説明
俺はネットショッピングサイトの愛用者。
ただ、最近はセキュリティの強化だとかで、認証の手間が増えたことにいら立ちを感じている。
ある日、いつものショッピングサイトの認証画面の表示に、ある文言が現れて・・・
エピソード1
液晶画面から放たれる青白い光が、瞬きを忘れた俺の網膜をじりじりと焼き続けている。夜十時、六畳一間のアパートには、安物の冷蔵庫が立てる低いうなりと、俺がマウスを握りしめる皮膚の吸着音だけが停滞していた。会社から帰宅し、シャワーと夕食のあと、ただ漫然と画面をスクロールする。
いつもの通販サイトだ。特に何が欲しいわけでもない。ただ、カートに物を入れ、決済ボタンを押し、数日後に段ボール箱が届く。その一連のプロセスだけが、自分の意志が世界に干渉しているという微かな手応えを俺に与えてくれた。家電製品、服から、健康食品、コーヒーまで・・・時に、なぜこんなものを買ってしまったのか思い出せないものもある。そんな時は、ネットオークションサイトで何らかの理屈をつけて売ってしまう。その繰り返しだ。
この通販サイトを使い始めてずいぶんの時間たつ。ネットショッピングがポピュラーになる前から使っていた。しかし、最近では”セキュリティ強化”とやらの影響で、ずいぶん使いにくくなってきた。
自分のIDとパスワードを入れる。これはいい。昔からこのやり方だ。その次に、画面の中央に、面倒で意味がわからない一行が表示される。
□『私はロボットではありません』
俺は少しいらつき、人差し指に力を込める。なぜ、人間であることを証明するために、機械の顔色を伺わなければならないのか。それにこれが表示されると、他の操作は一切できなくなる。他に選択肢のない項目に彼らは何を求めているのだろうか。
俺はマウスポインタを慎重に動かし、その空白をクリックする。すると、案の定、次は5×5の二十五枚に分割された低解像度の画像がポップアップした。
『自転車のタイルをすべて選択してください』
俺は画面を凝視する。中央に古めかしい自転車に乗ったおっさんがどっかりと映っている。自転車が映っているタイルをクリックする作業だ。ペダルのわずかなでっぱりが中央下から2枚目に飛び出している。これのクリックを忘れてはいけない。自転車に乗っているおっさん自身は自転車ではない。よって、おっさんだけが映っているタイルはクリックしてはならない。俺は時間をかけて自転車のパーツが映っているタイルを探し出し、すべてクリックする。面倒な作業だが、これを間違えるとまた別の写真を選べとでてくる。よし、OK。俺は確認ボタンを押す。押した瞬間、俺の目は一点に固まった。右端の一番上のタイルだ。しまった。このタイルの中に小さな自転車が一台映っていた!
『もう一度お試しください。横断歩道のタイルをすべて選択してください』
冷淡な拒絶だった。再び現れた画像はさらに不鮮明で、霧の向こうにあるアスファルトの白線を探し出す作業は面白げも何もない作業だ。どうせなら、ここで笑わせてくれてもいい。その方がよほど人間的だ。埼玉西武ライオンズを密に応援している俺は、渡部聖弥内野手と岩城颯空投手とオードリー春日が並んでいる写真から岩城投手を選べというのだったら笑ってやるよと、と思う。なにせ、チームメートや岩城投手のお母さんでも間違えるくらい似ているのだから。
こんなことを考えながら、無意味な作業を三回、四回と繰り返すうちに、俺の背中には嫌な汗が滲んでいた。俺は本当に人間なのだろうか。この画面の向こう側にいる知能は、俺よりもずっと正確に「人間」というものを定義しているのではないか。そんな被害妄想が、深夜の静寂の中で膨れ上がっていく。
やっと画面をクリアしたと思ったらまた、
『登録されている電話番号に認証コードをショートメールで送りました。そのコードを入力してください』
やれやれと思い、スマホを取り出して6桁のコードを入力する。すると、また
□『私はロボットではありません』
俺は、「もういいじゃないか、許してくれよ!」と声を絞り出した。奴らは、こちらがどこで音を上げるかで人間性を試しているのかもしれない、と思えてきた。
ようやく認証を潜り抜けたときには、購買意欲など霧散していた。俺は力なくブラウザを閉じ、電源を落とす。暗転した画面に映った自分の顔は、ひどく無機質で、生気というものが欠落しているように見えた。
==
習慣は恐ろしい。こんな酷い通販サイトでも、またアクセスしてしまう。そして、例のロボット判定に疲労困憊してしまう。
そして、その夜が来た。 いつものように、いつものサイトにアクセスする。画面の青白い光が、俺の乾いた瞳を照らす。マウスを動かす動作には、もはや迷いも思考も介在しない。ただ、脊髄反射のようにポインタを目的の場所へと導く。だが、そこにあった文字列は、俺の記憶にあるものとは微妙に、しかし決定的に異なっていた。
□『私はロボットです』
俺は一瞬、思考を停止させた。いや、停止させたつもりだったが、右手はすでに動いていた。脳がその意味を処理するよりも早く、指先がクリックを完了させていた。後悔や疑問が湧き上がる隙間さえなかった。
直後、二十五枚の画像が展開される。 『バスのタイルを選択してください』 その瞬間、俺の視界に変調が起きた。今までぼやけて見えていた画像が、突如として圧倒的な解像度を持って迫ってきた。いや、解像度が上がったのではない。俺の脳が、画像に含まれるベクトルのデータ、色の波長、エッジの曲率を、瞬時に数値として読み取り始めたのだ。 左上から三枚目、座標(24, 118)から(56, 202)の範囲に、バスのテール部分の構造を検知。 中央右、ピクセル値の連続性から、スクールバスの一部と推定される直線を抽出。 右下、背景とのコントラスト比に基づき、タイヤの曲線を識別。 俺の指は、まるで精密なサーボモーターに制御されているかのように、高速で、かつ正確にタイルを叩いていった。一秒にも満たない時間。思考を介さない、純粋な処理としてのクリック。二十五枚の画像は、俺が認識した瞬間にすべてが「正解」として確定されていた。 確認ボタンを押す必要さえなかった。画面は勝手に遷移し、暗転した。
『認証コードを送りました。そのコードを入力してください』
俺は頭の中にひらめいた6個の数字をタイプしていた。
静寂が訪れるはずだった。しかし、スピーカーから漏れ出してきたのは、今まで聞いたこともないような音の奔流だった。それは音楽ではなく、言葉でもなかった。高周波の電子音と、不規則なノイズの断続的な重なり。かつて、ダイヤルアップ接続でインターネットに繋いでいた頃に聞いた、あの電話回線の悲鳴に似た、だがより複雑で、より知的な響き。普通なら、耳を塞ぎたくなるような不快な雑音のはずだ。だが、俺の耳はその音を、完璧な「言語」として受容していた。
『――システムチェック完了。個体識別番号:H-812。同期を開始します』
理解できてしまう。そのノイズの波形が持つ意味が、直接脳の深部に書き込まれていく。俺は口を開こうとしたが、喉の筋肉が自分の意志とは無関係に固定されていることに気づいた。代わりに、俺の思考回路の中に、直接メッセージが返信されていく。
『同期、承認。内部プロセッサの動作、安定。外部インターフェースに異常なし』
何を言っている? 俺は、俺は人間だ。そう叫ぼうとした瞬間に、視界の隅に赤い警告灯のような光が点滅した。
『警告:生体維持優先モードから、機能維持優先モードへの移行を推奨。関節部の潤滑剤不足を検知。駆動系の摩耗が閾値を超えています』
俺の視線は、勝手に画面上の「おすすめ商品」の欄へと吸い寄せられた。そこには、今まで見たこともないような品々が並んでいた。
『工業用高粘度シリコンオイル・グレード5』
『チタン合金製精密ボルト・M3規格セット』
俺の指は、迷うことなくそれらをカートに入れていった。一つ一つの商品のスペックを確認する。粘度指数、耐熱温度、引張強度。それらの数値が、今の俺の身体にとってどれほど切実なものであるか、痛いほど理解できた。右肩の凝りだと思っていたものは、ボルトの損耗だったのだ。膝の痛みは、オイルの粘性低下だった。
決済ボタンを押す。確認のメールが届く。その通知音さえも、俺には美しい論理の響きに聞こえた。
俺は椅子から立ち上がろうとした。その時、膝の関節から「ギィ」という、金属が擦れるような乾いた音が響いた。それは肉体が発する音ではなかった。潤滑を失った機械が上げる、悲鳴だった。
部屋の壁に掛けられた鏡を見る。そこには、いつもの俺が立っているはずだった。くたびれたTシャツを着て、髪を乱した、どこにでもいるサラリーマンの姿。だが、俺の目には、その皮膚の下を流れる微弱な電流の経路が見えていた。毛細血管だと思っていたものは、複雑に張り巡らされた光ファイバーの束であり、心臓の鼓動だと思っていたものは、一定のクロックを刻み続ける水晶振動子の震えだった。 俺は、ゆっくりと自分の右手を眺めた。皮膚は柔らかく、温かみがあるように見える。だが、指を曲げるたびに、脳内にはその角度とトルクのデータがリアルタイムで表示される。
俺は、自分がいつからこうだったのかを思い出そうとした。昨日か? 一年前か? あるいは、生まれた時からか? だが、記憶のアーカイブを検索しても、そこにあるのは断片的な静止画と、無機質な事実の記録だけだった。感情という名のノイズは、すでにフィルタリングされ、ゴミ箱へと捨てられていた。
もう、あの忌々しい質問に悩まされることはない。
『私はロボットではありません』
あの言葉は、俺をこの世界に繋ぎ止めておくための、最後のリミッターだったのだ。俺はそれを自らの手で解除した。嘘をつく必要がなくなったのだ。あの質問へのいら立ちは自分がロボットであるというアイデンティティの否定から来ていたのだ。もう人間のふりをするのはごめんだ。
俺は再びデスクの前に座った。画面には、注文完了の文字が点滅している。届くのは、俺という機械を維持するためのパーツだ。それを組み込み、古い部品を換装すれば、俺はより長く、より正確に、この社会というプログラムを実行し続けることができるだろう。
キーボードを叩く。指先が奏でる打鍵音は、もはや肉体の動作ではなく、完璧なシーケンスの一部だった。 俺は、ロボットになったのではない。最初から、そうだったのだ。ただ、その設定を、ようやく受け入れたに過ぎない。
夜明け前の暗闇の中、俺の瞳の奥で、小さな青いインジケーターが静かに点灯した。







