説明
陰キャの女子高生、坂本理奈はある朝起きると、自分の身体が他人の身体になっていることに気づいた。そしてそれは自分が嫌っている一人の少女の姿だった。混乱しながらも自分の家に戻ると、そこには自分の姿をした誰かが待っていた。その中身は理奈がが今その姿になっている嫌いな少女、遠藤沙織であった。
エピソード1
首筋に触れる髪が、妙に長かった。
まぶたの裏に残る微睡みを払い、上体を起こす。指先が触れたのは、自宅の安っぽいタオル地ではない。滑らかで、吸い付くような高密度のシーツ。かすかに漂うラベンダーと、乾いた木製家具の匂い。
見上げる天井は高く、白い廻り縁には繊細な彫刻が施されている。
(ここは……どこだ)
足元がおぼつかないまま、ベッドから這い出た。絨毯の厚みが足裏に心地悪い。部屋の隅にあるドレッサーの鏡に向かって、這うようにして歩を進める。鏡面に映り込んだ影と視線が交わった瞬間、喉の奥が引き攣れた。
そこに立っていたのは、よく知っている、そして酷く苦手な少女だった。
艶やかな黒髪。形の良い二重の瞼。すっと通った鼻梁と、健康的な血色を帯びた唇。
遠藤沙織。
クラスの中心にいつもいて、誰に対しても等しく春の陽だまりのような微笑みを振りまく、非の打ち所のない優等生。
自分の両手を目の前にかざす。指は細く、白く、爪は丁寧に整えられている。かつてペンだこで荒れていたはずの私の指先は、どこにもなかった。
(なんで、沙織の身体に……)
頭が冷えていくのを感じる。鏡の中の少女も、同じように青ざめた顔でこちらを見返していた。
学校での遠藤沙織の姿が脳裏をよぎる。彼女はいつも、光の当たる場所にいた。取り巻きに囲まれ、笑い声を響かせている。一方で、私は教室の隅で文庫本を開くか、寝たふりをして嵐が過ぎ去るのを待つだけの存在だ。
その格差を羨んだことは一度もない。一人でいる時間は静かで、呼吸がしやすい。ただそれだけのことだった。
それなのに、遠藤沙織は執拗に私の領域を侵してきた。
「理奈ちゃん、みんなで一緒にお弁当食べようよ」
「理奈ちゃんもこっちにおいでよ」
周囲には親切心に見えるのだろう。孤独なクラスメイトを救い出そうとする、慈愛に満ちた行動。だが、私にとってはただの有難迷惑でしかなかった。一人でいたい人間の気持ちを、なぜ理解しようとしないのか。
(中学のとき、あんなことを言っておきながら)
胸の奥の澱が、苦い味を伴って蘇りかける。
――その思考は、乱暴にこじ開けられたドアの音によって遮られた。
「ちょっと、沙織! いつまで準備してないの!」
鋭い金属音のような声が寝室に響き渡る。
振り返ると、入り口に一人の女性が立っていた。髪をきっちりと結い上げ、仕立てのいいエプロンを身につけている。だが、その表情は異様だった。目元は吊り上がり、額には青筋が浮かんでいる。般若のような形相。
沙織の母親だった。
私の記憶にある彼女の姿と、目の前の人物が結びつかない。かつて中学校の入学前に会ったときの彼女は、いつも穏やかに微笑み、子供たちの頭を優しく撫でてくれる温かい人だったはずだ。
「……お母、さん?」
沙織の声帯が、掠れた声を出す。
「何よ、その顔は! 6時半には全員で食卓につくのがこの家の決まりでしょう! お父さんもお姉ちゃんも、もう席に着いているのよ! それなのに着替えもせずに、何をぼーっとしているの!」
ヒステリックな怒号が鼓膜を打つ。
6時半。早すぎる。学校の始業時間まではまだ十分に余裕があるはずだ。父親の仕事の都合だろうか。それとも、別の理由があるのか。戸惑いが表情に出てしまったのかもしれない。母親の目が、さらに細く険しくなった。
「……何? その目は。お母さんに文句でもあるっていうの?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
釈明しようとした瞬間、視界の端で陶器の白い塊が動いた。
化粧台の上に飾られていたはずの、一輪挿しの花瓶。それがこちらの頭部をめがけて飛んでくる。
身体が勝手に反応し、横に避けた。
直後、背後の壁に激突した花瓶が、甲高い音を立てて粉々に砕け散る。床に散らばる水と、引きちぎられたガーベラの花びら。
心臓が肋骨の内側を激しく叩く。恐怖で指先が冷たくなった。
母親を見ると、彼女はその場に崩れ落ちるようにして、ぼろぼろと涙を流し始めていた。
「どうしてお母さんの言うことが聞けないの……? ねえ、どうして? そんなにお母さんが嫌い? いつも、いつも私を馬鹿にして……!」
床を叩きながら泣き叫ぶ母親の肩が、激しく上下している。その異様な光景に、私は一歩も動けなくなった。
「――お母さん、もうやめなさい」
低く、疲弊した声がした。
ドアの隙間から、スーツ姿の男性が入ってくる。沙織の父親だ。彼はひどく猫背で、疲れ切った顔をしていた。泣き崩れる妻の肩を抱き、宥めるように背中をさする。
「あなたのせいよ! あなたが甘やかすから、沙織があんな風になってしまったのよ! どう責任を取ってくれるの!」
今度は矛先が父親に向かう。母親は夫の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶった。父親はただ、困ったような、諦めたような笑みを浮かべてそれを受け止めている。日常的に繰り返されている光景なのだと、その手慣れた様子が物語っていた。
二人の諍いの横を、すり抜けるようにして入ってきた人影があった。
沙織の姉だ。彼女は床の破片を器けたむように歩き、私の前にしゃがみ込んだ。
「さーちゃん。大丈夫?」
柔らかい微笑み。その細い指先が、私の額に触れ、そっと髪を撫でる。
その手の温かさに触れた瞬間、なぜか視界が歪んだ。
(え……?)
頬を伝って、熱いものが流れ落ちる。沙織の身体が、勝手に涙を流していた。この家庭の歪みの中で、この身体はどれほどの圧迫に耐えてきたのだろうか。私は慌てて手の甲で涙を拭った。
「さーちゃん。お父さんがお母さんを宥めてくれている間に、着替えて朝ごはんを食べちゃおう」
姉の静かな声に、私はただ何度も頷くことしかできなかった。
夫婦の言い争う声を背中に聞きながら、クローゼットを開ける。
この部屋には、幼い頃に何度も遊びに来たことがあった。引き出しの配置も、制服が掛かっている場所も、驚くほど変わっていなかった。下着の収納場所まで、迷わずに手が伸びる。
それは、私たちがまだ「友達」だった頃の記憶が、私の頭の中に鮮明に残っていたからだ。
制服のスカートに足をとおし、リボンを整える。鏡の中の遠藤沙織は、少しだけ生気を失った目をしていた。学校で見せる、あの眩しいほどの笑顔の裏側にあるものが、この狭く息苦しい家庭環境なのだとすれば。
(……何があったの、この数年で)
張り詰めた空気の中での朝食は、砂を噛むようだった。母親は赤くなった目で私を監視するように見つめ、父親は無言でトーストを口に運んでいた。姉だけが、時折私に他愛のない話題を振ってくれたが、声は小さかった。
食事を終えると同時に、私は逃げるように家を飛び出した。
重い玄関扉が閉まった瞬間、冷たい秋の空気が肺を満たす。制服のポケットに突っ込んだ手が、かすかに震えていた。
向かうべき場所は、一つしかなかった。
駅とは反対方向へ走り出す。沙織の身体は私の本来の身体よりも軽く、歩幅も広い。息を切らしながら角を曲がり、見慣れた住宅街に入る。
築三十年の、少し塗装のはげかけた一軒家。
我が家だ。
門扉をくぐり、玄関の前に立つ。インターホンのボタンを見つめ、指先が躊躇う。
もし、中に誰もいなかったら。もし、すべてが夢だったら。
意を決して、ボタンを押し込む。ピンポーン、という気の抜けた音が響いた。
数秒の沈黙の後、内側から鍵の開く音がした。
ゆっくりと扉が開く。
「……はい」
現れたのは、見慣れた猫背、少しボサボサの髪、そして冴えない表情の少女。
私自身の身体だった。
心臓が跳ね上がる。自分の顔を、これほど客観的に見つめる日が来るとは思わなかった。鏡の中ではなく、現実に「私」が目の前に立っている。
「理奈! 誰が来たの?」
奥の廊下から、私の母親の声が響いた。エプロン姿の母が顔を出し、沙織の姿をした私を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「あら、沙織ちゃん! 久しぶりねえ。元気にしてた? まあ、すっかり綺麗になっちゃって」
その歓迎ぶりに、頭がクラクラした。私の家は、あんなヒステリックな嵐とは無縁だ。少しだらしなくて、いつも静かで、のんびりとしている。
その温かさが、今の私には酷く遠く感じられた。
「……おはよう、ございます」
喉を引き絞るようにして挨拶をする。私の隣で、私の身体をした少女が、ふっと口元を歪めた。
「お母さん。今日は沙織と一緒に学校に行く約束をしてたんだ」
私の声で、私の身体が喋っている。その違和感に背筋が寒くなった。
「あら、そうなの? いつの間に仲直りしてたのよ、良かったわねえ。でも、学校に行くにはまだ少し早いでしょ? 部屋で待ってもらいなさいな」
「うん、そうする」
私の身体をした彼女は、私の手首を掴んだ。その握力は驚くほど強く、逃れることを許さないような拒絶の意志を感じさせた。そのまま引っ張られるようにして、廊下を進み、階段を上がる。
見慣れた自分の部屋。散らかった本棚、机の上の消しゴムのカス。
私は身構えた。目の前に立つ「私」は、腕を組み、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。その表情は、普段の大人しい坂本理奈からは決して生み出されない、酷く歪で、挑戦的なものだった。
彼女は一歩、こちらに近づく。私の身体から、私の嫌いな遠藤沙織の匂いが微かに漂うような錯覚を覚えた。
彼女は私の耳元に顔を寄せ、囁いた。
「ねえ。私の中に入っているの、理奈でしょ」
鼓膜に直接届いた声に、身体がびくりと跳ね上がった。一歩後退り、机の角に腰をぶつける。
「『私の』って……じゃあ、あんたは……!」
鏡の中の自分と同じ顔をした少女は、実に見事な、そして心底愉しそうな笑顔を浮かべた。その瞳の奥にある狂気のような光に、私は息を呑む。
「うん。私、沙織だよ。理奈ちゃん」
彼女は自分の胸――つまり、私の本来の平坦な胸――に手を当て、嬉しそうに身をよじった。
「信じられない。本当に理奈の身体に入っちゃった。夢みたい」
その声には、戸惑いも恐怖も一切なかった。あるのは、純粋で、底の知れない歓喜だけだった。
最新エピソード
玄関の引き戸を開けると、張り詰めた空気が肌に触れた。
廊下の奥から進み出てきた母親の顔は、土気色にこわばっている。その鋭い眼光がこちらを射抜いた瞬間、身体が自然と強張った。何かを言い
小さな湖の周囲を囲むように、まばらな青葉が影を落としている。
平日の午前中ということもあって、公園にはほとんど人気がない。時折、風が木々を揺らし、さわさわと音を立てるだけだ。水面には初夏の
沈黙が部屋の空気をじわじわと侵食していく。
私は、私の姿をした沙織を見つめ返した。カノジョはベッドに腰掛けたまま、膝の上で自分の指を弄び、ニコニコと穏やかにこちらを見上げている。その







