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紅葉の向こうの家

紅葉の向こうの家

更新日時: 2026-09-29 01:41:22
言語:  日本語4+
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説明

人生に迷った男が、山で道に迷った。


夕暮れの紅葉の森に現れた、一軒の家。


明かりは灯っている。


時計は動いている。


食卓には三人分の食器が並び、キッチンからは湯気が立ちのぼっている。


なのに__住人の姿だけが、どこにもない。


そして食卓には、一本の万年筆。


それは、人生に迷った男が辿り着いた__不思議な秋の一夜の物語。


エピソード1

 


 紅葉が、燃えていた。


 目に刺さるような赤。


 毒々しいまでの黄色。


 山全体が、死の前の狂乱に酔い痴れている。


 窓の外を流れる極彩色の波。


 それを眺める俺の心は、冷え切ったままだ。



(綺麗だねえ)


(本当に。来てよかったわ)




 後ろの座席から、老夫婦の穏やかな声が漏れてくる。


 幸せの匂い。


 平和の体温。


 それが今の俺には、鋭い刃物のように突き刺さる。


 バスの窓に、薄汚れた「幽霊」が映っていた。


 安物のスーツジャケット。


 締めすぎて首に食い込んだネクタイ。


 無精髭の浮いた、覇気のない面構え。


 佐伯健一、二十五歳。


 どこにでもいる、そしてどこにも居場所のない男だ。




 スマホを開く。


 そこにあるのは、今朝届いた「お祈りメール」。


 五十通目。


 社会から突きつけられた、五十通目の死刑宣告。


「……今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます、か」


 独り言が、窓ガラスで結露する。


 俺の人生の終わりを祈ってくれる人は、もうこの世にはいないのに。




 両親が死んでから、家の中は音を立てて崩れていった。


 残ったのは借金と、俺という名の不良債権だけ。




 効率。


 若さ。


 生産性。


 あのピカピカしたオフィスビルの中で、俺という部品は「不適合」のラベルを貼られて放り出された。


 真面目。


 よく言われた言葉だ。


 だけど。


 裏を返せば。


 それしか取り柄がなかった。


 それからの再就職活動は、緩やかな自殺に近い。




 降車ボタンを押す。


 プーッ、という無機質な電子音。


 山あいの停留所。


 降りたのは俺一人だった。


 バスが排気ガスを残して去っていく。


 後に残されたのは、圧倒的な静寂と、冷ややかな秋の風だけだ。




◇




 麓のコンビニへ入る。


 自動ドアが開く音が、なんだか別の世界への扉が開く音のように聞こえた。


 買ったのは、百三十円の温かい缶コーヒー。


 レジ袋はいらない、と言った。


 受け取ったレシートを、無造作にポケットへねじ込む。


 これが今の俺の価値だ。


 百三十円。


 アルミ缶の熱だけが、唯一の確かな感触。




 アルミの蓋を引く。


 パキッ。


 乾いた音が響く。


 一口啜る。


 苦い。


 甘ったるい。


 そして、すぐに冷めていく。


 俺は登山道へと足を踏み入れた。


 革靴が乾いた土を噛む。


 キュッ、キュッ、と場違いな音が鳴る。


 登山に来る格好じゃない。


 分かっている。


 だが、計画なんてものに何の意味がある?


 どうせ俺の人生に、次の予定なんて書き込まれていないんだ。




 道は次第に険しくなる。


 スーツの肩が、張り出した岩肌に擦れる。


 バリッ、と嫌な音がした。


 裏地が裂けたかもしれない。


 でも、どうでもいい。


 二度とこれを着て面接に行くこともないだろうから。



(健一、しっかりしなさい)



 死んだ母親の声が、風に乗って聞こえた気がした。



「うるさいな……」



 俺は地面を蹴った。


 目の前の紅葉が、嗤っているように見える。


 お前も早く朽ち果てて、土に還れと。




 さらに奥へ。


 もっと深くへ。


 いつの間にか、整備された道は消えていた。


 足元は腐葉土に覆われ、一歩踏み出すたびに沈み込む。


 気づけば、陽が傾いていた。


 秋の日は釣瓶落とし。


 その言葉通り、急速に光が奪われていく。


 森が、その口を大きく開けて俺を飲み込もうとしていた。




◇




 その時だった。


 ズリッ。


 右足が滑った。


「うわっ……!」


 足元の崖が崩れる。


 視界が激しく揺れた。


 ゴロゴロと体が斜面を転がる。


 バキッ! 枝が折れる。


 ドカッ! 背中を岩に打ち付ける。


 ザザーッ! 土砂とともに、俺の体は奈落へと滑り落ちていった。




「…………がはっ!」



 肺の空気が全部押し出される。


 土と枯れ葉の匂いが、鼻腔に突き刺さる。


 痛い。


 全身が悲鳴を上げている。


 特に右足。ズキズキと、心臓の鼓動に合わせて熱い痛みが走る。


 触れてみる。


 熱い。


 そして、濡れている。


 闇の中で自分の手を見ると、黒くべっとりとした液体が付着していた。




「……はは、最悪だ」



 自嘲の笑みが漏れる。


 立ち上がろうとするが、右足に力が入らない。


 ぐにゃりと感覚が抜け、激痛が脳を焼く。


 折れたか。


 よくて重度の捻挫か。


 どちらにせよ、この山の中で動けないのは致命的だ。


 痛みが皮肉にも「死にたくない」という気持ちを炙り出す。




 スマホを取り出す。


 救助の連絡を。


 画面の光が、夕闇を裂く。


 しかし。


 圏外。



「……はは、詰んだ」




 周囲はもう、完全な闇に包まれていた。


 さっきまであんなに鮮やかだった紅葉は、今は不気味な黒い影となって俺を取り囲んでいる。


 風が、獣の唸声のように林を抜けていく。


 寒い。


 汗に濡れたシャツが、氷のように背中に張り付く。


 これが死か。


 案外、あっけないものだな。


 五十社に断られ、山で足を踏み外して、誰にも知られずに腐っていく。


 俺らしい最後だ。




 意識が遠のき始めた、その時。


 瞼の裏に、かすかな光が差した。



「……え?」



 幻覚か。


 俺は泥だらけの顔を上げた。


 暗い森の奥。


 そこには、あり得ないものがあった。




 光だ。


 それも、焚き火のような揺れる光じゃない。


 文明の、温かみのあるオレンジ色の電灯。


 暗闇の中に浮かび上がるのは、場違いなほど洗練されたモダンな一軒家だった。




 大きなガラス窓。


 手入れの行き届いた木の壁。


 温かな光が、夜の森を円形に切り取っている。


 こんな場所に、あんな家があるはずがない。


 だが、その光はあまりにも力強く、俺の生存本能を揺さぶった。


 山に入る前まで、枯れ果てていた「生きたい」という思い。




「た……助けて……」



 声にならない声を漏らしながら、俺は這い出した。


 右足を引きずり、泥を噛み、爪を剥がしながら、光の射す方へ。


 ズリッ、ズリッ。


 地面を這う音が、自らの埋葬の音のように聞こえてくる。



 ようやく、家の玄関らしき場所に辿りついた。


 緩やかな傾斜を描く片流れの屋根。


 コンクリート打ちっぱなしの、都会的なアプローチ。


 山の中とは思えないほど清潔だ。


 俺は震える手で、壁にあるインターホンを探り当てた。




 ピンポーン。



 乾いた音が、静かな山に響き渡る。


 返事はない。


 もう一度。



 ピンポーン。



 やはり、応答はない。


 だが、家の中からは生活の気配がした。


 かすかに漂う、出汁のような、柔らかな食卓の香。


 薪ストーブが爆ぜるような、乾いた音。




「誰か……いませんか……」



 ドアノブに手をかける。


 どうせ鍵がかかっているだろう。


 そう思って力を入れた。



 カチャリ。



 呆気なく、扉が開いた。


 内側から溢れ出してきたのは、凶暴なほどの暖気と、懐かしい安らぎの匂い。


「失礼……します……」


 俺は、吸い込まれるようにしてその「家」へと足を踏み入れた。




 そこが、俺の終わりの場所なのか、あるいは始まりの場所なのか。


 今はまだ、知る由もなかった。

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