊に変わる前に、城に入るがいい。ここではお前の美貌も、王都の甘っちょろい言葉も、暖炉の薪ほどの価値もない」


彼は背を向け、大股で城の中へと歩き出した。 私は、屈辱よりも、自分の心臓がまだ動いていることに安堵していた。

顎に残った革手袋の冷感は、これから始まる「偽りの結婚生活」が、一瞬の油断も許されない戦場であることを、痛烈に刻み込んでいた。


第8シーン:最初の夜


案内された寝室は、およそ新婚の初夜を迎える場所とは思えなかった。


高い天井、磨き上げられた黒い石壁。贅沢な毛皮が掛けられた天蓋付きのベッドはあるものの、部屋の隅々まで行き渡る冷気は、王都のそれとは比較にならないほど鋭い。暖炉には火が灯っていたが、広大な石の部屋を温めるにはあまりにも無力だった。


「……っ」


一人のメイドが去った後、私はようやく、きつく締め上げられた胸元を押さえて息を吐いた。

寒さで強張った体に、姉のサイズに合わせた「仮縫いのドレス」が容赦なく食い込む。無理やり詰められたウエストの糸が、呼吸のたびにギリギリと鳴り、皮膚を苛(いら)つかせた。


背後の重厚な扉が開いたのは、その時だった。


「……座れ」


現れたレオンハルト公爵は、外套こそ脱いでいたものの、その身に纏う威圧感は欠片も衰えていなかった。彼は部屋の中央にある椅子に腰を下ろすと、冷徹な銀の瞳で私を射抜いた。


「この結婚について、勘違いをされては困る。改めて説明しておこう」


彼の言葉は、まるで軍事報告のように淡々としていた。


「私は、神代(かみしろ)家の『長女』という肩書きを、莫大な結納金をもって買い取った。我が家が求めたのは、王都の貴族社会との形式的な繋がり、そしてアシュクロフトの名を継ぐための形ばかりの妻だ」


彼は一歩も近づいてこない。 新妻のベールを捲る指先も、熱を帯びた視線も、ここには存在しなかった。


「お前に与えるのは、公爵夫人という地位と、凍え死ぬことのない食事だけだ。王都の人間が好むような、愛や情愛といった甘っちょろいものは、この城のどこを探しても見つからないと思え。……期待するな」


「愛など、期待するな」


その言葉は、冷たい刃となって私を貫いた。 けれど、不思議なことに、私の胸に広がったのは絶望ではなかった。


(……ああ、よかった)


もし、彼が心から姉を愛し、情熱を持って私に触れようとしていたなら、私はその瞬間に「偽物」であることが露呈していただろう。彼が無関心であればあるほど、私はこのドレスの内側にある「陽葵(ひまり)」という正体を、より長く隠し通すことができる。


「……承知いたしました、閣下。私は、あなた様の望む通りの『公爵夫人』として振る舞いましょう」


私は深く頭を下げ、ベールの奥で静かに微笑んだ。 レオンハルトは、私の物分かりの良さに僅かに眉を動かしたが、それ以上何も言わずに立ち上がった。


「夜着は用意させてある。勝手にしろ」


背を向けて去っていく彼のマントが、冷たい風をはらんで揺れる。 バタン、と重厚な扉が閉まり、再び静寂が訪れた。


一人残された冷え切った寝室。 私は震える手で、ドレスの背中の仮縫いの糸を、一箇所だけ引きちぎった。 ぷつん、という小さな音とともに、少しだけ呼吸が楽になった。


「……冷たい。本当に、ここは冷たい場所なのね」


窓の外では、北嶺の吹雪が遠吠えのように鳴り響いている。

私は、誰にも愛されないことが約束されたこの城で、初めて「小夜」としてではない、自分自身の呼吸を深く繰り返した。


第9シーン:トランクの秘密


レオンハルト様が去り、静寂が戻った寝室で、私はようやく大きく息を吐いた。


冷え切った指先で、首元のリボンを解く。

鏡の中に映る「公爵夫人」の姿を剥ぎ取るように、私は仮縫いの糸でがんじがらめになった婚礼衣装を脱ぎ捨てた。銀糸の刺繍が施されたドレスは、持ち主を失った抜け殻のように床へ崩れ落ちる。


下着姿になり、肌を刺すような冷気に震えながら、私は部屋の隅に置かれた古びたトランクへと這い寄った。


神代(かみしろ)家の豪華な家財道具とは対照的な、使い古された革のトランク。

父からは「そんなゴミは捨てていけ」と罵られたが、これだけは譲れなかった。私の「財産」は、父が浪費した金でも、姉が奪っていった宝石でもない。


「……無事だったわね」


震える手で鍵を開けると、中から溢れ出したのは、重苦しい麝香(じゃこう)の香りを一瞬で拭い去るような、懐かしい「土と太陽」の香りだった。


トランクの底には、丁寧に麻布で包まれた乾燥薬草の束がいくつも並んでいる。

熱を下げる「青い月見草」、傷を癒やす「金盞花(きんせんか)」、そして、私が王都の庭の片隅で密かに育て、研究し続けてきた、様々な効能を持つ種たち。


これらは、地味で無価値な妹として生きてきた「陽葵(ひまり)」という人間が、唯一自分の力で積み上げてきた知識の結晶だった。


(もし、私が薬草マニアの『陽葵』だと知られたら……)


王都の薔薇と謳われた小夜(さよ)が、泥にまみれて草を弄(もてあそ)ぶなど、あってはならないことだ。この城の使用人たちに、あるいはあの鋭い銀色の瞳を持つ公爵に、このトランクの中身を見られれば、私の「正体」はたちまち疑われるだろう。


私は、巨大な黒檀のクローゼットの奥を覗き込んだ。

そこには、先ほど脱ぎ捨てた婚礼衣装を始め、姉のために用意された華美なドレスが、まるで死体の陳列のように並べられている。


私は、その重なり合うドレスの奥深く、壁との僅かな隙間に、大切に薬草の束を隠した。 豪華なレースの影、銀糸の刺繍の裏側。


「……ここで、出番を待っていて」


指先に残る、カモミールの僅かな苦い香りを吸い込む。

莫大な結納金によって「買われた」偽りの花嫁は、そのドレスの裏側に、この城の誰も知らない「命の種」を隠し持っている。


愛されないことも、歓迎されないことも、最初から分かっていた。 けれど、このトランクの中身さえあれば、私はこの極北の地でも、一輪の雑草のように生き延びてみせる。


私は隠し場所をドレスの裾で覆い隠すと、氷のようなシーツの中に身を沈めた。

クローゼットの奥から微かに漂う土の香りが、この冷え切った城で、私を支える唯一の味方だった。


第10シーン:覚悟


窓の外では、北嶺の風が獣のような咆哮(ほうこう)を上げている。 毛皮のシーツを頭から被っても、石壁から染み出すような冷気が私の体温をじりじりと削っていく。


(……寒い。本当に、太陽が死んでしまったような土地……)


暗闇の中で目を開けると、天蓋(てんがい)の影が、巨大な檻のように自分に覆いかぶさっていた。 私の本当の名前は、陽葵(ひまり)。

王都の暖かな光を浴びて咲く、向日葵のような娘になってほしい——そんな願いを込めて、今は亡き祖母が付けてくれた名前。


けれど、この極北の地で、そんな名前は何の意味も持たない。 太陽の光を求める花など、この氷の城では一晩で凍りついて砕けるだけだ。


父は言った。お前が家を救うのだ、と。 姉は言った。丈夫なお前なら上手くやれる、と。 公爵は言った。愛など期待するな、と。


「……そうね。誰も、陽葵なんて娘は連れてこなかった」


この寝室にいるのは、莫大な結納金と引き換えに差し出された「神代(かみしろ)家の長女」。

破産寸前の名門が、不敬罪を逃れるために納品した、高価で美しい「小夜(さよ)」という名の代替品。


私はシーツの中で、自分の腕を強く抱きしめた。

指先に残る微かな薬草の匂い。庭の隅で土にまみれていた記憶。顧みられることのなかった「地味な妹」としての穏やかな孤独。


それらはすべて、王都の空に置いてきた。


明日からは、小夜として微笑み、小夜として言葉を発し、小夜としてあの冷徹な銀色の瞳を欺き通さなければならない。一瞬でも「陽葵」に戻れば、それは神代家の破滅を意味し、私の死を意味する。


「……私は今日から、小夜(さよ)」


唇を噛み、自分に呪いをかけるように呟いた。


「名前も、過去も、陽葵という人間が愛したすべてのものを……今、ここで捨てる」


不思議と、涙は出なかった。 ただ、心の芯が北嶺の氷と同じ硬さに変わっていくような、静かな感覚だけがあった。


私は「身代わりの花嫁」という役割を、骨の髄まで引き受ける。 欺いて、耐えて、そして生き延びてやる。

豪華な婚礼衣装の内側で、仮縫いの糸が皮膚に食い込む痛みを感じながら、私は冷たい闇の中でゆっくりと目を閉じた。


北嶺を渡る風が、私の古い名前をどこか遠くへ運び去っていくのが聞こえた気がした。


(第1フェーズ:偽りの門出 完)


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