説明
主人公:自称IQ200の天才。実際のスペックは「極度のドジと不運」「毛根への異常な執着」のポンコツ。ポイ活アプリの「商品モニター(配達員)」だと完全に勘違いしている。
エピソード1
指先が頭皮に触れる感触は、祈りに似ていた。
小杉育は、浴室の鏡に映る己の顔を険しく見つめている。否、見つめているのは顔ではない。額の生え際から頭頂部にかけて広がる、かけがえのない毛根たちの領土だ。
(……左側頭部、第三セクター付近の血流量が滞っている可能性があるな)
育の指先は、羽毛が水面に触れるような繊細さで動く。自称IQ二百の天才にとって、洗髪は単なる衛生習慣ではない。毛根という名の精緻な機械をメンテナンスする、極めて高度な知的作業だった。
この「最適解」に至るまで、育は最新の生成AIと三時間に及ぶ激論を交わした。
『最新の皮膚科学に基づき、頭皮の毛細血管を活性化させるマッサージ技法を提示せよ。ただし、エビデンスレベルが二以上の論文に裏打ちされたものに限る』
AIが出力した回答に対し、育は執拗に食い下がった。
『そのマッサージの押圧「五ニュートン」という数値の根拠は何だ? 2018年のボストン大学の論文か? その論文の母集団に東洋人は含まれているのか? サンプル数が少なすぎないか? 統計的有意差は?……ふん、ソースの信頼性が甘いな。再計算しろ。俺の頭皮はグローバル・スタンダードなど求めていない。俺専用の、小杉育専用のプロトコルを組め』
何度もエラーを吐き出しそうになるAIを詰問し、出典元を精査し、時には複数の翻訳ソフトを噛ませて海外の学術誌を読み漁る。そうして導き出されたのが、いま実行している「超低刺激・微細振動圧送法」である。
「フッ、俺ほど完璧にAIを使いこなしている人間はそういまい」
浴室に朗々たる声が響く。その口調は自信に満ち溢れ、まるで国家予算を動かす指導者のようだが、頭皮をタッチする手元は対照的だ。壊れ物を扱う赤ん坊のように、弱々しく、丁寧で、慎重。右手中指の腹がわずかに滑っただけで、育は「くっ……!」と苦悶の表情を浮かべ、一分間の静止を余儀なくされる。摩擦係数の増大は、毛髪にとっての死刑宣告に等しいからだ。
ようやく洗い終え、浴室を出た育の手には一通のタオルがある。
それは、某有名今治ブランドの中でも最高級とされる、一枚五千円の超長綿タオルだ。雲を掴むような柔らかさ。育はその布を、赤子を抱くようにして頭頂部に乗せた。
「よし、よし、いい子だ。栄養はすぐに行くぞ……」
吸水性を最大限に生かすため、決してこすらない。ポンポンと、優しく叩くように水分を移していく。
しかし、その聖典のごとき儀式が終わった瞬間、育の動きは豹変した。
脱衣所の棚から引っ張り出したのは、いつ買ったかも定かではない安物のタオルだ。十数年の歳月を経て、繊維は硬化し、もはや布というよりは薄汚れたサンドペーパーに近い。
その「ヤスリ」で、育は首から下の体を無造作にゴシゴシと拭き始めた。
「ふんっ、ぬんっ!」
鼻息を荒くし、皮膚が赤らむのも構わずに雑に拭き上げる。背中など、あまりの乱暴さに布が悲鳴を上げているが、育にとって「首から下」は単なる生命維持装置の土台に過ぎない。エネルギーのすべては頭頂部の知性に集約されるべきなのだ。
パジャマの袖を通す前に、育は台所へ向かった。
冷蔵庫には手を触れない。棚に置かれた、常温のミネラルウォーター――それも、特定の地層から採取された硬度三十程度の軟水だ。
コップに注ぎ、ゆっくりと喉へ流し込む。
冷たすぎる水は腸の活動を停滞させる。腸内環境の悪化は、頭皮への栄養供給経路におけるロジリスティック・フェイタル・エラーだ。つまり、頭皮の危機なのである。
「……完璧だな」
最後の一滴を飲み干し、育は独りごちた。
鏡の中の自分と目が合う。濡れた前髪を慎重にセットし直したその姿は、本人の中では完璧な知性派エージェントに見えていた。
リビングのソファに腰を下ろし、育はスマートフォンを手に取った。
今日という一日を完璧に締めくくるための、最後の情報チェック。通知欄を見て、育の目が鋭く光った。
『おめでとうございます!! 厳選なる抽選の結果、あなたは七億円の特別高額当選権利を獲得しました! いますぐメールを開いて詳細を確認してください』
普通の人間、いや、少しでもネットリテラシーのある人間ならば、この時点で「ゴミ箱」行きだろう。あまりにも露骨、あまりにも陳腐な詐欺メールだ。
しかし、小杉育は普通ではない。
彼は「天才」なのだ。
「なるほど。やはり来たか」
育は口の端を不敵に歪めた。
「AIを駆使し、運気の波動を整えていた俺の行動ログが、確率論的な特異点を引き寄せたということだろう。七億か……。毛根再生研究所の設立資金としては、まずまずのスタートラインだな」
何の疑いもなかった。
彼は、己の知性を信じて疑わない。故に、自分の行動に間違いがあるなどという可能性は、彼の脳内シミュレーションからは最初から排除されている。
「当選メールを開く」という稚拙な罠など、彼にとっては「待望の報酬を受け取るためのアクセスキー」に過ぎなかった。
リンク先をタップすると、派手なエフェクトと共に一つのアプリ画面が表示された。
ポイ活アプリ『ポイポン』。
アイコンは可愛らしいブタの貯金箱が、なぜか怪しく片目を瞑っているデザインだ。
アプリの説明文にはこうある。
『歩くだけ、運ぶだけでポイント爆増! 貯まったポイントは現金や豪華景品と交換可能! いまなら新規登録キャンペーンで当選金受け取り手数料が無料!』
「ほう、モニター業務か。俺の計算高い移動ルートが、システム的に価値があると判断されたわけだ。合理的じゃないか」
育は満足げに頷き、規約の全文(といっても、「本アプリの使用により発生するいかなる事態も自己責任とする」という一行が十言語で書かれているだけの不気味なものだ)を「熟読」したフリをして、インストールボタンを力強くタップした。
画面に表示されるプログレスバー。
70%……90%……100%。
その瞬間、スマートフォンのバイブレーションが短く二回震えた。
それは、彼が夢想する華やかなポイ活生活の始まりではなく、闇の組織が放つ「運び屋(ミュール)」への招集通知だったのだが。
「さて、まずは一番効率の良いポイント獲得案件から精査するとしようか」
育の細い指先が、死の淵へと続くアイコンを軽やかに叩いた。
その背後で、風呂上がりの生乾きの体(首から下)が、安物タオルの刺激でヒリヒリと痛んでいたが、彼はその「肉体の声」を無視し、青白く光る液晶の奥へと没入していった。
最新エピソード
「……おい。接触したぞ」
監視車両のフロントガラス越しに、カラスは掠れた声を出した。指先が、無意識にダッシュボードを激しく叩いている。
駅の券売機前。銀色
「……作戦変更だ。二手に分かれる」
監視車両の助手席で、カラスの声は掠れていた。湿った梅雨空の下、ワイパーが虚しくフロントガラスを撫でる音が、彼
画面をスワイプする指先が、微かな静電気を拾ったのは吉兆だろうか。
ポイ活アプリ『ポイポン』が提示したタスクは、小杉育の
指先が頭皮に触れる感触は、祈りに似ていた。
小杉育は、浴室の鏡に映る己の顔を険しく見つめている。否、見つめているのは顔ではない。額の生え際から頭頂部にかけて広がる、か







