説明
警視庁本部の地下資料室で、検事の桐生律は二十五年前の迷宮入り事件『神埼章介殺人・放火事件』の調書に目を留める。「赤と黒の画家」と呼ばれ、青を極度に嫌悪した被害者の焼けたキャンバスから、なぜか混ざり合うはずのない「コバルトブルー」の塗料が検出されていたのだ。
事件発生からちょうど二十五年を迎える直前、被害者の妻・由紀子が突如として自首し、「自分が夫を殺した」と自白する。しかし、桐生はその自白の「タイミングの異常さ」に強い不信感を抱く。時を同じくして、現場となった廃アトリエの解体工事が翌日に迫っていた。
解体前の現場へ駆けつけた刑事の陣内誠は、倒れたスチール棚の底から三十年前に失踪した天才画家・浅倉涼の特注絵の具チューブを発見。さらに新聞記者の立花颯太は、解体決定直後に妻・由紀子と密会していた神埼の弟子・倉田正樹の存在と裏の汚職構造を突き止め、探偵の相沢蓮は倉田の偽アリバイを暴き出す。
かつて高校時代、被害者の関係者でもあった少女の苦境を見て見ぬふりをした「二十年前の共犯者」である四人の幼馴染。彼らは「法」「現場」「報道」「感情」というそれぞれの異なる職業正義(OS)を激しく衝突させながらも、解体工事というタイムリミット(時間の風化)に挑む。
ガレキの底から掘り起こされた証拠と、現代の科学技術(三次元X線解析)によって解き明かされたのは、身代わりとなった母親の悲しい嘘と、二十五年前の憎悪の真実だった。四つの正義が法廷で一つに統合された時、時の底に眠っていた「色褪せない真実」が鮮やかに浮かび上がる。
エピソード1
# 四つの正義は、色褪せた真実を追う
## 第一章 色褪せない青
東京地方検察庁の地下資料室は、昼間でも薄暗かった。
蛍光灯のうち三本は切れており、残る二本が古い紙の山を青白く照らしている。空調の低い唸り音が天井の奥で続き、紙の匂い、防虫剤の匂い、そして長い年月を閉じ込めた保管箱特有の乾いた匂いが混ざり合っていた。
桐生律は、手袋をした指で調書の表紙をめくった。
『平成十三年十一月十五日発生 神埼章介殺人・放火事件 調査報告書』
紙は黄ばみ、端は脆くなっていた。二十五年前の事件である。
当時、神埼章介は「赤と黒の画家」と呼ばれていた。激しい赤と、沈んだ黒だけで画面を構成する作風は、一部で熱狂的な支持を受け、同時に強い嫌悪も買っていた。彼は才能に恵まれ、富み、傲慢であり、周囲を傷つけることに無自覚だった。
事件の概要は単純だった。
十一月十五日の夜、神埼の自宅アトリエで火災が発生した。鎮火後、焼けたイーゼルのそばで神埼の遺体が発見される。後頭部には鈍器による殴打痕があり、死亡推定時刻の前後に灯油が撒かれていた。警察は殺人と放火の両面で捜査を開始した。
被害者は神埼章介、ただ一人だった。
容疑者は二人に絞られた。
一人は妻の神埼由紀子。夫の暴力に苦しみ、事件当夜の行動に曖昧な点があった。
もう一人は弟子の倉田正樹。師から激しい圧力を受け、事件後、大金を手にしていた。
だが、決定的な証拠は出なかった。
火災がすべてを焼いた。
証人は記憶を曖昧にし、物理的痕跡は焦げた瓦礫の下へ沈んだ。
やがて捜査は縮小し、資料は棚へ戻り、事件は「迷宮入り」という便利な言葉の中へ葬られた。
桐生はページをめくる手を止めた。
現場写真の複製が、調書の間に挟まっていた。
焼け焦げたキャンバス。
原形をとどめない絵枠。
黒く炭化した画布の表面。
そして、その隅にわずかに残っていた、青い痕跡。
「……青、か」
桐生は低く呟いた。
神埼章介は、青を使わなかった。
それは画壇では有名な逸話だった。彼は青を「偽りの静寂」「敗北者の色」と呼び、弟子に使わせることすら許さなかった。初期から晩年まで、神埼の作品に青はほとんど確認されていない。
ならば、なぜ焼けたキャンバスから青い絵の具が検出されているのか。
桐生は鑑識メモを読み返した。
『キャンバス表面からコバルトブルーおよびフタロシアニンブルー系顔料を検出。定量は困難。定着液成分に灯油由来の炭化水素を確認』
当時の鑑識は、これ以上を追えなかった。
火災後の画布は劣化しすぎていた。塗料の層を分離する技術も、現在ほど精密ではなかった。青い絵の具が「あった」という事実だけが記録され、その意味を問う者はいなかった。
桐生は次のページを開いた。
由紀子の供述調書だった。
『私は夫を殺しました。暴力から逃れるため、彫刻用の金づちで後頭部を殴り、灯油を撒いて火を付けました』
簡潔で、整いすぎた自白だった。
動機は明確だ。
凶器の推定も合う。
妻としての立場も、疑いの対象として十分だった。
だが、桐生は長年検事を務めてきた。
自白とは、しばしば真実よりも「納得できる物語」を先に生む。
彼は由紀子の供述を、何度も読み返した。
『私は絵のことは分かりません。ただ、夫が大切にしていた絵を燃やしたくなかったので、削って青を塗り直そうとしました』
桐生の指が止まった。
「絵のことは分かりません」
由紀子はそう言いながら、青い絵の具を「塗り直した」と証言している。
知らない人間が、焦げたキャンバスに青を塗り直すだろうか。
しかも、神埼が生涯嫌った色を。
桐生は資料室の端にある端末を操作した。古い事件資料のデジタル化データを呼び出す。画質は粗い。それでも、拡大したキャンバス写真の端に、青い粒子が確認できた。
ただの青ではなかった。
深いコバルトブルーと、わずかに緑がかったフタロシアニンブルー。
混合された、特殊な青だった。
桐生は椅子から立ち上がった。
この事件には、三人目がいた。
神埼でもない。
由紀子でもない。
倉田でもない。
あるいは――倉田ですら、まだ疑わしい。
彼は壁にかけられたカレンダーを見た。
今日は十一月十四日。
明日、十一月十五日。
事件からちょうど二十五年。
旧法のもとでは、殺人罪の公訴時効は二十五年だった。この事件が今の法改正前に起きていれば、明日をもって時効が完成し、どれほど強い疑いを持っても、誰も裁けなくなる。
桐生は法改正の経過措置を頭の中で確認した。
改正時に時効が未完成だった事件には、新しい法が適用される。殺人罪の公訴時効は廃止された。つまり、明日を迎える前であれば、まだ起訴の可能性は残っている。
だが、それは「可能性」にすぎない。
二十五年前の証拠で、裁判所を納得させられるか。
古い調書。
劣化した現場写真。
曖昧な証言。
火災で失われた現場。
検事として、桐生は知っている。
時間は、真実を消さない。
ただ、証明する者を消していく。
彼は資料室の電話を取った。
「陣内か。桐生だ」
受話器の向こうで、若い刑事の声がした。
「おう、先輩。こんな時間にどうした」
「神埼章介の事件だ。二十五周年の明日、アトリエ跡地が解体される」
「……ええ。再開発の話なら聞いてます」
「解体前に、現場をもう一度見せろ」
陣内は一瞬黙った。
「先輩、あの事件は……」
「青い絵の具があった」
桐生は、焼けたキャンバスの写真を見つめたまま言った。
「神埼が生涯使わなかった色が、彼の最後の絵に残っていた」
電話の向こうで、陣内の呼吸が変わった。
「今から行く」
(第一章・了)
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