説明
夜の市場にて、「闇を売る店」の核心に踏み込む主人公。彰・綾瀬・店主との間に全ての謎の決着が訪れる。
エピソード1
――雨は、ネオンの芯まで濡らしていた。
新宿三丁目の交差点が赤に変わる。傘の波が止まり、車のヘッドライトが濡れたアスファルトを照らす。俺は信号待ちの人混みに紛れ、煙草をくわえた。ライターは湿って火がつかない。三日目の雨で、街はまるで巨大な生き物の内臓を這い回っているみたいに腐臭を放っている。
「あんた、火を貸してくれない?」
突然、隣に立った男が声をかけてきた。薄っぺらいスーツに、酒臭い息。俺は黙ってライターを差し出す。男は火を点け、紫の煙を吐いた。
「悪いな。――あんた、探偵だろ?」
眉を動かさないように注意した。男はにやにや笑っている。
「顔に書いてある。こういう夜、こういう場所で、火もつかずに立ってる奴は、依頼人を待ってるか、誰かを追ってるかだ。」
「芸人か?」
「へっ、まさか。じゃあな。」
男は傘の柄を軽く上げて、人混みに消えた。煙草の火が赤く震える。俺はそれを踏み潰し、歩き出した。事務所まであと五分。雨足が強くなってきた。
古ビルの四階、階段はいつも湿っている。蛍光灯が一本、ぶら下がってチカチカ点滅する。ドアのプレートは錆びて、読めるのは〈探偵〉という文字だけだ。鍵を開け、中に入る。部屋は暗い。カーテンを引かずに、窓の外のネオンが赤青と壁を染める。俺はコートを脱ぎ、デスクのライトを点ける。薄暗い光の円の中に、灰皿、未決の請求書、古いカセットテープが浮かぶ。テープにはラベルがない。五年前の事件を録音したまま、もう再生していない。
コートのポケットから携帯を出す。着信なし。メールもない。時計は夜の十時半。俺は冷えたコーヒーをカップに注ぎ、窓に立つ。ガラスに映る自分の顔――三十三、無表情、目の下に隈。誰かに訊かれたら、名前を名乗る。だが、名など必要ない。依頼人はたいてい「先生」と呼ぶ。それで充分だ。
ノックの音がした。三回、間を置いて、また二回。決まりきったリズム。俺はドアを開けない。
「入れ。」
ドアがゆっくり開く。入ってきたのは女だった。黒いコート、髪を濡らし、顔を上げない。手には折りたたみ傘。水滴がカーペットに染みを作る。
「――座れ。」
俺はデスクの向かいを指差す。女は腰を下ろし、やっと顔を上げた。二十代半ば、目尻に泣き腫らした跡、唇を噛んでいる。
「名前は?」
「……綾瀬、といいます。」
「フルネームは訊かない。年齢も職業も興味ない。用件を話せ。」
女――綾瀬は、コートの内ポケットから小さな封筒を出した。封は開いている。中から一枚の写真と、メモ用紙。写真は夜の街角、ブルーシートが風にはためき、足が一本、画面の端から覗いている。誰の足か判別できない。メモ用紙には走り書き――
〈闇を売る店〉
〈行くな。行ったら、戻れない〉
〈でも、もう遅い〉
文字はぐにゃりと歪んで、まるで震えながら書かれたように見える。俺は写真を裏返し、ライトに透かす。特に記述なし。
「これは?」
「兄の……だと思います。」
「思う?」
「一週間前に、兄は失踪した。最後に見たのは、夜、家を出ていくところ。‘少し調べてくる’って。それきり、連絡が取れない。」
綾瀬の声は震えを抑えている。雨音が窓を打つ。俺は灰皿に写真を置き、コーヒーを啜る。苦すぎて舌が麻痺する。
「警察は?」
「動いてくれません。‘成人の自由な行動’だって。……でも、兄は危ないところに関わってる。私、感じてたんです。最近、夜電話がかかってきて、すぐ切れる。兄、部屋で誰かと低い声で話してた。そして、ある夜――」
綾瀬は言葉を切り、コートの袖を握りしめる。爪が白くなる。
「兄の部屋から、変な匂いがした。腐ったみたいに甘く、金属のような。私、怖くて、ドアを開けなかった。翌朝、兄はいなくて、ベッドのシーツに黒い染みが――」
俺は手を上げて黙らせる。話は水を撒いたように広がり、核心を掴めない。だが、匂いと染み。それは俺にも記憶がある。五年前、警察を辞めさせられた事件。アパート一室で見つけた、溶けた人肉と、床に描かれた黒い円。
「依頼料は?」
「三十万、持ってきました。」
綾瀬がバッグから茶封筒を出す。札束が詰まっている。俺はそれを指で押し返す。
「半金でいい。結果が出なきゃ、残りは要らない。」
「……本当、ですか?」
「嘘をつくのは、依頼人の仕事だ。」
俺は封筒を引き寄せ、デスクの引き出しに放り込む。鍵をかける。綾瀬の肩が少し落ちる。雨音が少し小さくなった。窓の外を見ると、ネオンが薄れ、街が深い青に沈み始める。
「兄の名前、年齢、勤め先、知り合い。全部書いて帰れ。明日の朝、動く。」
「……ありがとう、ございます。」
綾瀬が立ち上がる。足取りは重い。ドアに手をかけたとき、俺は訊いた。
「その染み――シーツはどうした?」
「燃えませんでした。」
綾瀬は振り返らない。ドアが閉まり、足音が階段を下りていく。部屋に戻ると、コーヒーが冷えきっている。俺はカップを灰皿に空け、窓を開ける。雨の匂いと、遠くでサイレン。街は眠らない。眠れない。
デスクに戻り、メモ用紙を見る。〈闇を売る店〉。そんなものが本当にあるのか。五年前、俺が追った連続失踪事件。最後に辿り着いたのは、廃工場の地下だった。そこにあったのは、人間の皮膚を干した部屋と、〈店主〉と名乗る男。男は銃で足を撃たれ、それでも笑っていた。
「闇は商品だ、刑事さん。欲しけりゃ、自分の影を置いていけ。」
そのときの銃声が、耳の奥で響く。俺は引き出しから拳銃を出す。スペアの弾倉、予備の弾。軽さを確かめ、ベルトの内側に差す。明日、街の裏側に降りる。綾瀬の兄がどこに消えたのか、闇がどこで売られているのか。そして、五年前に終わらなかった悪夢が、また動き出したのか。
時計が零時を回る。雨は止まない。俺はライトを消し、部屋を出る。階段を下り、ビルの裏手に回る。ゴミ置き場の脇に、黒い塊が倒れている。野良猫だ。首が不自然に曲がり、血の塊が口から零れている。誰かが蹴り、誰かが逃げた。俺は猫の目を指で閉じ、雨に打たれながら歩き出す。街は生きている。そして、街は死んでいる。俺はその狭間を這い回る、名もなき影だ。
裏通りに出る。ネオンが消え、裸電球が黄色く揺れる。酔客の笑い声、割れたビール瓶。路地の奥に、〈ルリ子〉という名のバーがある。店の前に、見覚えのある背中が立っている。旧友、刑事の藤巻だ。五年前、同じ班で動いていた。俺が辞めたあと、彼は昇進した。
「――また、会うとはな。」
藤巻は振り返らない。煙草を地面に捨て、靴で捻り潰す。
「聞いてるぞ、お前が動き出したって。綾瀬という女の兄、探してるんだろ?」
「情報は早いな。」
「女が、お前の事務所に入るのを、見てるやつがいた。――やめとけ。今回は、お前の手に負えない。」
俺は黙って、藤巻の横に立つ。バーのドアが開き、赤いドレスの女が出てくる。女は藤巻に微笑みかけ、傘を差して去る。香水の匂いが、雨に溶ける。
「手に負えない、って?」
「上に圧力がかかってる。失踪者は、もう二十人を超えた。だけど、マスコミは黙ってる。警察も、動かない。――お前、本当に関わるのか?」
俺はポケットから、〈闇を売る店〉のメモを出して、藤巻に見せる。藤巻の顔が強張る。
「どこで、それを?」
「依頼人から。五年前、俺たちが見つけられなかった‘店’が、また開いたのか?」
藤巻は唇を噛み、雨に顔を上げる。遠くで、雷が鳴った。
「――わからない。だが、今度は終わらせる。お前も、俺も。」
藤巻は歩き出す。俺はその背中に訊く。
「綾瀬という姓、聞いたか?」
「……いや。だが、兄の名前は、‘綾瀬彰’だ。前科あり、詐欺。でも、ここ半年、行動が怪しかった。――気をつけろ。闇を追うほど、闇に近づく。」
藤巻の姿は、雨の中に消えた。俺はバーの扉を開けない。代わりに、路地をさらに奥へ進む。壁に、新しい落書きがしてある。黒い円、中に三本の線。五年前と同じ印だ。俺は指で触れ、湿ったペンキを確かめる。まだ乾いていない。誰かが、先ほどまでここに立っていた。
夜が深くなる。雨は、街の埃を洗い流すふりをして、さらに泥をかき回す。俺はポケットから手帳を出し、綾瀬から預かった写真を貼りつける。〈闇を売る店〉。兄の足。そして、黒い染み。糸は繋がり始めている。だが、糸の先に何があるのか、まだ誰も知らない。俺は傘を畳み、雨に打たれながら歩き出す。明日、街の底に降りる。闇が商品として並ぶ市場へ。そして、五年前に逃した〈店主〉の顔を、もう一度引きずり出す。
時計は午前二時。街は眠らない。俺も、眠らない。闇は、もうすぐ店を開ける。
最新エピソード
――夜の市場は、潮溜まりのように淀んでいた。
煤けたネオンが古びたシートを這い、埃と油と人の息が絡み合い、熱い膜を張る。
俺はポケットで拳を握
――雨は、倉庫街の埃まで粘りつかせていた。
潮の臭いと油の臭いが混じった空気を、肺の奥まで吸い込んで、俺は歩く。深夜二時半。埠頭の灯りは等間隔に並び、海は黒い壁
――闇は、朝になっても晴れなかった。
事務所のカーテンを開けても、外の光は灰色に淀んでいる。雨は夜明け前に上がったらしいが、空の重さはそのままだ。古びたビニール
――雨は、ネオンの芯まで濡らしていた。
新宿三丁目の交差点が赤に変わる。傘の波が止まり、車のヘッドライトが濡れたアスファルトを照らす。俺は信号待ちの人混みに紛れ







