説明
閑古鳥が鳴く探偵事務所。かつての名探偵の子、愛理と久哉の姉弟が依頼された。ある依頼とは。
エピソード1
夏の日差しが、黄色く変色した古いレースのカーテンを透かして床板に落ちている。
ほうきが木床をこする乾いた音が、静かな事務所内に規則正しく響いていた。額から滲んだ汗が睫毛を濡らしそうになり、愛理は袖口で乱暴にそれを拭う。手首に巻いたヘアゴムで髪を後ろにまとめ直し、ちりとりの中の綿埃を見つめた。
一階の相談室。かつては依頼人の靴が絶えず泥を落としていったクッションフロアも、今では磨き抜かれて白々とした光を反射している。
「よし」
道具を片付け、部屋の隅に据えられた神棚に向かう。二度、手のひらを合わせて乾いた音を響かせ、深く頭を下げる。父親が毎朝欠かさず行っていた作法だ。手のひらに残る微かな痛みが、静まり返った空気の中で妙にリアルだった。
背後で、木造階段が軋む鈍い音がした。
「ふあぁ……。姉ちゃん、おはよ」
頭頂部の髪を鳥の巣のように膨らませた久哉が、眠気に潰れた声で階段を下りてくる。Tシャツの首元はだらしなく伸び、片手で目をこすっている。
「あんたねえ! 夏休みだからっていつまで寝てんの。もうすぐお昼だよ」
「わかってるって……」
久哉は姉の小言を鼓膜の表面で受け流すように首を振り、気だるい足取りで洗面所へ向かった。蛇口がひねられ、勢いよく水が吐き出される音が聞こえてくる。
愛理は小さくため息をつき、事務所の奥にある居住スペースへと移動した。リビングの隅、黒檀の仏壇の前に正座する。
線香に火をつけ、灰に立てる。細い煙が揺らぎながら天井へ昇っていくのを見つめながら、静かに手を合わせた。
(お父さん、お母さん。私たちはちゃんとやってるよ。ご飯も食べてるし、家事も分担してる。……あ、でも、久哉が最近だらしなさすぎるから、ちょっとだけお仕置きの雷でも落としてやってね)
「姉ちゃん、ひでえな」
いつの間にか洗面所から戻っていた久哉が、濡れた顔をタオルのなかに埋めたまま、不満そうな声をこぼした。
「俺、そこまで言われるようなことしてないだろ」
「何にもしないから言ってるの! あんたが最後にここを掃いたの、いつだか覚えてる?」
愛理が振り返って鋭く眉をひそめると、久哉はタオルを首にかけ、諦めたように両手をひらひらと振った。
「はいはい。悪うございました」
そう言いながら、久哉も愛理の隣に膝をつき、仏壇に向かって静かに掌を合わせた。横顔を見れば、まだ幼さの残る鼻梁のラインが、かつてこの部屋で煙草の煙を燻らせていた父親に少しずつ似てきている。
上司愛理、高校三年生。そして弟の久哉、高校一年生。
二人の暮らすこの古い二階建ての家は、地元でも名が知られていた「上司探偵事務所」そのものだった。母親は二人がまだ物心つく前に他界し、所長であった父親の修司は、二年前の夏、ある事件の調査中に踏切での事故で命を落とした。以来、残された姉弟は互いの背中を支え合うようにして、この場所を守り続けてきた。
台所の丸テーブルに、昨晩の残りの味噌汁と焼き魚を並べる。遅すぎる朝食の箸を動かしながら、久哉が湯気の向こうから切り出した。
「なあ、姉ちゃん。もうそろそろ、この事務所の看板下ろさないか?」
愛理は焼き魚の身をほぐす箸をぴたりと止めた。
「嫌よ」
「嫌よって言ったってさ。開けてたって客なんか来ないだろ。第一、来られたところで俺たちに何ができるんだよ。二人ともただの高校生だぞ」
久哉の指摘はあまりにも現実的で、だからこそ愛理の胸を硬く突き刺した。
「そんなこと、言われなくてもわかってる」
「じゃあどうすんだよ。大人の真似事して事件解決ってか? 現実は探偵小説みたいにいかないって」
「……それでも、お父さんの場所を無くしたくないの。いつか私がちゃんと資格を取って、昔みたいに、みんなに頼りにされる事務所にするんだから」
愛理の言葉は、自分自身に言い聞かせるような響きを帯びていた。
「気持ちはわかるけどさ」
久哉は味噌汁を一口すすり、冷めた目で姉を見た。
「今どき探偵事務所に来る依頼なんて、ほとんどが浮気の証拠集めだろ。親父は警察に太いパイプがあったから、特殊な事件も回ってきてたみたいだけど。何のコネもないガキ二人に、何ができるよ」
「うるさい! 浮気調査の何が悪いの! それで心が救われる人がいるなら、立派な仕事じゃない!」
「浮気調査って……」
久哉が箸の先で愛理の顔を指す。
「高校三年にもなって、まだ男と手を繋いだこともない処女の姉ちゃんに、男女のドロドロした関係の何がわかるんだよ。尾行の途中で絶対こけて見失うのが目に見えてる」
愛理の顔が一瞬で沸騰したように赤くなった。持っていた箸が小刻みに震える。
「な、何ば言いよっとか、こんガキ! 身内やろうとセクハラはセクハラよ! あんたには関係なかでしょ!」
「ほら、すぐそうやって興奮して言葉がおかしくなる」
「うるさいうるさいうるさい!」
立ち上がって身振り手振りで抗議しようとしたその時、事務所の玄関から「ピンポーン」という電子音が響いた。
二人の動きが完全に停止した。
「……え?」
愛理の目が丸くなる。
「依頼人……?」
「冗談だろ。こんな寂れたところに」
久哉も箸を持ったまま玄関の方向を凝視している。
愛理はエプロンを引っ張って整えると、弾かれたように応接室へ向かった。久哉も怪訝そうな顔でその後に続く。
ドアを開けると、夏の暴力的な光を背負って、巨大な影が立っていた。
身長は優に百九十センチを超えている。磨き上げられたアスリートのような体躯が、狭い玄関の枠を窮屈そうに埋めていた。彫りの深い顔立ちに、鋭い眼光。年の頃は五十前後。
その男は、愛理たちの顔を見ると、大きな手のひらを軽く上げた。
「よお」
愛理の肩から一気に力が抜けた。
「……なんだ。津留崎さんか」
「誰かと思えば、おっさんかよ。人騒がせな」
久哉も緊張を解き、深くため息をつく。
「ガハハ! なんだその歓迎してねえ顔は。よう、久坊。夏休みだからってだらけてねえだろうな。お嬢も相変わらず元気そうで何よりだ」
男は津留崎俊夫。地元警察の警部補であり、父親である修司とは高校時代からの親友だった。修司が亡くなってからは、二人の実質的な後見人として、何かと面倒を見てくれている存在だ。
「入ってください。ちょうどお茶が入ってますから」
愛理が応接室のソファを促すと、津留崎はその巨体をきしむ革のソファに沈めた。愛理が運んできた麦茶のグラスを、大きな手で包むようにして持ち上げ、一気に飲み干す。
「ふぅ……生き返るな。それにしても、随分と綺麗にしてるじゃないか」
津留崎は鋭い目を細め、埃一つない棚や、整然と並ぶかつての事件資料の背表紙を見渡した。
「姉ちゃんが朝から張り切って掃除してたからね。依頼人を待つんだってさ」
「久哉、余計なこと言わなくていいの!」
愛理が弟を睨みつけると、津留崎は小さく笑った。だが、その笑みはすぐに消え、警察官特有の硬質な表情が顔を覗かせる。
「修司の事務所を遺したいって気持ちはわかる。だがな、お嬢。急ぐことはない。お前たちはまず、しっかり学校を卒業して、自分の進路を決めるのが先だ。修司が生きていたって、そう言うはずだぞ」
愛理は膝の上で両手を握りしめ、視線を落とした。わかっている。正論だ。それでも、この場所が過去の遺物になっていくのを黙って見ていられなかった。
そんな愛理の様子をじっと見つめていた津留崎が、ふっと口元を緩めた。
「まあ、そんな落ち込むな。そんなお嬢たちに、ちょっとした手土産だ」
「手土産?」
久哉が怪訝そうに聞き返す。
津留崎は脇に抱えていた黒い革のセカンドバッグを開け、一冊の古いファイリングを取り出した。表紙の角は擦り切れ、背表紙には父親の筆跡で、数字の羅列と「調査報告」の文字が書かれている。
「これは……」
愛理の胸が小さく跳ねた。
「修司が死ぬ直前まで追っていた案件の、写しだ。警察の公式な記録じゃない。あいつが個人的に残していた、私的なメモと調査書だよ」
津留崎はそれをテーブルの中央に置いた。茶色く変色した紙の束が、静かに二人の視線を集める。
最新エピソード
「……そうか。見つからなかったか」
津留崎は、運ばれてきたばかりの大きなパフェのクリームを器用に掬い、口に運んだ。甘い香りが、夕暮れの喫茶店に漂う。彼は追求するような
アスファルトの照り返しが、陽炎となって視界を歪ませる。川端通りの喧騒から一本外れた路地裏は、まるで時間が肺の奥で凝固したかのような、重苦しい静寂に包まれていた。
「…
「それで? 盗人を捕まえることが出来なかった探偵の身内とやらが、今更何の用だ」
神保の口から放たれた言葉は、湿った地下室の空気のように冷たく、そして容赦なく二人を突き
「お父さんが遺した調書…ですか?」
「ああ。」
津留崎は懐から煙草の箱を取り出し、無意識の動作で一本を指に挟んだ。だが、火を点ける寸前でその手が止まる。視線は、部屋の隅







