月影の獣と闇の貴族
説明
霧深いロンドンの裏路地。
ガス灯が鈍い光を放ち、濡れた石畳に影が揺れる。
夜気は冷え、月は満ち、獣と闇はその力を最大限に引き出す時を迎えていた。
エピソード1
――古書店『夜啼亭』の鍵は、もう二度と開くことはないだろう。
ルーカス・ハーウッドは、それを知っていた。
蝋燭の火が一つ、床の間で揺れている。火口は赤く、まるで小さな獣の舌のように、闇を舐めていた。本の匂い――紙と墨と、少しだけカビ――が、冷えた空気に溶けて、彼の喉に絡みつく。店じまいの板戸は降ろしたが、雨戸は開けっ放しだ。街の灯りが、硝子戸のむこうでにじんでいる。夜更けの町は、まだ寝静まらない。どこかで鐘が一つ、鈍く鳴った。
ルーカスは、帳場の椅子に腰を下ろしたまま、片手で本を開いている。表紙は革張りで、金の文字が半分剥がれている。『東方奇譚集』――十年前に仕入れたまま、売れ残った一冊だ。ページをめくる指先に、爪が伸びかけている。白い、硬い、半月形の――人間の爪ではもうない。彼は爪を噛み切り、ページの端にこすりつけた。紙が「ざらり」と鳴る。それだけで、胸の奥がざわついた。
――あのとき、ここで読んでいた本は、もっと軽かった。
――あのとき、隣に座っていたのは、彼女だった。
記憶は、蝋燭の火よりも弱く、すぐに揺らぐ。名前を呼ぶ声が、耳の奥で響く。確かめるように、ルーカスは息を吸った。古本の匂いと一緒に、かすかな椿の香りが混じっている。彼女の好んだ花だ。彼は顔を上げた。暗がりの奥、書架の間に、白い裾が見えた気がした。が、次の瞬間、それは闇に溶けた。幻だった。彼は唇を噛み、本を閉じた。ばさり、という音が、店じゅうに響く。
蝋燭の火が、ぴくりと跳ねた。火口が長くなり、影が壁を這う。ルーカスは立ち上がり、床を踏みしめた。古い板が、きしんだ。足音を殺して、彼は書架の間を進む。指先で背表紙をなぞる。背表紙は、まるで小さな墓碑のように、冷たい。どこからか、犬の遠吠えが聞こえた。低く、長く、喉の奥を震わせる――人狼の声だ。彼は足を止め、自分の喉が熱くなるのを感じた。胸の奥で、獣が爪を立てている。まだ月は出ていない。が、もう時間は近い。
「……おれは、戻る」
彼は呟いた。声は、自分のものとは思えなかった。かすれて、低く、まるで砂を噛んでいるようだ。
「人間に、戻る」
答えはない。書架の間を風が通り、本のページがぱたぱたと震える。彼は額に手をやった。熱い。汗は冷たい。体の奥で、骨がきしんでいる。まだ人間の皮を着ているうちに、彼は店の奥へと進んだ。奥の部屋――かつては住居だった――の戸を開ける。そこはもう、倉庫だ。箱に詰めた本が、山のように積まれている。中央に、一枚の鏡が立てかけてある。布をかけてあるが、鏡の端がのぞいている。銀の縁が、蝋燭の光を受けて、細く光る。
ルーカスは、布を取った。鏡の中に、自分がいた。金色の瞳ではない。まだ、青みを残した灰色だ。が、虹彩の周囲が、ぎりぎりまで金色に侵されている。まるで、輪郭を焼かれているように。彼は指を伸ばし、鏡に触れた。指先が震えている。爪は、もう人間のものではない。先が尖り、内側にうねっている。彼は拳を握り、鏡を突いた。ガラスが「きん、」と鳴った。割れない。が、指の骨がしびれた。
――ヴァルデマール。
――おまえが、こうした。
名を思い浮かべるだけで、喉の奥が熱くなった。金色の瞳が、闇の奥で浮かぶ。まるで、月の裏側にでも住んでいるようだ。彼は鏡を見つめた。自分の顔が、ゆがんでいる。頬がこけ、髪が抜けかけている。人間のままでいる時間が、もうない。彼は膝を折り、床に座り込んだ。板の間に、かすかな血の痕がある。誰の血か、もうわからない。彼は指でなぞった。乾いている。が、匂いはまだ残っている。鉄と、塩と、少しだけ脂の――人間の血だ。
「……おれは、殺した」
彼は呟いた。声は、喉の奥から這い上がってくる。
「人を、殺した」
記憶は、ぼやけている。が、匂いだけははっきりしている。あの夜、店を閉めて、帳場で酒を飲んでいた。戸が開き、風が入った。それきりだ。次に意識を取り戻したとき、床に血の海があった。手に、爪が伸びていた。奥の部屋に、誰かの足音がした。が、もう誰もいなかった。ただ、金色の瞳が、硝子戸のむこうに、ちらりと見えた気がした。それが、ヴァルデマールだった。彼は、呪いを持ち込んだ。本でも、酒でも、言葉でも――わからない。が、もう遅い。
遠吠えが、もう一度、聞こえた。今度は近い。町の外れ、森のほうだ。彼は顔を上げた。耳が、自分でも驚くほど鋭くなっている。足音、車輪の音、猫の啼き声――すべてが、はっきりと聞こえる。体の奥で、獣が唸っている。もう、逃げられない。彼は立ち上がり、鏡を見つめた。金色が、虹彩の半分を占めている。まもなく、月が出る。彼は、奥の箱を開けた。中から、銀のナイフが出てきた。柄は、古い木で、刃は細い。それを手に、彼は呟いた。
「……おれを、殺す」
声は、静かだった。
「おれを、人間に戻す」
ナイフを握りしめ、彼は店を出た。帳場の蝋燭が、最後に一瞬、大きく揺れた。火口が細くなり、消えた。闇が、残った。風が吹き込み、本のページがめくられた。一枚、また一枚――最後に、表紙が閉じる音がした。店じゅうに、静寂が落ちた。外で、月がのぼり始めている。金色ではない。まだ、白い。が、やがて、血の色に変わる。ルーカス・ハーウッドは、それを知っている。彼は、雨戸を開け、一歩、外に出た。冷たい夜気が、喉を撫でた。遠くで、鐘が二つ、鳴った。もう、戻れない。彼は、歩き出した。影が、背中についてくる。金色の瞳が、闇の奥で、じっと、彼を見つめている。







