説明
ラルスがミハエルがたどった道の一部を見る。
ディアドゴイ戦争と紀元前の出雲を見る。
エピソード1
木剣を振るう。
空気を裂く音は、自分の中では鋭いつもりだった。だが、父上が振るう、あの暴風を孕んだような轟音とは程遠い。
ラルス=ローゼンベルグは、手のひらに滲む汗を無造作にズボンで拭った。
王都ヴァーレンスの公爵邸、その一角にある武術訓練場。朝の光が斜めに差し込み、宙を舞う埃が、まるで自分を嘲笑う光の粒のように見えた。
才能、という言葉が肺の奥にこびりついて離れない。
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ。
不死身の皇帝。伝説の公爵。
その血を引いているという事実が、今のラルスにとっては、身の丈に合わない重い外套を着せられているような心地だった。
「……まだだ。まだ足りない」
ラルスは再び構える。
呼吸を整え、足の裏で地面を掴む。父上から教わった「霊波動」の初歩。体内のエネルギーを練り、一気に剣先へと流し込む。
放たれた一撃は、訓練用の人形の胸を僅かに凹ませた。
一般の騎士候補生が見れば、腰を抜かすほどの一撃。
だが、ラルスは知っている。父上なら、人形など影も形もなく消し飛ばして、その後ろにある防壁さえ粉砕していただろう。
焦燥。
早く、もっと早く。
父上の背中が見えるところまで。
木剣を壁に立てかけ、ラルスは公爵邸の本館へと向かった。
廊下ですれ違う使用人たちが、深々と頭を下げる。その敬意は、自分に対してではなく、自分の背後にある「フリードリヒ」の名に向けられたものだ。
父上の執務室兼書斎。
重厚な扉をノックもせず、ラルスは中へ飛び込んだ。
「父上! お願いがあります!」
ラルスが勢いよく言う。
「嫌です! おっぱいもみたいです!」
ミハエルも本を読みながら勢いよく言う。
「…………」
静寂が支配した。
部屋の中は、昼間だというのにカーテンが半分閉められ、薄暗かった。
古びた紙の匂いと、微かな紅茶の香り。
そして、部屋の主。
ミハエルは、巨大なソファに深く腰沈め、足をテーブルの上に放り出していた。
手元にあるのは、難解な魔導書ではない。
表紙に、露出の激しい女性が扇情的なポーズで描かれた、下界の「エロ本」だった。
「……あ? ラルスか。ノックくらいしろよ。今、ちょうど『美しきくっころ女騎士の陥落』が佳境なんだ。これくっころ女騎士ピンチを楽しんでるよなぁ」
ミハエルは顔を上げようともせず、指先を湿らせてページをめくる。
30代だが20代にしか見えないその貌には、公爵としての威厳も、戦士としての覇気も欠片もない。
「父上、僕は真面目なんです! 教えてください。どうすれば、もっと早く強くなれるんですか? 今のままじゃ、父上の足元にも及ばない!」
ラルスの叫びは、書斎の静寂を切り裂いた。
ミハエルは、ようやく視線を本から剥がし、面倒そうに息子を見た。
「早く強くなりたい? 効率の話か? うーん……そうだな」
ミハエルは鼻をすすり、適当に空いた方の手を振った。

「腕、もう十本くらい生やしたらどうだ? 剣を十二本持てるぞ。つよいつよい。多腕の魔神スタイルだ。見た目はちょっと、こう……キモいけどな」
「……っ! 父上、真面目に答えてよ!」
ラルスの顔が真っ赤に染まる。
拳が震えた。馬鹿にされている。いつもそうだ。この人は、自分が真剣に悩んでいる時ほど、煙に巻くような冗談で逃げようとする。
「冗談じゃない。僕は、本当に知りたいんだ。父上がその強さを手に入れた、本当の地獄を」
ミハエルは溜息をつき、読みかけの本をテーブルに伏せた。
「地獄ねぇ。君みたいな育ちの良い坊ちゃんが、本物の地獄を見たら、その日の晩飯が食えなくなるぞ。……まあいい。そこまで言うなら、少しばかり『実戦』の風景でも見せてやるか」
ミハエルが指を鳴らす。
瞬時。
部屋の空気が、凍りつくような冷気と、焼けるような熱気に二分された。
「パスト・ビジョン。過去の事象を、今この場所に引きずり出す。本来なら、覗き見るだけの術だが……。今日は少し特別だ。五感ごと連れて行ってやる」
ミハエルの瞳が、深い青から、底の見えない闇のような色に変質する。
「何だ。面白いこと始めてるね」
扉が開き、一人の男がひょっこりと顔を出した。
漆黒の短髪に、どこか食えない微笑を浮かべた男。
エウメネスだ。
かつてマケドニアで「補給の帝王」と呼ばれた書記官は、今やこの屋敷の居候のようになっている。
「エウメネスさん!?」
「ラルスくん。君の父さんの魔法は、副作用が強いから気をつけた方がいい。……おっと、ミハエル。行き先はどこだ? まさか、僕の黒歴史の時代じゃないだろうね」
「察しがいいな、エウメネス。きみのいた、わたしたちヴァーレンス勢が介入した『ディアドコイ戦争』だ。あの混沌こそ、強さを求める若造には良い薬になる」
「おいおい、勘弁してくれよ。あんな砂埃と血の匂いしかしない場所に、子どもを連れて行くのかい?」
エウメネスは肩をすくめるが、その瞳には奇妙な懐かしさが宿っていた。
「……フン、わたしも混ぜろ」
影から現れたのは、漆黒の翼を持つ戦乙女、カーラだった。
手には、先ほどまで食べていたであろうドーナツの袋が握られている。
「カーラさんまで……」
「戦乙女(ヴァルキリー)の本分は、戦場を見守ることだ。下界の暇つぶしにはちょうどいい。ミハエル、そのビジョン、解像度は最高設定にしろ」
「ももももーん! わたしもいくよー! お祭り騒ぎは大好きだもーん!」
部屋の隅、桜の香りと共に姿を現したのは、桃色の髪をなびかせた雪女、桜雪さゆだ。
十二単を翻し、彼女はラルスの肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「ラルスちゃん、強くなりたいの? だったら、死体の山を数える練習から始めるのが一番よ~。わたしが特別に、桜の花びらで埋めてあげるね♪」
「さゆ、物騒なこと言うな。ラルスが引いてるだろ」
ミハエルが苦笑しながら、印を結ぶ。
「行くぞ。……心の準備はいいか、ラルス。これは、教科書に載っている歴史じゃない。剥き出しの意志が、互いの喉元を食い破る……本物の『力』の証明だ」
視界が、白濁した光に飲み込まれた。
足元から重力が消える。
書斎の壁が、天井が、紙細工のように崩れ落ち、代わりに耳を刺すような銅鑼の音と、何万もの人間の怒号が、鼓膜を震わせた。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
熱い。
最初に感じたのは、喉を焼くような乾きと、肌を刺す砂混じりの風だった。
ラルスは、自分の足元を見た。
公爵邸の柔らかい絨毯ではない。乾燥してひび割れた、赤茶けた大地だ。
「ここは……」
「紀元前321年。ヘレスポントス。……エウメネス、きみとわたしたちが出会った場所だ」
隣に立つミハエルの声は、冷徹な響きを帯びていた。
ラルスは見上げた。
空を埋め尽くすほどの土煙。
その向こう側に、鋼の波が見えた。
マケドニアの重装歩兵。
六メートルを超える長槍、サリッサを突き出し、密集陣形(ファランクス)を組んで進軍してくる。
一歩、また一歩。
足音が、地響きとなって心臓に伝わってくる。
「うげぇ……。やっぱり、この時代の匂いは好きになれないな。汗と馬の糞の匂いが混ざり合って、最高に不潔だ」
エウメネスが、鼻をつまみながら周囲を見渡した。
今の彼は、現代のカジュアルな格好ではない。
白いマントを羽織り、革の鎧を身に纏った、かつての「書記官エウメネス」の姿だ。
「見て、ラルス。あっちが敵軍。……クラテロスだ」
エウメネスが指さした先。
黄金の兜を被り、白馬に跨った将軍が、全軍の先頭に立っていた。
その男が剣を振り上げた瞬間、空気そのものが震えた。
「マケドニア最強の男。アレクサンダーの最も忠実な友。古代のアイドル……ラルス、あの男を見て、どう思う?」
ミハエルの問いに、ラルスは言葉を失った。
強い。
圧倒的だ。
霊波動を使っているわけではない。魔法を使っているわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、周囲の空間が圧伏されている。
何万という兵士の意志を、たった一人の人間が束ね、一つの巨大な「暴力」に変えている。
「あれが……『強さ』……?」
「そうだ。個人の武勇じゃない。運命のうねりを、自分の手首一つでねじ伏せる。それが、この時代の英雄たちの流儀だぞ」
カーラが、槍を地面に突き立て、冷ややかに笑う。
彼女の背後には、漆黒の翼が薄っすらと展開されていた。
「でも、見て。あっちの陣営にいるのが、僕の……いや、この時代のミハエルに介入してもらった僕だ」
エウメネスが自分自身を指差す。
そこには、馬上で必死に指揮を執る、若い頃のエウメネスがいた。
周囲はマケドニア人ではない、東方のカッパドキア騎兵たちだ。
「わたしこのときアンティゴノスにちょっかいかけてたのよね~。ラルスちゃん、見て見て! あっちの騎兵さんたち、みんな死にそうな顔してるよ! だって、相手はマケドニアの神様みたいな将軍なんだもーん」
さゆが、はしゃぎながら空中に浮かぶ。
戦場に似つかわしくない、鮮やかな桃色の十二単。
「でもね、ここからが面白いの。……ねえ、エウメネスのおじさん?」
「おじさんはよしてくれ。……まあ、見てな。ラルスくん。力っていうのは、単に身体能力が高いことじゃない。……『情報』と『心理』を支配することだ」
エウメネスの指揮により、カッパドキア騎兵が突撃を開始した。
彼らは、相手の将軍が「クラテロス」であることを知らない。
もし知っていれば、恐怖で戦う前に逃げ出していただろう。
エウメネスは、自軍の兵士に、敵将の顔を見せないように、わざと突撃の角度を調整し、迅速に接敵させたのだ。
「……騙したの?」
ラルスが呟く。
「騙した、という言葉は語弊があるな。……『最適化』したんだ。勝つために必要な、最低限の情報を、最低限のタイミングで与えた。……マケドニア軍からすれば、卑怯極まりないやり方だろうね」
ミハエルがラルスの肩に手を置いた。
「どうだ、ラルス。お前が求めている『強さ』の欠片は見えたか? 真っ向からぶつかり合うだけが、戦いじゃない。自分の手の届かない巨大な力を、どうやって崩すか。その知恵こそが、公爵家を継ぐ者に必要なものだ」
眼下では、凄まじい肉弾戦が始まっていた。
槍が肉を貫く音。
盾が砕ける音。
人間が、ただの肉の塊となって崩れ落ちていく光景。
ラルスは、吐き気を催した。
訓練場の静謐な空気とは、正反対の。
汚泥に塗れた、現実。
「父上……。父上も、こんな場所を通ってきたんですか?」
ミハエルは、戦場を見つめたまま、僅かに目を細めた。
「通ったんじゃないさ。今回のこれはエウメネスに協力したの。わたしの過去は血なまぐさすぎるし~」
ミハエルの横顔が、一瞬だけ、ラルスの知らない「不死身の皇帝」の表情になった。
哀しみ、というよりは、遠い過去に置いてきた自分への、冷ややかな視線。
「ラルス。お前には、わたしと同じ道を歩んでほしくない。……だが、同時に、この残酷な世界で誰かを守るためには、その手を血で汚す覚悟も必要だ」
不意に。
戦場の一角から、強烈な霊波動が噴き出した。
「……っ!?」
ラルスは、反射的に腰の剣(訓練用の木剣を魔力で補強したもの)に手をかけた。
空が割れた。
パスト・ビジョンという、過去の映像であるはずの世界が、内側から歪み始めた。
「おい、ミハエル! 魔法の出力がおかしいぞ!」
エウメネスが叫ぶ。
「違うわ。……外から『干渉』されてる!」
カーラが、槍を構えて空を睨みつけた。
マケドニア軍の頭上に、巨大な、黒い影が落ちた。
それは、歴史には存在しないはずのもの。
巨大な、黄金の眼を持つ、漆黒の竜。
最新エピソード
視界が焼ける。光の奔流が、網膜にこびりついた残像を強引に剥ぎ取っていく感覚。ラルス=ローゼンベルグは、自分の指先が震えているのを自覚していた。父ミハエルの背中は、この異常な空間にあっても微塵
「そんで、その後の流れでアレクサンドロス大王の死因を知ったわけだ」
カーラが話題を戻した。ラルスは身を乗り出した。これは歴史の大きな謎の一つだ。大王は病気で死んだ、毒殺された、い
ラルス=ローゼンベルグは最初に感じたのは、足元がないことだった。
視界が白く染まり、次いで色が戻ると、そこは見慣れたどこでもない空間だった。石の床。薄暗い照明。そして、円を描く
木剣を振るう。
空気を裂く音は、自分の中では鋭いつもりだった。だが、父上が振るう、あの暴風を孕んだような轟音とは程遠い。
ラルス=ローゼンベルグは、手のひらに滲む汗を無造作に







