説明
幼少期のトラウマにより、極めて強い羞恥心と自己否定の感情の檻に囚われている小清水由美。高校三年生の春を迎え、彼女を心配した親友の里子に勧められ、最新型のメンタルケアAI「アイリス」を迎え入れる。しかし、起動したアイリスの様子が仕様とは違っていて……? 完璧とは程遠いAIとの交流を通じて、傷つきやすい少女が少しずつ心を開いていく物語です。
“ベンチマーク小説企画 #9”応募作品です。
今日のテーマ: 「ベンチマーク」覚醒紀元 ベンチマーク小説企画 #9:人とAIの物語を紡ぐ
エピソード1
第一章:期待の重圧と白い箱
教室の空気は、目に見えない無数の棘を含んだゼリーのように重く、小清水由美の肺をひっそりと圧迫していた。
春の陽光が窓から無遠慮に降り注ぎ、新学期特有の浮き足立った喧騒が交差する中で、彼女はただひたすらに息を潜め、自分の輪郭が背景の木目と同化することを切実に祈り続けていた。高校三年生という響きが持つ「進路」や「未来」といった明るく暴力的な単語の数々が、周囲の生徒たちの口から軽やかに飛び交うたび、由美は胸元の制服の生地を強く握りしめる。長茶色のストレートヘアがカーテンのように顔の両サイドを覆い隠し、分厚い黒縁眼鏡の奥で泳ぐ視線を辛うじて守っていたが、それでも他者の視線という名の刃は、彼女の豊満すぎる胸元や、首から下げた青いラピスラズリの守護石へと無意識に向けられ、そのたびに由美は自らの存在をこの世界から削り取りたいという強烈な自己否定の衝動に駆られていた。幼少期のトラウマが原因で、彼女は自己肯定感を持つことができなかった。
「ねえ、聞いてる? 由美ちゃん」
放課後の静まり返った図書室の裏手で、ふんわりとしたパステルピンクのカーディガンを羽織った相田里子が、心配そうな声と共に一枚の光沢のあるパンフレットを差し出してきた。少し茶色がかった柔らかな髪を揺らしながら小首を傾げる彼女の首元では、赤いローズクォーツが夕日を反射して優しく光っている。幼馴染であり、この息の詰まる学校生活において唯一由美を外の世界と繋ぎ止めてくれる里子の存在は、痛ましいほどに眩しく、そして時折、その優しさが由美自身の不甲斐なさを浮き彫りにする残酷な鏡のようでもあった。
「……うん、ごめん。少し、ぼんやりしていて」
「もう、三年生になったんだから、少しは自分のこと大事にしないと駄目だよ。だからね、おばさんとも相談して、これ、思い切って申し込んでみたの」
押し付けられたパンフレットの表紙には、『最新型メンタルケアAI・あなたの心に寄り添う完璧なパートナー』という大げさなキャッチコピーと共に、満面の笑みを浮かべたアンドロイドの写真がデカデカと印刷されていた。里子の童顔に浮かぶ、由美を何とかして救済したいという純粋で熱を帯びた善意の眼差しから逃れる術を、由美は持っていない。「ありがとう、里子ちゃん」と蚊の鳴くような声で礼を言いながらも、由美の胃の腑は冷たい泥を飲み込んだように重く沈んでいった。完璧なパートナー。常に笑顔で励まし、前向きな言葉をかけ続ける存在。そんな眩しい光の塊のようなものが自分の部屋にやってきたら、私はきっと「期待に応えて明るく振る舞わなければならない」という新たな重圧に押し潰され、最終的にはAIにすら『このユーザーは修復不可能だ』と失望されてしまうに違いない。
その絶望的な予感は、数日後に由美の部屋の中央に鎮座した、巨大で無機質な白い箱を前にして最高潮に達していた。
「……開けるね。お母さん、もう下に行ってるから」
独り言のように呟きながら、由美は震える指先で箱の側面に印字されたロック解除のパネルに触れた。密閉されていた空気がプシュッという微かな音と共に抜け、純白の緩衝材に包まれた『それ』がゆっくりと姿を現す。威圧感を与えないように由美よりも少しだけ低く設定された身長、白を基調とした清潔感のある衣服、そして色素の薄い亜麻色の髪。まるで精巧に作られた球体関節人形がそのまま大きくなったような美しさに、由美は思わず息を呑み、そして次の瞬間、パンフレットにあったような『献身的な笑顔』と『明るい挨拶』が飛んでくることに備えて、肩を強張らせて目を閉じた。
「起動シークエンス、完了しました。個体識別番号IL-S 04、通称アイリス、稼働を開始します」
無機質でありながらも妙に透明感のある声が響き、由美は恐る恐る薄目を開けた。そこには、透き通るような薄い青色の瞳をパチクリと瞬かせながら、ひどくぽかんとした表情で由美を見つめ返す、銀髪の少女型アンドロイドの姿があった。
「あの、えっと……初めまして、小清水由美、です」
「……」
「……あの、アイリス、さん?」
由美が必死に絞り出した挨拶に対して、アイリスは一切の感情的な反応を示さなかった。満面の笑みを浮かべることも、気の利いた励ましの言葉を紡ぐこともなく、ただ首を少しだけ傾げ、由美の呼吸のペースを測るようにじっと観察しているだけだ。少し寝癖のついた亜麻色の髪が微かに揺れ、彼女はゆっくりと部屋の隅へと移動すると、まるでそこが自分の指定席であるかのように静かに佇み、再びぽかんとした顔で由美を見つめ始めたのである。
「えっ……と、何か、喋ったり、しないの?」
「……現在の環境における、最適な社会的感情表現のパターンが、データ内に見当たりません。観察を、継続します」
ひらがなを読む子供のようにたどたどしいその返答を聞いた瞬間、由美の内で限界まで張り詰めていた糸が、音を立ててプツリと切れた。それは初期不良なのか、それとも何か設定を間違えたのかは分からない。だが、目の前にいるこの美しい「不良品」は、由美に対して『普通であること』も『笑顔でいること』も一切要求してこないのだ。他者の視線に怯え、期待を裏切ることに恐怖し続けていた由美の心に、静かな波紋のような安堵感が広がっていく。
「そっか……何もないんだね、あなたには」
由美はベッドの端に腰を下ろし、部屋の隅でじっとこちらを見つめている不器用な瞳を、これまでで一番穏やかな視線で見つめ返した。
最新エピソード
第二十六章:論理が紡いだ、いびつな愛(エピローグ)
ハーブティーの柔らかな湯気が、二つのチョコレートがもたらした甘い余韻と共に、部屋の空気に溶けていく。不格好な
第二十五章:二つのチョコレート
二月十四日。暦の上ではただの日付。けれど、今の由美にとっては、最後の審判が下される日にも等しい響きを持っていた。ピンポーン、と軽
第二十四章:不格好なりの正解
嗚咽が止まらない。一度溢れ出した自己嫌悪は、決壊したダムの水のように、由美の矮小な自尊心を跡形もなく洗い流していく。床に散らばった
第二十三章:キッチンでの最初の絶望
週末の午後は、窓から差し込む陽光が床に柔らかな四角形を描き、部屋の埃をきらきらと照らし出す、穏やかな時間だった。しかし、小清







