レガリアの継承者 外伝 〜王冠より重き絆〜
説明
亡国の王子アレンが辺境で「夜明けの国」を築き始めた頃、かつての祖国アーデルハイドでは、兄ガイアスが傀儡の王として玉座に縛られていた。父王を失い、妹セレスティアを人質に取られ、叔父ヴォルフラムの命に従うしかない日々。そんな彼に下された王命は、生きていた弟アレンを「反逆者」として討つことだった。
王家の守護巨神アルビオンに乗り、討伐軍を率いて灰の街道を進むガイアス。焼けた村、飢える民、逃げ惑う難民たちを目にするうち、彼は自分が守ろうとしていた「国」の正体に疑問を抱き始める。
やがて戦場で再会する兄弟。アレンは王座を奪うためではなく、目の前の民を明日まで生かすために剣を取っていた。弟を討てと命じる王冠。兄として呼びかける「兄さん」の声。民へ向けられる砲口。そのすべてを前に、ガイアスはついに選ぶ。
王冠よりも重いものがある。 それは、斬り捨ててはならない絆だった。
弟を殺す王にはならない。 そう誓った時、沈黙していたアルビオンが真の王命に応える。
エピソード1
王冠は、思っていたほど重くはなかった。
幼い頃のガイアスは、父王アルトリウスの頭上に輝くそれを、もっと特別なものだと思っていた。戴冠式の日、光を受けて燦然と輝く黄金の輪。臣下たちは膝をつき、民は歓声を上げ、楽師たちは勝利の曲を奏でる。
王冠とは、きっと太陽のように温かいものなのだと、そう思っていた。
だが、実際に額へ載せられたそれは、ただ冷たかった。
金属の内側が、骨まで凍らせるように冷えている。まるで、死者の手が額を撫でているようだった。
大聖堂の天井には、聖輪を模した巨大な円環のステンドグラスが嵌め込まれている。赤、青、金、白。無数の色が朝の光を受け、床へ神々しい模様を落としていた。その光の中心に、ガイアスは立っていた。
アーデルハイド王家の長子として。
鉄血のアイゼンリッター王国の新たなる王として。
けれど、祝福の光を浴びているはずの彼の耳には、歓声など届いていなかった。
聞こえていたのは、五年前の炎の音だった。
燃え落ちる王都。
砕ける城門。
夜空を裂いた黒い巨神の咆哮。
父王アルトリウスが、王家の守護巨神アルビオンに乗り込む時の背中。
そして、二度と戻らなかったその背中。
遠くで、幼い弟が泣いていた。
――兄さん。
あの声は、今も耳の奥に残っている。
父を失い、弟を失い、妹を守ることすらできなかった日。ガイアスの中で、何かが折れた。
それでも、彼は立っていた。
立たされていた。
「笑え、陛下」
隣に立つ男が、唇をほとんど動かさずに囁いた。
叔父ヴォルフラム。
摂政にして、今やこの国の実権を握る男。
黒い軍服に身を包んだ彼は、祭壇の脇で深々と頭を垂れていた。だが、その姿勢は忠誠ではない。獲物を前にした猛禽が、翼を畳んでいるだけに見えた。
「民は強い王を求めている」
ガイアスは、笑った。
笑ったつもりだった。
大聖堂に集まった貴族たちが拍手を強める。将軍たちが剣を掲げる。聖職者たちが声を揃えて祈りを捧げる。
新王万歳。
鉄血の王に栄光あれ。
アイゼンリッターに永遠の勝利を。
その声の中で、ガイアスはただ一つのことを悟っていた。
これは戴冠ではない。
拘束だ。
王冠は、鎖だった。
*
「――陛下」
低い声に呼ばれ、ガイアスは意識を現在へ戻した。
王城北翼、黒鉄の軍議室。
壁一面には大陸西方の地図が掲げられ、各地に赤と黒の駒が置かれている。国境線。街道。要塞。鉱山。水源。そこに暮らす民の顔など、地図の上には一つも描かれていない。
描かれているのは、奪うべき土地と、守るべき線だけだった。
長卓の左右には、王国軍の将軍たちが並んでいる。誰もが鋼のような顔をしていた。いや、鋼で顔を覆っているだけなのかもしれない。そうでなければ、この部屋で交わされる言葉に耐えられない。
ガイアスは上座に座っていた。
王の椅子に。
しかし、彼の隣には常にヴォルフラムが立っている。
それだけで、この国の本当の中心がどこにあるかは明らかだった。
「辺境より、追加の報告が入りました」
参謀の一人が羊皮紙を読み上げる。
「旧アーデルハイド西方辺境、通称“肋骨原”周辺にて、難民、敗残兵、盗賊、異種族の集団が結集。指導者は自らを“夜明けの国の王”と称しているとのこと」
夜明けの国。
その名を聞いた瞬間、軍議室の空気がわずかに歪んだ。
嘲笑する者。眉をひそめる者。興味深そうに地図を見る者。
ガイアスだけが、何も言わなかった。
ただ、卓の下で拳を握った。
辺境に国など作れるはずがない。
あの土地は神にも見捨てられた荒野だ。
水は少なく、魔物は多く、星の欠片を狙う連中が毎年のように死ぬ。
そんな場所で国を名乗るなど、狂気か、奇跡か、そのどちらかだった。
「反乱勢力と見るべきでしょう」
老将軍が言った。
「難民と称してはおりますが、実態は王国に不満を持つ者どもの寄せ集め。放置すれば周辺諸侯に動揺が広がります」
「加えて、指導者の名が問題です」
別の将校が言葉を継ぐ。
ガイアスは、聞きたくなかった。
だが、王は聞かなければならない。
「首魁の名は――アレン・フォン・アーデルハイド」
誰かが、わずかに息を呑んだ。
ガイアスの耳の奥で、あの夜の声が蘇る。
兄さん。
幼い弟の声。
火の粉の中で振り返った顔。
乳母エルザに抱えられ、遠ざかっていく小さな背中。
死んだと思っていた。
いや、死んだと思うことでしか、耐えられなかった。
生きているかもしれないと考えれば、探しに行きたくなる。
探しに行けば、セレスティアを置いていくことになる。
セレスティアを置いていけば、叔父の手が彼女に伸びる。
だからガイアスは、弟は死んだのだと、自分に言い聞かせてきた。
その名前が今、反逆者として軍議室に置かれている。
「偽名の可能性は」
ガイアスは、ようやくそれだけを言った。
声は思ったよりも平静だった。
将校が答える。
「当初はその線も疑いました。しかし複数の証言が一致しております。年齢、外見、王家特有の青銀の髪。そして――」
一瞬、将校はためらった。
ヴォルフラムが視線だけで続きを促す。
「神機級と思われる白銀の巨神を起動させた、との報告が」
軍議室がざわめいた。
神機。
その言葉は、将軍たちからさえ冷静さを奪う。
王威の巨人アルビオンを擁するアーデルハイド王家は、かつて西方でも屈指の名門だった。だが、神機は別格だ。伝説の中にしか存在しない、世界の運命そのものに干渉すると言われる巨神。
もし弟が本当に神機を得たのなら。
もし、死んだはずのアレンが、辺境で王として立ち上がったのなら。
ガイアスは、胸の奥で何かが震えるのを感じた。
喜びだった。
恐怖だった。
あるいは、五年ぶりに息を吹き返そうとする自分自身だった。
「陛下」
ヴォルフラムが静かに言った。
その声で、胸の震えは凍りつく。
「これは、王国の根幹に関わる問題です」
彼は長卓の上へ、一枚の黒い駒を置いた。王都を示す駒。そのすぐ西に、白い小さな駒が置かれる。辺境の反乱勢力を示すものだろう。
「旧王家の血を引く者が、王を名乗り、巨神を得た。辺境の難民どもがそれに従った。これを放置すれば、各地の諸侯はどう見るでしょうな」
ヴォルフラムはガイアスを見ない。
地図を見ている。
まるで、ガイアス自身もまた地図上の駒の一つでしかないように。
「この国には、二人の王がいる。そう囁く者が出るでしょう」
老将軍が頷く。
「王権の分裂は内乱を呼びます」
「内乱は周辺諸国を呼び込みます」
「聖輪教会も黙ってはいないでしょう」
「ならば、早期に芽を摘むべきです」
言葉が次々と積み重なる。
反乱。
偽王。
討伐。
粛清。
秩序回復。
そこには弟の名がない。
誰一人、アレンと呼ばない。
ガイアスは、長卓の木目を見つめた。
爪が掌に食い込むほど拳を握っていた。
言え。
あれは俺の弟だと。
死んだと思っていた弟が生きていたのだと。
まずは使者を送るべきだと。
話を聞くべきだと。
戦う前に、兄として会いたいのだと。
言え。
だが、口は動かなかった。
この部屋には、ヴォルフラムの目がある。
将軍たちの耳がある。
そして、王城の奥にはセレスティアがいる。
「陛下」
ヴォルフラムが、今度はガイアスを見た。
その瞳に怒りはない。
失望もない。
ただ、試すような冷たさだけがあった。
「王命を」
王命。
その二文字が、喉に刃のように触れる。
ガイアスは問うた。
「……討伐軍の規模は」
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
参謀が即座に答える。
「辺境軍二個旅団を基幹に、機兵隊を三個中隊。さらに、陛下自らアルビオンで御親征なされば、反乱勢力の士気は一戦で崩れましょう」
「俺が出る必要があるのか」
「ございます」
ヴォルフラムが答えた。
「反逆者が王族の名を騙る以上、本物の王が討つ。それが最も明快です」
本物の王。
その言葉が、ひどく滑稽に聞こえた。
本物の王なら、なぜ自分の命令一つ自由に出せない。
本物の王なら、なぜ妹一人守れない。
本物の王なら、なぜ弟の名を聞いて立ち上がることすらできない。
ガイアスは唇を噛んだ。
「……アレンが本物だった場合は」
軍議室が静まり返った。
それは、王としては口にすべきではない問いだった。
ヴォルフラムだけが、表情を変えなかった。
「であれば、なおのこと討つべきです」
叔父の声は穏やかだった。
「血筋とは、時に旗になります。旗は、人を集める。人を集めれば、戦が起こる。陛下もご存じのはずだ。国を守るためには、切り落とさねばならぬ枝がある」
「弟でもか」
気づいた時には、言葉が漏れていた。
将軍たちが硬直する。
ヴォルフラムは、少しだけ目を細めた。
「弟だからです」
その返答に、ガイアスは息を止めた。
「敵であれば倒せばよい。偽物であれば暴けばよい。しかし、弟であるならば、陛下の王位を脅かす最も危険な存在となる。陛下が迷えば、国が迷う。国が迷えば、民が死ぬ」
「……」
「王とは、最も多くを救うため、最も大切なものから切り捨てる者です」
静かな声だった。
だが、その言葉は軍議室の石床よりも冷たい。
ガイアスは、反論できなかった。
ヴォルフラムの理屈は間違っていないように聞こえる。
戦乱の世では、迷いは死を呼ぶ。
王権の分裂は内乱を呼ぶ。
内乱は民を殺す。
だが。
それでも。
弟を殺して守る国とは、何なのか。
そう問いかける声が、胸の奥にあった。
その時、ヴォルフラムがわずかに身を屈めた。
臣下が王に耳打ちする姿勢。
だが、その声は毒だった。
「そういえば、セレスティア様が昨夜もお加減を崩されたとか」
ガイアスの呼吸が止まる。
「医師には手厚く看させております。ご安心を。陛下が王としてお務めを果たされる限り、王妹殿下の身は、王城で最も安全でありましょう」
脅しではない。
少なくとも、言葉だけを見れば。
だが意味は一つだった。
逆らうな。
ガイアスは椅子の肘掛けを握った。
視界の端で、地図の上の白い駒が揺れて見える。
弟を示す駒。
辺境に立つ、死んだはずの血。
そして、王都の奥にいる妹。
片方を選べば、片方を失う。
ガイアスは目を閉じた。
王冠の冷たさが、額に蘇る。
「……反乱勢力を討つ」
軍議室の空気が動いた。
将軍たちが一斉に姿勢を正す。
ガイアスは続けた。
「辺境討伐軍を編成。三日後、王都を発つ」
声は震えなかった。
震えなかったことが、何よりも恐ろしかった。
老将軍が深く頭を下げる。
「御意」
参謀たちが命令書を走り書きする。
地図上の黒い駒が西へ動かされる。
それはもう、戦争が始まったことを意味していた。
ヴォルフラムが満足げに頷く。
「ご立派なご決断です、陛下」
ガイアスは彼を見なかった。
「アルビオンを出す」
その一言を口にした瞬間、遠くで音が鳴った。
王城地下、巨神格納庫の方角。
石の壁を越え、鉄の扉を越え、地の底から響くような低い音。
ゴォン――。
古い鐘の音に似ていた。
軍議室の者たちは気づかなかった。
あるいは、気づいても風の音だと思ったのかもしれない。
だがガイアスには分かった。
アルビオンだ。
沈黙していた父の巨神が、今、確かに鳴った。
まるで、眠っていた何かが、ガイアスの罪を聞き届けたように。
まるで、亡き父が問いかけているように。
――その剣は、誰のために振るう。
ガイアスは答えられなかった。
王として弟を討つと命じたばかりの口で、答えられるはずがなかった。
ただ、膝の上で握った拳だけが、わずかに震えていた。
最新エピソード
アルビオンの剣が、砲列へ落ちた。
青銀の刃は、兵士を斬らなかった。
砲身だけを斬った。
第一砲の長い鉄筒が、根元から断たれて宙へ跳ねる。第二砲の車輪が
最初の一歩で、谷が震えた。
アルビオンの右足が乾いた大地を踏み砕き、岩盤に亀裂が走る。遅れて巻き上がった砂塵が、青銀の巨神の膝までまとわりついた。
谷道へ近づくにつれ、風の匂いが変わった。
王都を出た時の空気は、石と霜と馬の匂いがした。
街道の途中では、焼けた木材と灰の匂いがした。
そして今、アルビオンの操縦
三日後の夜明け前、王都の西門は開かれた。
まだ空は暗い。東の端だけが、薄く青み始めている。街路には霜のような冷気が漂い、石畳を踏む軍靴の音だけが、規則正しく王都の眠りを叩いていた







