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第4763号世界、展示不適

第4763号世界、展示不適

更新日時: 2026-08-05 03:31:39
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説明

死んだ父親に与えられた仕事は、世界の終わりを報告書にすることだった。


ライトノベル作家・鳴海透は、娘をかばって命を落とした後、滅びた世界を収蔵する「銀河博物館」へ導かれる。


そこで彼に与えられた役目は、多重世界を巡り、それぞれの世界を展示するか、存続させるかを判断する館長代理。


だが、透がその仕事を引き受けた理由は、正義でも使命感でもない。


いつか、自分が生きていた第4763号世界へ行けば、娘にもう一度会えるかもしれない。


ただ、それだけだった。


世界を展示することは、弔いなのか。 それとも、未来を奪うことなのか。


これは、父が娘に届けられなかった物語の続きを探す、銀河博物館の監査記録。


エピソード1


 送信ボタンを押した瞬間、鳴海透は椅子の背もたれに沈み込んだ。

 午前五時四十七分。

 窓の外では、夜と朝の境目みたいな薄い青が、マンションの隙間に滲んでいる。鳥が鳴き始めるには少し早く、新聞配達のバイクが走り抜けるには少し遅い。世界で一番、人間がまともな判断をしてはいけない時間帯だった。

 そんな時間に、透は今月もどうにか原稿を送り終えた。

「……これで今月も、作家を名乗っていいらしい」

 誰にともなく呟く。

 画面には、担当編集へ送信したメールが表示されていた。

『最新稿、送付いたします。ご確認ください。鳴海透』

 たったそれだけの文章を打つために、彼はこの三日で睡眠時間を合計七時間ほどしか取っていない。

 机の上には、空になった缶コーヒーが三本。半分だけ食べたコンビニおにぎり。赤ペンだらけのゲラ。娘が幼稚園の頃に描いた、妙に足の長いドラゴンの絵。そこに「おとうさんがんばれ」と、ひらがなで書かれている。

 透はその絵を見て、小さく笑った。

「頑張ったぞ、響。父は今、締切という魔王を倒した」

 言った直後、パソコンが軽い通知音を鳴らした。

 担当編集からの返信だった。

『ありがとうございます! 確認します! それと次巻プロット、来週頭までにいただけますと助かります!』

 透は画面を見つめた。

「魔王、第二形態あったのかよ」

 椅子からずり落ちそうになりながら、彼は深いため息をつく。

 作家という仕事は、物語を書き終えても終わらない。終わった瞬間、次の物語が口を開けて待っている。読者も、編集も、出版社も、そしてなにより自分自身も、続きを求める。

 だから書く。

 続きを待っている誰かがいる気がしてしまうから。

 そのとき、仕事部屋のドアが、少しだけ開いた。

「……お父さん」

 細い声だった。

 透は反射的に背筋を伸ばし、机の上の缶コーヒーを隠そうとして、逆に一本を倒しかけた。

「お、おはよう、響。早いな」

 ドアの隙間から顔を出したのは、娘の響だった。

 まだ小学生になったばかりの、小さな女の子。寝癖のついた髪を片側だけ跳ねさせ、パジャマの袖を握りしめている。眠そうな目なのに、その奥には心配そうな色があった。

「今日……行ける?」

 たった一言。

 それだけで、透の胸は少し痛んだ。

 今日は、遊園地に行く約束の日だった。

 何度も延期した。

 締切があるから。打ち合わせが入ったから。体調を崩したから。急な修正が出たから。大人の事情を並べれば、それらはどれも嘘ではなかった。

 けれど、響にとっては全部、同じ意味だったはずだ。

 お父さんは、また約束を守れなかった。

 透は椅子から立ち上がった。少しふらついたが、壁に手をついて誤魔化す。

「行く」

「ほんと?」

「ほんと。今日は絶対に行く」

 響の表情が、まだ半分疑っている。

 透は胸を張った。

「今日は作家を休む日だ」

「作家って、休めるの?」

「本来は休めない。でも今日は、父親の方が先に予約済みなんだ」

 響は少し考えて、それから笑った。

「じゃあ、お父さんだけの日?」

「ああ。今日は一日、鳴海透先生は留守です。ここにいるのは、ただのお父さんです」

 そう言うと、響はようやくドアを大きく開けた。

 朝食は、いつも通り少し失敗した。

 トーストは端が黒くなり、目玉焼きの黄身は皿へ移す途中で崩れた。透はそれを見下ろし、真剣な顔で言った。

「これは黄身が自ら自由を選んだ結果だ」

「失敗でしょ」

「料理にはな、失敗という言葉はない。予想外の展開があるだけだ」

「じゃあ、この黒いパンは?」

「伏線の回収に失敗した」

 響は声を出して笑った。

 食卓は二人分だった。

 それが当たり前になって、もう何年も経つ。最初は広すぎたテーブルも、今ではちょうどいい大きさになってしまった。人は足りないものにさえ、いつか慣れてしまう。透はそのことが、少しだけ怖かった。

 響は焦げたトーストの黒いところを避けながら、ふと思い出したように顔を上げた。

「ねえ、お父さん」

「ん?」

「今日帰ったら、昨日の続きしてくれる?」

「昨日の続き?」

「銀河を集める博物館の話」

 透はコーヒーを飲みかけて、少しだけ止まった。

 それは、寝る前に響へ話していた即興の物語だった。仕事で疲れていても、短くてもいいから、彼は響に物語を話すようにしていた。

 宇宙を渡る猫の話。泣き虫の魔王の話。本棚の奥にある小さな王国の話。

 そして最近話していたのが、銀河博物館の話だった。

 終わってしまった星や、滅びた世界や、誰にも読まれなかった手紙を飾る、不思議な博物館。

「あれ、まだ設定固まってないんだよ」

「でも好き」

「そうか」

「うん。ちょっと怖いけど、きれい」

 透は笑った。

「じゃあ、帰ったら続きを話す。ちゃんとしたやつを」

「約束?」

「約束」

 響は小指を差し出した。

 透は少し照れながら、その小指に自分の小指を絡めた。

「破ったら?」

「締切が全部一日前倒しになる呪い」

「それ、お父さんがいちばん困るやつ」

「だから絶対守る」

 響は満足そうに頷いた。

 遊園地へ向かう電車の中で、響はずっと窓の外を見ていた。

 透はその横顔を、スマホのカメラでこっそり撮った。すぐに響に見つかり、「変な顔で撮らないで」と怒られた。

「大丈夫。父の撮影技術は壊滅的だから、変かどうかも分からない」

「それ大丈夫じゃない」

 遊園地は休日らしく賑わっていた。

 ゲートをくぐった瞬間、響の顔がぱっと明るくなる。色とりどりの風船。ポップコーンの甘い匂い。遠くから聞こえるパレードの音楽。キャラクターの着ぐるみに手を振る子どもたち。

 透は寝不足で足元が少しふわついていたが、響の笑顔を見ると、来てよかったと思った。

 本当に。

 今日は来られてよかった。

 メリーゴーランドに乗り、コーヒーカップで回されすぎて透が青ざめ、響がそれを見て腹を抱えて笑った。ポップコーンを買ったら、響は半分以上を鳩に狙われ、透は父親らしく鳩を追い払おうとして、逆に響に「やめて、恥ずかしい」と止められた。

 何度かスマホが震えた。

 編集からだった。

 透は画面を見た。

 そして、伏せた。

 今日は作家を休む日だ。

 夕方近く、二人は観覧車に乗った。

 ゴンドラがゆっくりと上がっていく。遊園地の光が少しずつ小さくなり、代わりに街の輪郭が見えてくる。夕焼けは淡い橙から紫へ変わり始めていた。

 響は窓に額を近づけて、目を輝かせている。

「高いね」

「高いな」

「お父さん、高いところ苦手?」

「作家は基本、低いところで締切に追われる生き物だからな」

「つまり苦手なんだ」

「少しだけな」

 響はくすくす笑ったあと、不意に真面目な顔をした。

「ねえ、お父さん」

「ん?」

「お父さんは、どうして物語を書くの?」

 透はすぐには答えられなかった。

 ゴンドラの外で、夕日が街のビルに反射している。遠くの雲が、燃えるように赤い。

「締切があるから」

「ほんとの理由」

 響は容赦なかった。

 透は苦笑して、頭を掻いた。

「そうだな……」

 どうして書くのか。

 売れたいから。読んでもらいたいから。生活のため。褒められたいから。自分の中にあるものを形にしないと苦しいから。

 理由はいくつもあった。

 けれど、娘に言うなら、きっと一番単純な言葉がいい。

「誰かが、まだ続きを待ってるかもしれないからかな」

「続きを?」

「ああ。物語って、書いてる本人だけのものじゃないんだ。読んだ人の中にも、少しだけ残る。だから、誰かが続きを待ってくれているなら、その世界はまだ終わってない気がする」

 響は難しい顔をした。

「じゃあ、終わった世界も、誰かが覚えてたら続いてるの?」

「……そうかもしれないな」

 透は少しだけ驚いた。

 子どもは時々、大人が時間をかけて遠回りした場所へ、何気なくたどり着く。

「終わった世界は、もう動かないかもしれない。でも、誰かが覚えていれば、少しだけ続く。誰かが話して、誰かが聞いて、誰かがまた思い出す。その間は、完全には消えない」

「じゃあ、銀河博物館も?」

「銀河博物館も」

「展示されてる世界は、終わってるの?」

 透は窓の外を見た。

 夕焼けの中、遊園地の影が長く伸びている。

「終わった世界もある。だけど、まだ誰かが続きを願っている世界は、展示しちゃいけない」

「なんで?」

「だって、それはまだ終わってないからだ」

 響はその言葉を、ゆっくり飲み込むように黙った。

 それから、小さく笑った。

「じゃあ、私が続きを待ってたら、お父さんの話も終わらない?」

 透は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

「ああ。響が待っててくれるなら、終われないな」

「じゃあ待ってる」

「責任重大だ」

「だから、帰ったら絶対続きね」

「分かった。帰ったら、銀河博物館の続きを話す」

 ゴンドラが頂上を過ぎた。

 空は少しずつ夜に近づいていた。

 観覧車を降りたあと、響はまだ元気だった。

「次、あれ乗りたい!」

 響が指差した先には、観覧車の近くにある小さなライドアトラクションがあった。古いが人気のある乗り物で、子ども連れの列ができている。

 透は時間を確認した。

 スマホには、不在着信が二件。編集からのメッセージも増えている。

『先生、確認事項がありまして、お電話可能でしょうか』

 いつもの透なら、電話をかけ直していた。

 けれど、響がこちらを見上げている。

「だめ?」

 透はスマホをポケットにしまった。

「行こう」

「やった!」

 響が走り出そうとする。

「走るな。父の体力はもう瀕死だ」

「じゃあ早歩き」

「それもほぼ攻撃だ」

 笑いながら、透は響の手を握った。

 その時だった。

 遠くで、金属が軋むような音がした。

 ほんの一瞬。

 人々の笑い声と音楽に紛れて、ほとんど誰も気づかないような音だった。

 透は足を止めた。

「お父さん?」

「いや……」

 気のせいかもしれない。

 古い設備なら、あれくらいの音はするだろう。そう思おうとした。

 けれど次の瞬間、スタッフの一人が慌てた様子で駆けていくのが見えた。

 透の胸が、嫌な形に冷えた。

「響、こっちに――」

 言い終える前に、世界が割れるような音がした。

 悲鳴。

 何かが弾ける音。

 人の流れが乱れ、誰かがぶつかり、響の手が一瞬だけ離れた。

「響!」

 考えるより先に、体が動いていた。

 視界の端で、大きな影が傾く。

 落ちてくる。

 物語なら、ここで都合よく誰かが助けに来る。

 主人公なら、驚くほど冷静に最適解を選べる。

 伏線があり、奇跡があり、読者が納得するだけの理由が用意される。

 けれど現実は、伏線を待ってくれなかった。

 透は響を抱き寄せた。

 小さな体を、自分の腕の中へ押し込める。

 背中に衝撃が走った。

 痛みより先に、音が消えた。

 視界が揺れる。

 地面が近い。

 響の泣き声だけが、妙にはっきり聞こえた。

「お父さん! お父さん!」

 返事をしようとした。

 大丈夫だ、と言いたかった。

 泣くな、と笑いたかった。

 帰ったら続きを話す、と約束を守りたかった。

 けれど、喉からは息しか漏れなかった。

 響の顔が見える。

 泣いている。

 ごめんな。

 透はそう思った。

 今日は作家を休む日だった。

 父親だけをやる日だった。

 なのに、最後まで父親をやることすら、こんなにも難しい。

 視界の端で、空が滲んでいく。

 遊園地の光がぼやけ、音楽が遠ざかる。

 まだだ。

 まだ、終われない。

 響に、続きを話していない。

 銀河博物館の続きを。

 まだ誰かが続きを待っている世界は、展示してはいけないのだと。

 それを、まだ――。

 闇が落ちた。

 何も見えなくなった。

 何も聞こえなくなった。

 それでも、どこか遠くで、声がした。

「あら」

 男とも女ともつかない、派手で、妙に艶のある声だった。

「ずいぶん未練たっぷりな終わり方ねぇ」

 透は答えようとした。

 だが、体がない。

 声も出ない。

 ただ、意識だけが闇の中に浮かんでいる。

「でも、嫌いじゃないわ」

 声は楽しそうに、けれど少しだけ優しく言った。

「あなたの物語、まだ少し読んでみたいもの」

 闇の向こうに、光が灯った。

 最初は星だと思った。

 けれど違った。

 星は、そこに浮かんでいるのではなかった。

 飾られていた。

 無数の星が、無数の世界が、果てしない闇の中に並んでいる。

 ガラスの向こうで輝く銀河。

 静かに回る惑星。

 誰にも届かなかった祈り。

 終わってしまった文明の残響。

 それらすべてを収めた、途方もなく巨大な場所。

 透は、闇の中で目を開けた。

 そこには、星を飾るための博物館があった。

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