第4763号世界、展示不適
説明
死んだ父親に与えられた仕事は、世界の終わりを報告書にすることだった。
ライトノベル作家・鳴海透は、娘をかばって命を落とした後、滅びた世界を収蔵する「銀河博物館」へ導かれる。
そこで彼に与えられた役目は、多重世界を巡り、それぞれの世界を展示するか、存続させるかを判断する館長代理。
だが、透がその仕事を引き受けた理由は、正義でも使命感でもない。
いつか、自分が生きていた第4763号世界へ行けば、娘にもう一度会えるかもしれない。
ただ、それだけだった。
世界を展示することは、弔いなのか。 それとも、未来を奪うことなのか。
これは、父が娘に届けられなかった物語の続きを探す、銀河博物館の監査記録。
エピソード1
送信ボタンを押した瞬間、鳴海透は椅子の背もたれに沈み込んだ。
午前五時四十七分。
窓の外では、夜と朝の境目みたいな薄い青が、マンションの隙間に滲んでいる。鳥が鳴き始めるには少し早く、新聞配達のバイクが走り抜けるには少し遅い。世界で一番、人間がまともな判断をしてはいけない時間帯だった。
そんな時間に、透は今月もどうにか原稿を送り終えた。
「……これで今月も、作家を名乗っていいらしい」
誰にともなく呟く。
画面には、担当編集へ送信したメールが表示されていた。
『最新稿、送付いたします。ご確認ください。鳴海透』
たったそれだけの文章を打つために、彼はこの三日で睡眠時間を合計七時間ほどしか取っていない。
机の上には、空になった缶コーヒーが三本。半分だけ食べたコンビニおにぎり。赤ペンだらけのゲラ。娘が幼稚園の頃に描いた、妙に足の長いドラゴンの絵。そこに「おとうさんがんばれ」と、ひらがなで書かれている。
透はその絵を見て、小さく笑った。
「頑張ったぞ、響。父は今、締切という魔王を倒した」
言った直後、パソコンが軽い通知音を鳴らした。
担当編集からの返信だった。
『ありがとうございます! 確認します! それと次巻プロット、来週頭までにいただけますと助かります!』
透は画面を見つめた。
「魔王、第二形態あったのかよ」
椅子からずり落ちそうになりながら、彼は深いため息をつく。
作家という仕事は、物語を書き終えても終わらない。終わった瞬間、次の物語が口を開けて待っている。読者も、編集も、出版社も、そしてなにより自分自身も、続きを求める。
だから書く。
続きを待っている誰かがいる気がしてしまうから。
そのとき、仕事部屋のドアが、少しだけ開いた。
「……お父さん」
細い声だった。
透は反射的に背筋を伸ばし、机の上の缶コーヒーを隠そうとして、逆に一本を倒しかけた。
「お、おはよう、響。早いな」
ドアの隙間から顔を出したのは、娘の響だった。
まだ小学生になったばかりの、小さな女の子。寝癖のついた髪を片側だけ跳ねさせ、パジャマの袖を握りしめている。眠そうな目なのに、その奥には心配そうな色があった。
「今日……行ける?」
たった一言。
それだけで、透の胸は少し痛んだ。
今日は、遊園地に行く約束の日だった。
何度も延期した。
締切があるから。打ち合わせが入ったから。体調を崩したから。急な修正が出たから。大人の事情を並べれば、それらはどれも嘘ではなかった。
けれど、響にとっては全部、同じ意味だったはずだ。
お父さんは、また約束を守れなかった。
透は椅子から立ち上がった。少しふらついたが、壁に手をついて誤魔化す。
「行く」
「ほんと?」
「ほんと。今日は絶対に行く」
響の表情が、まだ半分疑っている。
透は胸を張った。
「今日は作家を休む日だ」
「作家って、休めるの?」
「本来は休めない。でも今日は、父親の方が先に予約済みなんだ」
響は少し考えて、それから笑った。
「じゃあ、お父さんだけの日?」
「ああ。今日は一日、鳴海透先生は留守です。ここにいるのは、ただのお父さんです」
そう言うと、響はようやくドアを大きく開けた。
朝食は、いつも通り少し失敗した。
トーストは端が黒くなり、目玉焼きの黄身は皿へ移す途中で崩れた。透はそれを見下ろし、真剣な顔で言った。
「これは黄身が自ら自由を選んだ結果だ」
「失敗でしょ」
「料理にはな、失敗という言葉はない。予想外の展開があるだけだ」
「じゃあ、この黒いパンは?」
「伏線の回収に失敗した」
響は声を出して笑った。
食卓は二人分だった。
それが当たり前になって、もう何年も経つ。最初は広すぎたテーブルも、今ではちょうどいい大きさになってしまった。人は足りないものにさえ、いつか慣れてしまう。透はそのことが、少しだけ怖かった。
響は焦げたトーストの黒いところを避けながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「今日帰ったら、昨日の続きしてくれる?」
「昨日の続き?」
「銀河を集める博物館の話」
透はコーヒーを飲みかけて、少しだけ止まった。
それは、寝る前に響へ話していた即興の物語だった。仕事で疲れていても、短くてもいいから、彼は響に物語を話すようにしていた。
宇宙を渡る猫の話。泣き虫の魔王の話。本棚の奥にある小さな王国の話。
そして最近話していたのが、銀河博物館の話だった。
終わってしまった星や、滅びた世界や、誰にも読まれなかった手紙を飾る、不思議な博物館。
「あれ、まだ設定固まってないんだよ」
「でも好き」
「そうか」
「うん。ちょっと怖いけど、きれい」
透は笑った。
「じゃあ、帰ったら続きを話す。ちゃんとしたやつを」
「約束?」
「約束」
響は小指を差し出した。
透は少し照れながら、その小指に自分の小指を絡めた。
「破ったら?」
「締切が全部一日前倒しになる呪い」
「それ、お父さんがいちばん困るやつ」
「だから絶対守る」
響は満足そうに頷いた。
遊園地へ向かう電車の中で、響はずっと窓の外を見ていた。
透はその横顔を、スマホのカメラでこっそり撮った。すぐに響に見つかり、「変な顔で撮らないで」と怒られた。
「大丈夫。父の撮影技術は壊滅的だから、変かどうかも分からない」
「それ大丈夫じゃない」
遊園地は休日らしく賑わっていた。
ゲートをくぐった瞬間、響の顔がぱっと明るくなる。色とりどりの風船。ポップコーンの甘い匂い。遠くから聞こえるパレードの音楽。キャラクターの着ぐるみに手を振る子どもたち。
透は寝不足で足元が少しふわついていたが、響の笑顔を見ると、来てよかったと思った。
本当に。
今日は来られてよかった。
メリーゴーランドに乗り、コーヒーカップで回されすぎて透が青ざめ、響がそれを見て腹を抱えて笑った。ポップコーンを買ったら、響は半分以上を鳩に狙われ、透は父親らしく鳩を追い払おうとして、逆に響に「やめて、恥ずかしい」と止められた。
何度かスマホが震えた。
編集からだった。
透は画面を見た。
そして、伏せた。
今日は作家を休む日だ。
夕方近く、二人は観覧車に乗った。
ゴンドラがゆっくりと上がっていく。遊園地の光が少しずつ小さくなり、代わりに街の輪郭が見えてくる。夕焼けは淡い橙から紫へ変わり始めていた。
響は窓に額を近づけて、目を輝かせている。
「高いね」
「高いな」
「お父さん、高いところ苦手?」
「作家は基本、低いところで締切に追われる生き物だからな」
「つまり苦手なんだ」
「少しだけな」
響はくすくす笑ったあと、不意に真面目な顔をした。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「お父さんは、どうして物語を書くの?」
透はすぐには答えられなかった。
ゴンドラの外で、夕日が街のビルに反射している。遠くの雲が、燃えるように赤い。
「締切があるから」
「ほんとの理由」
響は容赦なかった。
透は苦笑して、頭を掻いた。
「そうだな……」
どうして書くのか。
売れたいから。読んでもらいたいから。生活のため。褒められたいから。自分の中にあるものを形にしないと苦しいから。
理由はいくつもあった。
けれど、娘に言うなら、きっと一番単純な言葉がいい。
「誰かが、まだ続きを待ってるかもしれないからかな」
「続きを?」
「ああ。物語って、書いてる本人だけのものじゃないんだ。読んだ人の中にも、少しだけ残る。だから、誰かが続きを待ってくれているなら、その世界はまだ終わってない気がする」
響は難しい顔をした。
「じゃあ、終わった世界も、誰かが覚えてたら続いてるの?」
「……そうかもしれないな」
透は少しだけ驚いた。
子どもは時々、大人が時間をかけて遠回りした場所へ、何気なくたどり着く。
「終わった世界は、もう動かないかもしれない。でも、誰かが覚えていれば、少しだけ続く。誰かが話して、誰かが聞いて、誰かがまた思い出す。その間は、完全には消えない」
「じゃあ、銀河博物館も?」
「銀河博物館も」
「展示されてる世界は、終わってるの?」
透は窓の外を見た。
夕焼けの中、遊園地の影が長く伸びている。
「終わった世界もある。だけど、まだ誰かが続きを願っている世界は、展示しちゃいけない」
「なんで?」
「だって、それはまだ終わってないからだ」
響はその言葉を、ゆっくり飲み込むように黙った。
それから、小さく笑った。
「じゃあ、私が続きを待ってたら、お父さんの話も終わらない?」
透は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「ああ。響が待っててくれるなら、終われないな」
「じゃあ待ってる」
「責任重大だ」
「だから、帰ったら絶対続きね」
「分かった。帰ったら、銀河博物館の続きを話す」
ゴンドラが頂上を過ぎた。
空は少しずつ夜に近づいていた。
観覧車を降りたあと、響はまだ元気だった。
「次、あれ乗りたい!」
響が指差した先には、観覧車の近くにある小さなライドアトラクションがあった。古いが人気のある乗り物で、子ども連れの列ができている。
透は時間を確認した。
スマホには、不在着信が二件。編集からのメッセージも増えている。
『先生、確認事項がありまして、お電話可能でしょうか』
いつもの透なら、電話をかけ直していた。
けれど、響がこちらを見上げている。
「だめ?」
透はスマホをポケットにしまった。
「行こう」
「やった!」
響が走り出そうとする。
「走るな。父の体力はもう瀕死だ」
「じゃあ早歩き」
「それもほぼ攻撃だ」
笑いながら、透は響の手を握った。
その時だった。
遠くで、金属が軋むような音がした。
ほんの一瞬。
人々の笑い声と音楽に紛れて、ほとんど誰も気づかないような音だった。
透は足を止めた。
「お父さん?」
「いや……」
気のせいかもしれない。
古い設備なら、あれくらいの音はするだろう。そう思おうとした。
けれど次の瞬間、スタッフの一人が慌てた様子で駆けていくのが見えた。
透の胸が、嫌な形に冷えた。
「響、こっちに――」
言い終える前に、世界が割れるような音がした。
悲鳴。
何かが弾ける音。
人の流れが乱れ、誰かがぶつかり、響の手が一瞬だけ離れた。
「響!」
考えるより先に、体が動いていた。
視界の端で、大きな影が傾く。
落ちてくる。
物語なら、ここで都合よく誰かが助けに来る。
主人公なら、驚くほど冷静に最適解を選べる。
伏線があり、奇跡があり、読者が納得するだけの理由が用意される。
けれど現実は、伏線を待ってくれなかった。
透は響を抱き寄せた。
小さな体を、自分の腕の中へ押し込める。
背中に衝撃が走った。
痛みより先に、音が消えた。
視界が揺れる。
地面が近い。
響の泣き声だけが、妙にはっきり聞こえた。
「お父さん! お父さん!」
返事をしようとした。
大丈夫だ、と言いたかった。
泣くな、と笑いたかった。
帰ったら続きを話す、と約束を守りたかった。
けれど、喉からは息しか漏れなかった。
響の顔が見える。
泣いている。
ごめんな。
透はそう思った。
今日は作家を休む日だった。
父親だけをやる日だった。
なのに、最後まで父親をやることすら、こんなにも難しい。
視界の端で、空が滲んでいく。
遊園地の光がぼやけ、音楽が遠ざかる。
まだだ。
まだ、終われない。
響に、続きを話していない。
銀河博物館の続きを。
まだ誰かが続きを待っている世界は、展示してはいけないのだと。
それを、まだ――。
闇が落ちた。
何も見えなくなった。
何も聞こえなくなった。
それでも、どこか遠くで、声がした。
「あら」
男とも女ともつかない、派手で、妙に艶のある声だった。
「ずいぶん未練たっぷりな終わり方ねぇ」
透は答えようとした。
だが、体がない。
声も出ない。
ただ、意識だけが闇の中に浮かんでいる。
「でも、嫌いじゃないわ」
声は楽しそうに、けれど少しだけ優しく言った。
「あなたの物語、まだ少し読んでみたいもの」
闇の向こうに、光が灯った。
最初は星だと思った。
けれど違った。
星は、そこに浮かんでいるのではなかった。
飾られていた。
無数の星が、無数の世界が、果てしない闇の中に並んでいる。
ガラスの向こうで輝く銀河。
静かに回る惑星。
誰にも届かなかった祈り。
終わってしまった文明の残響。
それらすべてを収めた、途方もなく巨大な場所。
透は、闇の中で目を開けた。
そこには、星を飾るための博物館があった。
最新エピソード
夜の街は、雨上がりの匂いがした。
アスファルトにはまだ薄く水が残っていて、街灯の光を細く伸ばしている。車のライトが通り過ぎるたび、濡れた路面に赤や白の線が流れた。
理由。
まだ、父に伝えていない言葉がある。
鳴海響は、その一文を何度も読み返した。
閉園を告げる音楽は、もう止んでいた。
第4510号世界の白い花びらは、報告書の間で静かに眠っていた。
予定された風と違う方向へ舞った一枚。
透は、その花びらを何度も見返していた。
光のインクの粒は、報告書の間でかすかに瞬いていた。
透はそれを、しばらく見つめていた。
自分の死を知った観測者。
自分がすでに終わった







