説明
秋の旅行とてごわいラスボス。
エピソード1
窓枠を叩く風が、昨日より少しだけ鋭さを増していた。
ヴァーレンス王国の秋は、音から忍び寄る。高く澄み渡った空から降りてくる乾いた大気は、夏の湿り気を一気に攫い、代わりに枯れ葉の匂いと、冬の足音をかすかに含んでいた。王都を囲む山々は、誰かが夜のうちに絵具をこぼしたかのように、裾野から頂へ向かって燃えるような朱と、黄金色のグラデーションに染まっている。
そんな朝のことだ。
公爵邸の重厚なソファに深く腰沈めていたミハエルが、おもむろに立ち上がった。
「よし」
その一言には、国政を左右する決断と同じだけの重みと、それ以上にタチの悪い気まぐれが同居していた。傍らで歴史書を紐解いていた水鏡冬華が、目線だけを上げてその姿を捉える。
「旅行に行こう」
「……」
冬華は無言で本を閉じた。彼女の眉間には、すでに不穏な気配を察知した時に現れる、微かな縦筋が刻まれている。
「突然ねー。さすが闇霎(くらおかみ)様の息子。急に思い立って行く。旅行先も途中で帰る。闇霎(くらおかみ)さまは。どこへ行くつもり?」
「決めてない」
「……でしょうね。あなたの場合、旅行と言い出す時は大抵『どこかへ行きたい』のではなく『今ここにある仕事から逃げたい』だけだから」
「否定はしないよ。秋は人を詩人にするが、公爵を怠け者にもするらしい」
ミハエルは窓の外の秋空を見上げ、もっともらしい顔でうそぶいた。その隣で、掃除の手を休めていた空夢風音が、ぱっと顔を輝かせる。
「わ、私は旅行、行きたいです! 紅葉の絨毯とか、見てみたいですし……」
「風音は素直で助かるよ。冬華、君もセーラー服を新調したばかりだろう? 新しい服には、新しい景色が必要だ」
「論理のすり替えはやめなさい」
呆れたように吐き捨てながらも、冬華は手帳を取り出した。彼女が動くということは、この突発的な計画が現実味を帯び始めることを意味する。
「行き先は? ハラやタイラは今の時期、観光客で混み合っているわ。馬を見に行くのならいーけど」
「エルフの森がいいな」
ミハエルの提案に、邸内の空気が一瞬だけ固まった。
エルフの森。
かつて、この一行が訪れた際に引き起こされた、あの数々の騒動。ミルクまみれになったエルフの剣士や、身長に対する無神経な言及。そして、何よりもフレッドという歩く外交問題。
「……あそこへ、また行くつもり?」
「秋の森は綺麗だろう? それに、たまには自然の中でエスの解法を研ぎ澄ますのも悪くない」
「温泉宿があれば、なお良しだな!」
いつの間にか背後に立っていたフレデリックが、快活な声を上げた。漆黒の髪を無造作に掻き上げ、緑の瞳をキラキラと輝かせている。
「ミハさん、名案だぜ! エルフの姉ちゃんたちは秋になると、衣替えで少し薄着になるって噂だ。芸術の秋、食欲の秋、そして――」
「お前の目的は十中八九、煩悩の秋だろう」
「硬いこと言うなよ。俺は純粋に、温泉と紅葉を楽しみにしているだけだ」
「温泉は五分だが、もう半分は明らかに邪な期待だな」
ミハエルが呆れたように肩をすくめる。
そこへ、騒ぎを聞きつけた面々が続々と集まってきた。
「旅行!? やるやる! あたし、美味しいお魚食べたい!」
サリサが白い獣耳をぴんと立て、尻尾を弾ませながら飛び込んでくる。その後ろからは、黄緑色の髪をなびかせたシルフィードが、秋の風を纏って現れた。
「森なら風も気持ちいいよー! ミハエル、テントも持っていく?」
「いや、今回は宿に泊まるつもりだが……」
「わたしは肉! その土地でしか食べられない、野生の味を所望する!」
ブラックヴァルキリー・カーラが、兜もつけずに堂々と宣言する。彼女の頭の中は、すでに秋の味覚で占められているようだった。
「地元の料理なら、骨董的価値のあるレシピも残っているかしら。少し興味があるわね」
フィオラがルビーのような唇を綻ばせ、優雅に同意する。
そして、最後に現れたのはラルスと、その横で少し決まり悪そうに立っている高嶺綾香だった。
「父さん、僕も行っていいの?」
「ああ、もちろんだラルス。お前がいないと始まらないからな」
「……僕、エルフの森の図鑑、持っていくよ!」
嬉しそうに駆け出していく息子を見送り、ミハエルの視線は綾香へと向いた。
「綾香はどうする? 友達の付き添いが必要なら、席は空いているが」
「……」
綾香は黒髪の端を指で弄りながら、視線を泳がせた。
「……なぜ私まで? 私は、その、別に公爵家の恒例行事に参加する義理は……」
「友達だからだろう」
「……っ」
直球の肯定に、綾香の顔が一気に朱に染まる。それは窓の外の紅葉よりも鮮やかな変化だった。
「……それだけ、ですか?」
「それだけで十分な理由だろう。それとも、教師としてのしめしがつかないほど、遊びに飢えている自覚があるのかな?」
「な、失礼ね! ……行くわよ。行きましょう。あなたがたを見守る人間が一人くらいは必要だもの」
「行くんじゃん」
フレッドの軽薄な茶化しを、綾香は鋭い視線(とチョークを投げるような構え)で黙らせた。
こうして、総勢十名の凸凹一行による、秋のエルフの森ツアーが幕を開けた。
馬車が二台、王都の石畳を鳴らして進む。
一台目の馬車では、冬華が手帳を睨みつけ、深刻な顔でペンを走らせていた。
「……ミハエル」
「なんだい、冬華」
「一応聞くけれど。宿の予約、してないわね?」
「してるわけないだろう。思いついたのは十分前だぞ」
「……」
冬華が手帳を静かに閉じた。その代わり、彼女の右手が鞘に入ったままの刀の柄へ伸びる。それを見ていた風音が、慌てて間に入った。
「あ、あの! 冬華さん、私が霊波動で作った即席の寝床もありますから! それにエルフの森なら、野宿も少し楽しそうですし……!」
「風音、あなたは甘やかしすぎよ。公爵、あなたが何とかなると思っている根拠はどこに?」
「エスの解法だよ。行けばわかる。空いている宿があるか、あるいは道中で誰かが泊めてくれるか。確率は五分五分だ」
「それは単なる無計画です」
隣の馬車からは、フレッドの陽気な笑い声と、カーラの「まだ着かないのか! 腹が減った!」という叫び、そしてラルスと綾香のぎこちない会話が漏れ聞こえてくる。
「高嶺さん、オットセイの真似、また見せてくれる?」
「ラルス君……それを今、言う必要はあるのかしら? 私は今、森の生態系について考えていたのよ」
「でも、あの時はすごく楽しそうだったから」
「……忘れなさい。あれは、その……秋のセンチメンタルな気分のせいよ」
そんな賑やかな会話を乗せて、馬車は山道へと差し掛かった。
高度が上がるにつれ、風景の彩度は増していく。風は冷たさを帯びるが、太陽の光はどこか優しく、乗客たちの肌をなでる。
やがて、巨木が門のようにそびえ立つ、エルフの森の入り口が見えてきた。
「止まれ! 何者だ!」
鋭い声と共に、木々の間からエルフの門番たちが姿を現した。細身ながらも引き締まった体躯、そして人間離れした美しい容貌。だが、その瞳には警戒の色が強く滲んでいる。
「……来たわね。ミハエル、今回は失礼のないように」
冬華がささやく。ミハエルは心得たというように、数歩前に出た。
「ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒ。ヴァーレンス公爵だ。秋の観光に来た。武器の使用は自衛以外に許可していない。平和的な交流を望む」
公爵としての凛とした名乗りに、エルフの門番たちは顔を見合わせた。ヴァーレンス公爵の名は、彼らの耳にも届いている。高位貴族でありながら、前回の「あの事件」の主導者でもある男。
「公爵閣下……と、その一行ですか」
門番の一人が、ちらりと後ろのメンバーを見た。そして、その視線がフレッドのところで止まった。
「……そこの男。前回の記録にある、ミルクを頭から浴びせた『口の達者な人間』ではないか?」
「ははっ、覚えられてるなんて光栄だね。安心しな、今日はミルクは持ってねぇよ。持ってるのは、友情と温泉への情熱だけだ」
「フレッド!!!」
一行の声が重なった。
「……」
門番が眉をひそめる。
「ところで、貴殿。身長は何センチだ?」
フレッドが、息を吐くように問いかけた。
「フレッド! あなたは旅行中、エルフ男性への身長質問禁止だって、あれほど言ったでしょう!」
冬華の声が響き渡る。
「えぇー? ただの世間話だろう? ここの木が大きいから、どれくらい縮尺が違うのかなって……」
「理不尽だよ冬華さん! 俺はまだ何もしてない!」
「する前に止める。それが私たちの安全保障よ」
サリサが駆け寄り、門番に愛想を振りまく。
「ごめんなさいねー! この人、ちょっと頭が残念なだけなの! あたしたち、本当にお花見とかしに来ただけだから!」
サリサの白い耳に触発されたのか、門番の表情がわずかに和らいだ。獣人族の少女の無邪気さは、頑なな森の民の心を解きほぐすのに最も有効な薬だ。
「……通れ。ただし、森の長が住むエリアでの宿は、すでに満室だ。交流広場の裏手にある、古い離れなら空いているかもしれんが」
「宿がない問題を、門番さんの温情で半分解決したわね……」
肩を落とす冬華に対し、ミハエルは満足げに頷いた。
「ほら、エスの解法だろう?」
「ただの偶然よ」
一行は、色づく森の深部へと足を踏み入れた。
足元では枯れ葉が小気味よい音を立て、頭上では鳥たちのさえずりと、風に揺れる枝の擦れ合う音がオーケストラのように響いている。
秋の陽射しは、木々の隙間から光の柱となって降り注ぎ、その一本一本が幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「見て、ミハエル! あそこの木、真っ赤だよ!」
サリサが指差す先には、見上げるような大楓が、森の神殿の中心に据えられた聖火のように燃え盛っていた。
「綺麗ね……。自然の色彩には、どんな宝石も敵わないわ」
フィオラが、手にした小さな手鏡に映る景色を見つめながら嘆息する。
「風音、あの葉っぱ、栞にしたら縁起が良さそうだね」
「はい……! 帰ったら押し花、いえ、押し葉にしましょうか」
そんな平和な光景の裏で、カーラは鼻をクンクンと動かしていた。
「……匂う。この先、香ばしい匂いがするぞ! これは、木の実を焼いたような……」
「カーラ、よだれが出てるわよ」
冬華が注意するが、カーラの足は止まらない。
案内された交流広場には、秋の収穫を祝う市場が立っていた。
エルフたちが丹精込めて育てた果実や、森の恵みであるキノコ、そして彼らの繊細な技術で作られた細工物が並んでいる。
「うわぁ……おいしそう!」
風音が声を上げる。そこには、大ぶりの栗を焚き火でじっくりと焼き上げた、熱々の焼き栗が山積みになっていた。
「これだ! これを待っていた!」
カーラが一番乗りで露店に駆け寄る。
「おっちゃん! この栗、全部くれ!」
「全部は困るよ……。お代は?」
「魂……じゃなかった、ウサギでいいか?」
「エルフの森は物々交換か、ヴァーレンスの通貨も使えるよ」
ミハエルが懐から銀貨を取り出し、スマートに支払いを済ませる。
「彼女の分と、みんなの分を頼む」
「まいど」
熱い栗を半分に割り、ハフハフと口に運ぶ。口の中に広がるのは、凝縮された甘みと、秋の森の香りそのものだった。
「あふ、あふっ……おいひい!」
サリサも頬を膨らませて食べる姿は、まるでリスのようだ。
「ラルス、お前も食え。勉強ばかりだと、脳が糖分を欲しがるだろう?」
「ありがとう、父さん」
ラルスは受け取った栗を、隣でじっと見つめていた綾香に差し出した。
「高嶺さんも、食べる?」
「……ええ。一つだけなら。毒見をしてあげるわ」
「素直じゃないな、相変わらず」
フレッドの軽口に、綾香は無視を決め込み、慎重に栗を齧った。その瞬間、彼女の瞳がわずかに見開かれる。
「……美味しい」
「だろう? 秋ってのは、こういうことのためにあるんだ」
ミハエルは、広場の中央にある大きな切り株のテーブルに皆を誘導した。
宿の確保という難題は依然として残っている。だが、今は誰もそのことを気にしていなかった。
頭上から時折舞い落ちる色とりどりの葉。
頬を撫でる冷たくも心地よい風。
そして、傍らにある仲間たちの笑い声。
フレッドが酒を調達してくると言い残し、どこかへ消えていったのを不安に思いつつも、ミハエルは深く息を吸い込んだ。
「世界を救わなくていい一日。悪くないな」
冬華が、栗の殻を器用に剥きながら、ふっと微笑んだ。
「……たまには、許してあげます。宿の予約を忘れた不始末もね」
秋の旅行は、まだ始まったばかりだ。
不透明な宿泊先、フレッドのいつ爆発するかわからない失言、そして食欲旺盛な元ヴァルキリー。
それら全てを飲み込んで、エルフの森は美しく色づき、一行を招き入れている。
「ミハエルさん! 次あっちの出店行ってみましょう!」
風音に腕を引かれ、ミハエルは苦笑いしながら立ち上がった。
この秋が、彼らにとってどんな思い出になるのか。
それはまだ風の中にあったが、少なくとも今、この瞬間の楽しさだけは、確かに全員の胸に刻まれていた。
「おい、ミハさん! こっちで面白い酒を見つけたぞ! エルフの姉ちゃんがお酌してくれるってよ!」
「……フレッド、その『姉ちゃん』の身長だけは聞くなよ」
「分かってるって!」
笑い声が、秋の森に溶けていく。
それは、どんな魔法よりも豊かで、何よりも平和な、ヴァーレンスの秋の響きだった。
離れの宿(築百年、隙間風あり)へ案内されるのは、この数時間後の話である。
しかし、その物語はまだ始まったばかりなのだ。
紅葉の影で、ミハエルはふと自身の掌を見た。
暖かい。
それは、ただの季節のせいではないことを、彼は一番よく知っていた。
「さて……次は温泉を探すとしようか。フレッド、案内しろ。お前の嗅覚だけは信じている」
「任せとけ!」
秋の陽が、静かに傾き始める。
森のコントラストはより深まり、十人の影が足元の落ち葉の上に長く伸びていった。
――秋旅行、エルフの森編。
賑やかな足音が、深い森の奥へと消えていった。
最新エピソード
旅の終わりというものは、いつも微かな焦燥と、それ以上の湿った安堵感を伴ってやってくる。ゴリエルフの迎賓館、その手入れの行き届いた庭園には、朝露を含んだ土の匂いが立ち込めていた。四日目。秋の陽
ゴリエルフの夜は、胃袋の限界に挑むようなピザの饗宴を経て、次なる享楽のステージへと移ろっていた。巨大な円盤状の小麦粉と格闘し、勝利の証としての満腹感を抱えた一行は、地上の喧噪へと戻る。路地裏
ゴリエルフの夜は、美食と喧噪が運河の底へと沈み、代わりに肌を刺すような冷気と、魔導灯の淡い琥珀色が支配する時間へと移ろっていた。高級なイカ墨パスタの余韻と、フレッドの財布の軽さを笑い飛ばす声が
運河沿いの贅を尽くした夜景から一歩外れると、そこにはゴリエルフのもう一つの顔があった。
整備された石畳はひび割れ、魔導灯の光は等間隔であることをやめ、明滅する光が湿った影を不機味に揺







