世界を救った大勇者ですが、娘のプリンを食べて家から追放されました!
説明
世界を幾度も救った最強の大勇者レオンハルト。かつて最大の宿敵だった大魔王セレフィナと恋に落ち、人と魔族の長い戦争を終わらせた彼は、今では八歳の娘ルナを何よりも大切にする父親として暮らしていた。
そんなある日、レオンハルトは冷蔵魔導庫にあった一個のプリンを、うっかり食べてしまう。
そこには、はっきりと書いてあった。
《ルナのプリン。ぜったい食べないで! パパもダメ!》
帰宅したルナは大激怒。大勇者と大魔王の血を受け継ぐ金髪紫眼の娘の怒りは凄まじく、世界最強の英雄はあっさり家から追放されてしまう。
同じものを買って帰れば済む。最初はそう考えていたレオンハルトだったが、そのプリンには、亡き母セレフィナとの大切な思い出が込められていた。
ならば、自分の手で娘を笑顔にするプリンを作るしかない。
こうして大勇者は、口の悪い相棒の聖剣アルディオンとともに、伝説の材料を求めて世界各地を巡ることになる。天界、冥界、魔界、秘境――旅の先で出会う人々や、亡き妻が残した知られざる足跡に触れながら、レオンハルトは少しずつ気づいていく。
これは世界を救うための冒険ではない。
たった一人の娘に、ちゃんと「ごめん」を届けるための――世界でいちばん壮大なプリン作りの物語。
エピソード1

冷蔵魔導庫を開けたとき、最上段に異物があった。
「ルナのプリン。ぜったい食べないで! パパもダメ!」
白い容器の蓋に、赤いクレヨンでそう書かれている。文字は大きく、力強い。最後の「ダメ」の横には、頬を膨らませた怒り顔まで添えてあった。
昼下がりの台所には誰もいない。窓から差し込む春の日差しが床に長く寝そべり、冷蔵魔導庫の魔法灯が羽音のような低音を立てている。窓辺では、ルナの相棒である白猫ミルクが丸くなっていた。長毛の尾だけをゆっくり揺らし、冷蔵魔導庫を開けた主人を片目で見ている。娘のルナは学校。帰宅までは、まだ三時間ほどある。
レオンハルトは腹に手を当てた。
腹は正直だった。減っている。
プリンの蓋を持ち上げる。ほろ苦いカラメルと卵の甘い香りが鼻をくすぐった。表面は鏡のようにつややかで、スプーンを入れればぷるんと震えるに違いない。
『やめておけ』
壁に立てかけた聖剣が低い声を発した。
聖剣アルディオン。神代から伝わる意思ある神器にして、レオンハルトが若いころから三十年以上も共に戦ってきた相棒である。邪神を斬り、魔竜を斬り、魔王軍の猛将を斬った聖剣だが、最近もっとも多い仕事は主人への忠告だった。
「まだ何も言ってないぞ」
『言う必要があるか。蓋に書いてある』
「賞味期限が今日だ」
『だから何だ』
「食べ物を無駄にするのはよくない」
『勇者の倫理を娘のプリンに適用するな』
「だが今日中だぞ」
『ルナは夕方に帰ってくる』
「三時間ある」
『三時間後にも賞味期限は今日だ』
レオンハルトは黙った。
アルディオンも黙った。
冷蔵魔導庫の冷気だけが、二人のあいだを流れていく。
「……ひと口なら」
『名前を読め』
「ルナのプリン」
『続き』
「ぜったい食べないで」
『続き』
「パパもダメ」
『読めるではないか』
「読める」
『ならば、なぜ手がスプーンを探している』
冷蔵魔導庫の扉裏に吊った小物入れから、レオンハルトは木のスプーンを取り出した。
「なぜだと思う」
『三十年以上の付き合いだ。お前の考えることくらい分かる』
「そうか」
『やめろと言う前にもう手が動いている』
スプーンはすでにプリンの表面を割っていた。
ひと口。
濃厚な卵の甘味。そのあとを追う、少しだけ苦いカラメル。
ふた口。
三口。
五口目には容器の底が見えた。
レオンハルトは空になった器を流しへ置き、水を一杯飲んだ。
「正直に白状する」
『聞こう』
「うまかった」
『知っている。顔に書いてある』
「隠し事のできない男で困る」
『困っているのは私だ』
アルディオンの刃が窓から差し込む光を鈍く返した。ため息のつもりらしい。剣に肺はないが、意思表示と嫌味と、たまに的確すぎる忠告ならいくらでもできる。
レオンハルトは居間のソファに沈み、新聞を広げた。
静かな午後だった。
世界を救った大勇者と呼ばれた男が新聞を読み、意思ある聖剣が壁に立てかけられ、八歳の娘は学校へ通っている。
かつて邪神の降臨を阻み、大陸を呑み込もうとした竜王を退け、人界と魔界の長い戦争を終わらせたころには、こんな日が来るなど考えもしなかった。
今では王からの呼び出しより、学校から届く保護者向けの書類のほうがよほど緊張する。
そして、もう一人。
この家にはクラリスという住み込みのメイドがいる。二十八歳。セレフィナが亡くなったあと、まだ三歳だったルナを男手一つで育てようとして、三日で寝不足と洗濯物の山に敗北したレオンハルトが雇った女性だ。
最初は本当に、ただの使用人だった。
朝食を作り、髪を結い、学校の準備を手伝い、熱を出したルナの枕元で夜を明かした。気づけばルナは、亡き母を忘れることなく、それとは別の場所でクラリスを家族として慕うようになった。
そして五年。
クラリスは今では、レオンハルトにとっても使用人という言葉だけでは足りない相手になっている。
今朝も買い物籠を腕に掛けた彼女へ、レオンハルトは玄関先で頬に口づけを落とした。
「夕方には戻るか?」
「もちろんです。ルナ様のお迎えまでには」
その直後、クラリスは淹れたばかりの珈琲の匂いにわずかに眉を寄せた。
「どうした」
「いえ。少し寝不足でしょうか」
本人も、レオンハルトも、それ以上は気にしなかった。
アルディオンだけが刃をわずかに傾けたが、何も言わなかった。
娘。
ルナ。
大勇者レオンハルトと、亡き妻――大魔王セレフィナとのあいだに生まれた、たった一人の娘だ。
「まあ、怒るだろうな」
『怒るだろうな』
「同じものを買えば済む」
『そう思うなら、なぜ食べた』
「……うまそうだった」
『救いようがない』
新聞の一面は北方の国境会議。二面は宮廷人事。三面は新種の魔導作物。
レオンハルトは三面の途中で眠った。
目が覚めたのは、冷蔵魔導庫の扉が閉まる音でだった。
夕日の赤が居間へ差し込んでいる。
玄関で靴を脱ぐ音。
ランドセルを置く音。
「ただいまー」
「おかえり」
いつもの声だった。
だからこそ、レオンハルトは油断した。
ルナは学校指定の白いブラウスに紺のスカート。父親譲りの淡い金髪を高い位置で二つに結んでいる。大きな瞳は鮮やかな紫。レオンハルトの青と、セレフィナの赤が不思議に溶け合ったような色で、感情が昂ると宝石めいて輝く。今日は給食で何が出たとか、算数で百点だったとか、帰宅すれば何かしら喋り続けるのが常だ。
そのルナが手洗いとうがいを済ませ、冷蔵魔導庫を開けた。
閉める。
もう一度、開ける。
閉める。
三度目は、ゆっくり開けた。
中を上から下まで確かめる。
そして、静かに閉じた。
かちり。
小さな音だった。
「……パパ」
レオンハルトの背筋を冷たいものが走った。
魔神の拳が目前まで迫ったときにも、ここまで嫌な予感はしなかった。
「なんだ、ルナ」
「私のプリン、知らない?」
ルナは冷蔵魔導庫の前に立ったまま、こちらを振り返らない。
アルディオンの刃が、壁際でほんの少し震えた。
『私は警告した』
「今は黙っていろ」
「パパ?」
逃げ道はなかった。
大勇者は魔王軍百万を前にしても嘘をつかなかった男である。
八歳児を相手に、その信念を曲げるわけにもいかない。
「……食べました」
沈黙。
ルナの右手が冷蔵魔導庫の取っ手を握ったまま止まった。
最初に起きたのは地鳴りだった。
ごごご、と床の下から低い振動が這い上がり、棚の皿がかたかた鳴る。
次に光。
ルナの小さな身体から黄金の聖気が噴き上がった。同時に漆黒の魔力が螺旋を描く。
父から受け継いだ勇者の力。
母から受け継いだ大魔王の力。
本来なら相反するはずの二つが、八歳児の怒りによって恐ろしいほど自然に融合していく。
窓ガラスがびりびり震えた。
天井の魔導灯が揺れた。
ソファで眠っていたミルクが跳ね起き、全身の毛を逆立てた。だが威嚇した相手はルナではない。レオンハルトの足元まで来ると「にゃあ!」と一声鳴き、くるりと背を向けてルナの足元へ避難した。
『猫にまで見限られたな』
「今それを言うな」
世界最強と呼ばれたレオンハルトの本能が叫ぶ。
――逃げろ。
目の前にいるのは、目に入れても痛くないほど可愛い娘なのに。
「ルナ」
「名前、書いた」
「読んだ」
「ぜったい食べないでって書いた」
「読んだ」
「パパもダメって書いた!」
「……読んだ」
「なのに食べた!」
聖気と魔力が一段階膨れ上がった。
外から瓦のずれる音。
向かいの家で鶏が一斉に鳴く。
三軒先から鐘の音が響いた。
「大魔王復活だぁぁぁ!」
引退した元宮廷魔術師の爺さんである。非常用の魔力感知器だけはいまだ現役らしい。
レオンハルトは額を押さえた。
「大魔王じゃない。娘だ」
『一般家庭では、娘の怒気で非常鐘は鳴らん』
「一般家庭と一緒にするな」
『なお、今の魔力波で隣家のマーサ婆さんが驚き、入れ歯を飲み込んだ』
「何!?」
『命に別状はない』
「どうしてそこまで分かる!」
『聖剣だからな』
「聖剣の能力じゃないだろ!」
『回収方法については本作の品位を守るため割愛する』
「本作?」
『気にするな』
「パパ!」
「はい!」
ルナの目には涙が溜まっていた。
それを見た瞬間、レオンハルトから言い訳が消えた。
怒らせたから怖いのではない。
泣かせたことのほうが、よほど怖い。
「悪かった」
「賞味期限だったから?」
「違う。俺が食い意地を張った」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
魔力の噴出が少し弱まる。
ルナはスカートの裾を両手で握った。
「あれね、三つ入ってたの」
「三つ?」
「先週、お店で買ったの。月曜日にひとつ。水曜日にひとつ。それで今日、最後のひとつを食べるって決めてたの」
「なぜ今日なんだ?」
訊いた瞬間、アルディオンが小さく呻いた。
『お前……』
「金曜日だから」
ルナの声が震える。
「ママがプリン作ってくれたの、いつも金曜日だったから」
レオンハルトは息を止めた。
日曜日ではなかったか、と一瞬思った。だがそれは自分が休日に食べた記憶だ。セレフィナは金曜に作り、翌日まで残してくれていたのかもしれない。
それすら、もう曖昧だった。
「このプリン、ママのにちょっと似てたの」
ルナが目元を手の甲で乱暴に拭った。
「だから大事に食べてたのに」
聖気も魔力も消えた。
そこに立っていたのは、勇者と大魔王の血を受け継ぐ怪物じみた少女ではない。
母を亡くした、八歳の女の子だった。
「……出てって」
「ルナ」
「パパ、出てって!」
細い指が玄関を指す。
「プリン買ってくるまで帰ってこなくていい!」
「同じものを買えば――」
「知らない!」
今度こそレオンハルトは逆らわなかった。
財布と外套を掴み、アルディオンを腰へ佩く。
玄関を開けると、近所の住民たちが遠巻きに家を見ていた。元宮廷魔術師は防御結界を張ったまま震えている。向かいのパン屋は店の看板を盾にしている。
マーサ婆さんは喉を押さえながら親指を立てた。
「……無事らしいな」
『入れ歯以外はな』
「すまん、あとで弁償する」
マーサ婆さんは口を開けたが、入れ歯がないので何を言っているのかよく分からなかった。
その背後で、ルナが玄関の扉を閉める。
かちり。
鍵までかかった。
『追放成立だな』
「言うな」
世界を三度救った大勇者レオンハルト・フォン・シュテルンベルク。
八歳の娘によって、自宅より追放。
ちょうどそのとき、買い物帰りのクラリスが角を曲がってきた。淡い栗色の髪を後ろでまとめ、両腕には野菜と牛乳の入った籠を抱えている。
「旦那様?」
玄関前で立ち尽くす英雄を見て、彼女は足を止めた。
「……どうして外に?」
「追放された」
「どなたに」
「ルナに」
クラリスの視線が、空になったプリン容器へ落ちる。
「何をなさったんです?」
「プリンを食べた」
「ルナ様の?」
「……ああ」
クラリスは十秒ほど黙った。
「今回は旦那様が悪いです」
「お前まで!?」
『全会一致だな』
「お前は黙れ!」
扉の向こうから、鼻をすする小さな音がした。クラリスの顔から笑いが消える。
「ルナ様のところへ行ってまいります」
「俺の弁護は」
「いたしません」
その足元をミルクがすり抜け、当然のようにクラリス側へついた。
『三対一だ』
「剣まで人数に数えるな」
「即答か」
「ですが」
クラリスは少しだけ表情を緩めた。
「ちゃんと謝って、ちゃんと帰ってきてください。ルナ様は旦那様が大好きですから」
「……分かっている」
『分かっていた男は名前つきのプリンを食わん』
「アルディオン」
『事実だ』
罪状。
プリン窃盗。
「夕飯までには戻る」
扉の向こうから返事はなかった。
レオンハルトは肩を落とし、商店街へ向かった。
最初の店。
「あのプリンは先週までの限定でして」
二軒目。
「完売です」
三軒目。
「工房にも在庫はないですね」
四軒目。
「再販予定? 来年の春かなあ」
夕暮れが夜に変わる。
銀貨を握ったまま、レオンハルトの歩みだけが次第に遅くなった。
最後に訪れたのは中央広場の老舗菓子店だった。
ルナが幼いころから何度も連れてきた店だ。妻と三人で来たこともある。
「おや、ルナちゃんのパパさん」
老店主はすぐに顔を覚えていた。
「『春の三ツ星プリン』を探している」
「ああ……あれですか」
店主の顔が曇った。
「先週で終わりましてね。工房も今季分は全部出したそうです」
「一個もないのか」
「残念ですが」
レオンハルトは息を吐いた。
その様子を見て、店主が首をかしげる。
「どうしたんです。ルナちゃんに頼まれたんですか」
「……食べた」
「はい?」
「ルナの最後の一個を、俺が食べた」
店主は数秒黙り、それから額を押さえた。
「あんた、世界は救えても娘心は救えないんですか」
「返す言葉もない」
「ルナちゃん、あれを三つ買ったとき、ずいぶん嬉しそうでしたよ」
「そう聞いた」
「『ママのプリンに似てる』って。冷蔵魔導庫で何日もつか、何度も確認してね」
胸の奥に鈍い痛みが走った。
店主は続けた。
「その話、あんたにもしたって言ってましたけど」
――夕食の席。
何か月か前。
ルナがプリンをスプーンですくいながら笑っていた。
「パパ、これね、ママのにちょっと似てる」
自分は新聞を見たまま答えた。
「ああ、そうか」
たった、それだけ。
記事の内容は覚えている。
北部街道の税率改定。
なのに娘の言葉は、いま言われるまで思い出さなかった。
レオンハルトは店を出た。
中央広場の噴水に腰掛ける。
夜の水面に、自分の顔が揺れていた。
大勇者。
英雄。
世界を三度救った男。
その肩書きが、いまはひどく空々しい。
世界の危機には気づける。
遠い戦場の異変も読める。
なのに同じ食卓にいた八歳の娘が、何を大切にしていたかには気づかなかった。
『ようやく分かった顔だな』
「……うるさい」
『怒るな。私は最初から言っていた』
「分かっている」
『剣で斬れない問題は苦手か』
「苦手だ」
『力で奪えないものもな』
「ああ」
『では、どうする』
「分からん」
アルディオンが珍しくすぐには答えなかった。
噴水の水音。
遠くの店じまいの音。
やがて聖剣が低く言う。
『プリンがないなら、作ればいい』
レオンハルトは顔を上げた。
「俺が?」
『ほかに誰がいる』
「料理はほとんどしたことがない」
『剣も最初から振れたわけではあるまい』
「プリンと剣を一緒にするな」
『お前なら一緒にすると思った』
レオンハルトはしばらく水面を見た。
そして立ち上がる。
「作る」
『聞こえなかった』
「俺が作る。ルナが笑うプリンを」
『同じ味を再現できるのか』
「分からん。だから探す。習う。失敗する。必要なら世界の果てまで行く」
『……大げさだな』
「娘が相手だ。世界より難しい」
アルディオンの刃が小さく震えた。
笑ったのかもしれない。
レオンハルトは夜の商店街へ歩き出す。
目指すは、王都一の菓子職人。
敵は邪神でも大魔王でもない。
己の無理解。
そしてプリン。
大勇者レオンハルトの、歴史書にはたぶん一行も載らない新たな冒険が始まった。
だが、その足は十歩も進まないうちに止まった。
「……先に、家へ戻る」
『追放されたばかりだぞ』
「荷物を取りに行く。それに、何日かかるか分からん」
『プリン作りが何日もかかる前提になっている時点で、すでに嫌な予感しかしない』
「念のためだ」
家の前まで戻るころには、近所の騒ぎもようやく収まっていた。
割れた窓には応急処置の板が打たれ、ずれた瓦を近所の男たちが直している。三軒先の元宮廷魔術師は「誤報でした」と書いた札を非常鐘にぶら下げていた。
マーサ婆さんは椅子に腰掛け、新しい入れ歯の見本帳を眺めている。
「……本当にすまん」
婆さんは歯のない口で笑い、手をひらひら振った。
『寛大な隣人でよかったな』
「帰ったら屋根も窓も全部直す」
『お前ではなくルナの魔力が原因だが』
「子供の責任は親の責任だ」
『そういうところだけは、妙に真面目だな』
玄関へ近づく。
灯りがついていた。
ノックしようとして、手を止める。
扉の向こうから小さな物音がする。食器を片づける音。椅子を引く音。ルナが一人で夕飯を食べているのだろう。
いつもなら、自分が台所に立つ。
料理の腕は妻には遠く及ばないが、卵焼きくらいなら作れる。焦がすこともある。ルナは焦げた端を嫌がり、自分の皿へ押しつけてくる。
そんな何でもない光景が、扉一枚向こうにある。
なのに今日は入れない。
『入るか』
「……いや」
『鍵は持っている』
「追放された者が勝手に鍵を開けたら、追放の意味がない」
『律儀なのか馬鹿なのか判断に迷う』
「両方だろう」
レオンハルトは玄関脇の小机に紙を置いた。
《ルナへ。
プリンを食べて本当に悪かった。
同じものはもう売っていなかった。
だから、パパが作ってくる。
少し時間がかかるかもしれない。
戸締まりを忘れないこと。
夕飯は近所のグラウスに頼んである。
学校にはちゃんと行くこと。
あと、魔力を怒ったまま出さないこと。
マーサさんの入れ歯が大変なことになった。
パパより》
書き終えてから、最後の一文を消そうか迷った。
そのままにした。
『謝罪文の途中から生活指導になっているぞ』
「父親だからな」
『最後は近所の被害報告だ』
「重要だ」
紙を扉の下から滑り込ませる。
すると、向こう側でかすかな足音がした。
紙が引き込まれる。
レオンハルトは息を止めた。
数秒。
扉は開かない。
声も聞こえない。
だが紙が戻ってきた。
裏側に、赤いクレヨンで一言だけ増えている。
《ばかパパ》
レオンハルトは、その文字を長く見つめた。
「……まだパパではあるらしい」
『そこに安心するのか』
「大事なところだ」
紙を大切に折り、胸ポケットへ入れた。
二階の窓で、カーテンが少しだけ動いた。
金髪が一瞬見えた気がする。
レオンハルトは見上げなかった。
見上げれば、帰りたくなる。
いま戻れば、おそらくルナは許してくれる。怒りながらも、夕飯を一緒に食べるくらいはしてくれるかもしれない。
だが、それでは駄目だと思った。
プリン一個を食べた償いに、世界一の菓子が必要なわけではない。
必要なのは、娘がなぜ怒ったのかを忘れないこと。
そのためには、自分の手で何かを作ってみるべきだ。
三十年以上、敵を斬ることばかり覚えてきた手で。
「行くぞ」
『どこへ』
「菓子職人のところだ」
『夜中だぞ』
「朝まで待つ」
『宿は』
「……」
財布を見る。
銀貨五枚と銅貨。
世界を救った英雄とは思えない所持金だった。
『王宮へ行けば客間を貸すだろう』
「嫌だ。追放理由を説明したくない」
『すでに町中へ広まっていると思うが』
遠くから声がした。
「大勇者様が娘さんのプリン食べて追い出されたらしいぞ!」
「もう広まっているな」
『歴史とは、こうして作られる』
「こんな歴史はいらん」
結局、レオンハルトは中央広場の安宿に一泊した。
宿帳の職業欄には、しばらく迷った末、
《父親》
とだけ書いた。
翌朝。
窓を開けると、東の空が白み始めていた。
邪神討伐へ向かった朝よりも、妙に緊張している。
腰に聖剣。
胸ポケットには《ばかパパ》と書かれた紙。
そして頭のなかには、プリン。
『さて、大勇者』
「なんだ」
『世界を救うより難しいと言ったな』
「ああ」
『撤回するなら今のうちだ』
レオンハルトは笑った。
「しない」
『ならば行け。最初の敵は菓子職人だ』
「敵にするな」
そうして彼は朝靄の王都を歩き出した。
同じころ。
クラリスは居間で割れかけた食器を片づけ、ようやく魔力の収まったルナの淡い金髪を梳いていた。
「クラリス」
「はい」
「パパ、ほんとに出てった」
「ルナ様がお出しになりましたから」
「……でも、ほんとに行くと思わなかった」
クラリスは笑わなかった。子供の怒りを軽く扱わない。それが、ルナが彼女を信頼している理由の一つだった。
「旦那様は、妙なところだけ真面目ですから」
「パパ、バカだもん」
「ええ。ときどき、とても」
「クラリスもそう思う?」
「今回に限っては」
ルナの口元が少しだけ緩んだ。
クラリスはその横顔を見つめる。母親にはなれない。なろうとも思わない。ルナの母は今もセレフィナただ一人だ。
けれど、泣いたときに髪を撫で、熱があれば夜を越し、学校から帰る場所を守ることならできる。
それを五年間続けてきた。
ルナは二階の窓から、パパが宿屋のある中央広場へ歩いていく背中を見ていた。
机の上には、扉の下から差し込まれた手紙。
《プリンを作ってくる》
その一文を何度も読み返す。
「……そこまでしなくていいのに」
ルナは頬を膨らませた。
欲しかったのは世界最高のプリンではない。
怒ったのは、パパが自分の名前を読んだうえで食べたから。
そして、ママの味に似ていると話したことまで忘れていたから。
それだけだ。
でも。
窓の外から見えたパパの背中は、魔王を倒しに行くときの英雄の背中ではなかった。
娘に叱られて、本気で落ち込んでいるパパの背中だった。
「……ばか」
ルナは《ばかパパ》と書いた紙を引き出しへしまう。
捨てるつもりはなかった。
怒っている。
まだ許していない。
でも帰ってきてほしくないわけでもない。
その違いを、パパはきっと理解していない。
「世界は三回も救えたのに」
小さく呟く。
「なんでルナのことは、こんなに分かんないの」
胸の奥が少しだけ寂しくなる。
その瞬間、窓がびりっと震えた。
ルナは慌てて両手で胸を押さえる。
「だめ。魔力、出しちゃだめ」
隣のマーサ婆さんの屋根は、もう一度壊したら本気で怒られる。
深呼吸。
一回。
二回。
三回。
揺れが収まる。
「……帰ってきたら、ちゃんと怒るんだから」
そう言って、ルナは布団へ潜り込んだ。
枕元には、亡き母の写真。
部屋を出たクラリスは廊下で一度立ち止まった。
胸の奥がむかつく。夕食のシチューの匂いが、今日は妙に重い。
「……疲れているのかしら」
小さく呟き、無意識に下腹へ手を添える。
すぐに手を離した。
まだ、誰も何も知らない。
もちろん、本人さえも。
「ママ。パパ、また変なこと始めたよ」
写真のセレフィナは、昔と変わらない笑顔でこちらを見ていた。
ルナには、その顔が少しだけ、
――でしょうね。
と言っているように見えた。
そのころ自宅では、ルナが窓から小さくなる父親の背中を見ていたことを、レオンハルトはまだ知らなかった。
最終更新: 2026-10-15
最終更新: 2026-10-15







