田舎者にはもんじゃ焼きを食わせるな
説明
主人公は西日本の田舎出身の30代半ばの男性。就職して東京で働いている。昔から東京の生活にあこがれていて、江戸・東京のちゃきちゃきっとした風情や文化にあこがれている。ある日、同郷出身の妻とお好み焼き屋で「もんじゃ焼き」があることを見つけ、興味本位で頼んでみる。出来上がったものはでんぷん糊のようなどろどろした液体で、それをおもちゃのようなヘラで掬って食べる。およそ江戸・東京らしくない食べ物に、男は次第に「東京以外の者に正しいもんじゃ焼きをたべさせてはいけない」という掟があるという妄想に捉われていく。。
エピソード1
今から十五年ほど前のことだ。野尻健太は西日本の、海と山に挟まれた穏やかな田舎町の高校生だった。彼が通う県立高校は、この地域では数少ない大学進学実績を誇る、いわゆる地元の進学校として知られていた。むろん共学ではあったが、そこに通う女子生徒たちは妙に意識が高く、ことあるごとに男女同権やジェンダー平等を声高に主張するような、ある種の気概に満ちた空気が校内にはあった。生徒指導も時代の空気を反映してか厳格を極め、男女の生徒が連れ立って放課後に喫茶店で談笑することすら、固く禁じられていたのだ。
そんな息苦しい規則の中で唯一、教師たちから暗黙のうちに見過ごされていた聖域があった。町の中心部から少し外れた、古びたアーケードが続く商店街の一角にひっそりと佇むお好み焼き屋だ。そこだけは、厳しい規則の網の目から不思議とこぼれ落ちていた。だから、大規模な模擬試験が終わった日の放課後などは、解放感に浮かれた生徒たちが「打ち上げ」と称して自然とそこに集まるのが、いつしか恒例行事となっていた。鉄板を囲んで熱々のお好み焼きを頬張る時間は、彼らにとって許されたささやかな青春の謳歌だった。
その日も、模擬試験の重苦しい雰囲気から解放された教室は、午後の日差しの中でどこか浮ついた空気に満たされていた。クラスのムードメーカーである水沢拓也が、いつものように大げさな身振りで「なあ、今日もお好み行くっしょ?」と声を張り上げる。その視線の先にいたのは、常に成績トップを争う優等生の前田智也と、彼の周りに集まる女子グループだった。佳代子、美鈴、そして由紀。彼女たちは一斉に顔を見合わせ、まるで示し合わせたかのように華やいだ声を上げた。「行く行く!」という嬌声が、チョークの粉が舞う埃っぽい教室に響き渡る。その賑やかな輪の中に、普段はあまり目立たない健太も「野尻も来いよ」と水沢に腕を引かれ、断る理由も見つからずに加わることになった。
店に足を踏み入れると、ソースの焦げる甘く香ばしい匂いと、じゅうじゅうと鳴る鉄板の音が全身を包み込んだ。彼らが注文したのは、この店の名物である関西風のお好み焼き。たっぷりの水で溶かれた小麦粉の生地に、ざく切りにされた新鮮なキャベツ、乾物の切りイカと桜エビが混ぜ込まれ、最後に生卵が一つ落とされる。それをボウルの中で一体となるまでかき混ぜ、熱された鉄板の上に流し込んで焼くのだ。
普段、教室では男女平等を説き、男子生徒の些細な言動にさえ「それは性差別的だ」と鋭く指摘する佳代子や美鈴も、この鉄板の前ではまるで別人だった。ここは彼女たちにとって、普段隠している「女子力」を存分に発揮するための舞台なのだ。「こういうのは女子に任せなさいって!」と佳代子が手際よくコテを手に取り、慣れた手つきで生地を混ぜ始める。男子はただそれを感心したように、あるいは品定めするように眺めているのが、この場所での暗黙の了解だった。彼女たちの視線がちらちらと、物静かに微笑む前田に注がれているのは誰の目にも明らかだった。もっとも、快活な佳代子に関しては、隣で騒いでいる水沢と付き合っているという噂がまことしやかに囁かれてはいたが、その真偽は定かではなかった。
「見ててよ、前田君!」佳代子はそう言うと、華麗な手つきでコテを鉄板に滑らせ、こんがりと焼き色のついたお好み焼きを宙に舞わせた。ひらりと弧を描いた生地は、完璧な円形のまま鉄板に着地する。続いて美鈴も、少し緊張した面持ちながら危なげなく返しに成功し、安堵の息を漏らした。「さすがじゃん」と水沢が囃し立て、前田も満足げに頷いている。
最後に残されたのは由紀の番だった。彼女は他の二人とは違い、明らかに緊張で体をこわばらせていた。おずおずと差し出したコテは、まるで自分の体の一部ではないかのように震えている。「ゆ、由紀、頑張れ!」という佳代子の声援が、逆にプレッシャーになっているようだった。由紀は意を決してコテを生地の下に差し込み、えいやっと力を込めた。しかし、その動きはあまりに拙く、力みすぎていた。宙を舞うはずだったお好み焼きは無残にも途中で崩れ、ぐちゃりという情けない音を立てて鉄板の上に散らばった。
一瞬の静寂。水沢はあからさまに「あーあ」と声を漏らし、それまで穏やかだった前田の口元からもすっと笑みが消えた。その軽蔑とも失望ともつかない冷ややかな空気が、ナイフのように由紀の心に突き刺さる。彼女の大きな瞳がみるみるうちに潤み、真っ赤になった顔を俯かせた。焼き損ねた生地の無残な姿が、まるで自分の失敗を象徴しているようで、涙がこぼれ落ちる寸前だった。
その時だった。それまで黙って成り行きを見ていた健太が、すっと自分の箸を手に取った。そして、誰もが触れるのをためらった、形を失ったお好み焼きのかけらを一つ、ひょいとつまみ上げたのだ。彼はそれをためらうことなく口に運び、ゆっくりと咀嚼した。隣に座る由紀以外の全員の視線が、健太の一挙手一投足に注がれる。
「うん、うまいよ」
健太は、泣きそうな顔で固まっている由紀に向かって、穏やかに言った。
「形は崩れちゃったけど、由紀が一生懸命焼いてくれたんだから。すごくおいしい。これは、俺の好みだな」
最後の「好み」という言葉に、わずかな遊び心を乗せて。その一言が、凍り付いた場の空気を溶かした。由紀の瞳から、こらえていた涙が一粒、ぽとりと膝の上に落ちた。それは、悔しさの涙ではなく、安堵と、そして今まで感じたことのない温かい何かが入り混じった涙だった。
そして、十数年の月日が流れた。
あの鉄板を囲んだ者たちは、それぞれの夢を追い、それぞれの道を歩んだ。水沢は地元の市役所に勤め、前田は医者になったと風の噂で聞いた。佳代子と美鈴がどうしているのかは、もう誰も知らない。健太と由紀は、あの日の出来事をきっかけに少しずつ言葉を交わすようになり、やがて恋に落ち、健太が就職してしばらくすると結婚した。二人は今、東京の活気ある商店街の一角に居を構えている。
休日の、遅い昼食時。健太と由紀は、近所にある小さなお好み焼き屋にいた。ここはあの日と同じお客がテーブルで自らお好み焼きを焼くようになっている。ソースの香ばしい匂いが、遠い日の記憶を鮮やかに呼び覚ます。
「あなた、ひっくり返して。お願い」
由紀は、自分の分ですら健太に任せていた。
「一向にうまくならないんだから。ほい」
健太はからかうように言いながら、由紀のお好み焼きを上手に返した。
こんがりと焼き上がったお好み焼きを小さなコテで切り分けながら、隣に座る健太に微笑みかけた。健太もまた、その一切れを自然に受け取り、懐かしい味を噛み締めていた。
最新エピソード
家の鍵を回すとき、健太の手は少し震えていた。興奮からか、それとも夜の冷気のせいか、自分でもよくわからなかった。
玄関に入ると、由紀の「おかえりなさい」の声がリビ
「でもさ、玉さん」
健太はハイボールのグラスを置いて、かねてからの疑問を口にした。
「もんじゃ焼きって粋な江戸っ子の食べ物とは
「俺たちが健ちゃんの実家へ行ったら鰯の糠漬け出してくれるか?」玉さんがグラスを軽く回しながら続けた。氷がカラカラと音を立てて、その音が妙に涼しげに響いた。
「
健太の肩は重く沈んでいた。もんじゃ焼きのことでもう何日も眠れない日が続いている。家に帰れば由紀の視線が氷のように冷たく背中に刺さる。彼女は何も言わないが、その沈黙がかえって健太を追い詰めた。<







