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6月の吸血鬼

6月の吸血鬼

更新日時: 2026-06-14 07:59:16
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説明

白い肌、赤い瞳、海外帰りの不器用な転校生・エリカ。


白藤学園にやってきた彼女は、緊張のあまり少し高貴すぎる自己紹介をしてしまい、いつしか「6月の吸血鬼」と噂されるようになる。


けれどエリカの胸には、五歳の六月、雨上がりの公園で助けてくれた“運命の王子様”の記憶が残っていた。


孤独な噂、忘れられない記憶、アジサイの咲く学園、そして音楽との出会い。


桜、結菜、雪、クリスと過ごす日々の中で、エリカの中に隠れていた“歌いたい気持ち”が少しずつ動き出す。


噂も、孤独も、言えなかった想いも、全部抱えたまま。 少女たちは、紫陽花祭のステージへ向かっていく。


傷ついた記憶からでも、花は咲く。


これは、のちにBloom of BlooDと呼ばれる少女たちが、6月の学園で初めて自分たちの音を見つける、夏の始まりの物語。


エピソード1

 雨は、さっきまで泣いていたみたいに、公園のあちこちへ雫を残していた。

 その公園は、白藤学園へ続く坂道の途中にあった。
 まだ幼い子どもたちにとって、白藤学園は大きな門と白い校舎のある、少し遠いお城のような場所だった。坂道の下にあるこの小さな公園には、六月になるとアジサイが咲く。

 ブランコの下には水たまりができていて、すべり台の銀色の手すりには、丸い雨粒がいくつも並んでいた。砂場の砂はまだ黒っぽく湿っていて、歩くたびに靴の裏へ少しだけくっついた。

 公園の隅では、アジサイが咲いていた。

 青とも紫とも言えない花が、雨粒を抱えたまま、重たそうに首をかしげている。花びらに見える小さな一枚一枚が光を受けて、まるで誰かが宝石をこぼしたみたいだった。

 その年、エリカは五歳だった。

 エリカは、そのアジサイのそばに立っていた。
 白いワンピースの裾は、雨上がりの草に触れて少し濡れている。長い金色の髪も、湿った空気を吸って、いつもより重たく感じた。

 けれど、エリカが一番気にしていたのは、服でも髪でもなかった。

 公園にいた子どもたちの視線だった。

「見て。目、赤い」

 誰かが言った。

「ほんとだ。吸血鬼みたい」

「外国のお姫様?」

「でも、ちょっとこわい」

 その言葉は、雨粒よりも冷たくエリカの胸に落ちた。

 エリカは唇をきゅっと結んだ。泣きそうになっていることを、誰にも知られたくなかった。泣いたら、本当に怖がられる気がした。泣いたら、本当に変な子になってしまう気がした。

 だからエリカは、小さな胸を精一杯張った。

「わ、我は……こわくなどないわ」

 声が震えた。

 自分でも分かった。

 でも、もう言ってしまったからには、引き返せなかった。エリカは赤い瞳を細めて、できるだけ堂々として見えるようにした。

 子どもたちは、一瞬ぽかんとして、それから笑った。

「我って言った!」

「やっぱり変なの」

「吸血鬼のお姫様だ!」

 笑い声が、公園の濡れた空気に跳ねた。

 エリカはアジサイの花に目を落とした。花は何も言わない。ただ、雨を受け止めたまま静かに咲いている。

 自分も、あんなふうにできたらいいのに。

 何を言われても、ただ綺麗に咲いていられたらいいのに。

 エリカの目に涙がたまりかけた、その時だった。

「ねえ」

 雨上がりの空気を、まっすぐな声が切った。

「それ、いじめてるの?」

 子どもたちが振り返った。

 公園の入口に、ひとりの子が立っていた。ピンク色の髪は短めで、雨上がりの風に少し跳ねている。服は動きやすそうで、膝には小さな泥のあとがあった。

 エリカには、その子が絵本の王子様みたいに見えた。

 絵本に出てくる王子様は、もっときらきらした服を着ていた気がする。けれど、目の前の子は、濡れた地面も泥も気にせず、まっすぐこちらを見ていた。だからエリカには、その子がどんな王子様よりも頼もしく見えた。

「シロー」

 誰かが、気まずそうにその子を呼んだ。

「関係ないじゃん」

「あるよ」

 シローと呼ばれた子は、すたすたと歩いてきた。

「泣きそうな子をみんなで囲んでるの、かっこ悪いし」

「泣いてないもん」

 子どもの一人が言い返した。

 シローはちらりとエリカを見た。

 エリカは慌てて目をそらした。泣いていない。泣いていないつもりだった。けれど、たぶん泣きそうな顔をしていた。

 シローは、ふん、と鼻を鳴らした。

「そんなに吸血鬼が怖いなら、先に帰れば? 食べられる前に」

「た、食べられないし!」

「じゃあ怖くないんでしょ。なら、いじわる言わなくていいじゃん」

 子どもたちは言葉に詰まった。誰かが「もう行こう」と言って、別の子が「シロー、すぐそういうこと言う」と文句を言った。

 けれど、結局みんな、公園の反対側へ散っていった。

 笑い声が遠ざかる。

 エリカの周りに、急に静けさが戻ってきた。

 シローはエリカの前に立つと、まじまじと顔をのぞき込んだ。

 エリカは身構えた。

 また、目のことを言われると思った。

 赤い、とか。怖い、とか。吸血鬼みたい、とか。

 けれど、シローは違うことを言った。

「きれいな目だね」

 エリカは瞬きをした。

「……きれい?」

「うん。赤いビー玉みたい」

 シローはにっと笑った。

「ちょっと光ってる。かっこいい」

 かっこいい。

 その言葉は、エリカの胸の奥に、ぽんと小さな灯りをつけた。

 怖いでも、変でもない。

 かっこいい。

 エリカは頬が熱くなるのを感じながら、あわてて顔をそむけた。

「と、当然よ。我は……特別な血を引く者なのだから」

「ふーん」

 シローは首をかしげた。

「よくわかんないけど、すごいね」

 からかっている声ではなかった。

 本当に、そう思っているみたいだった。

 エリカは困った。こういう時、何と言えばいいのか分からなかった。お礼を言うべきなのだろうか。それとも、吸血姫らしく優雅に微笑むべきなのだろうか。

 考えているうちに、シローが手を差し出した。

「こっち、滑るよ。転ぶと服、もっと濡れる」

 その手には、少し泥がついていた。

 でもエリカには、その手がとても頼もしく見えた。

 エリカは、おそるおそるその手を取った。指先が触れる。シローの手は、雨上がりの空気よりもずっと温かかった。

 足元の水たまりに、二人の姿が映った。

 金色の髪のエリカと、ピンク色の髪のシロー。

 白いワンピースのエリカと、泥のついた膝で立つシロー。

 それは、エリカが知っている絵本の挿絵とは全然違っていた。けれど、エリカには分かった。

 この子は、自分を助けてくれた。

 怖がらずに、否定せずに、手を差し出してくれた。

 だからエリカは、真剣に言った。

「あなたは、私の運命の王子様ね」

 シローが固まった。

 まるで、今まで元気に動いていた時計の針が、急に止まってしまったみたいだった。

「……お、王子様?」

「ええ」

 エリカは大きくうなずいた。

「だって、助けてくれたもの」

 シローの顔が、少し赤くなった。

「わ、王子様じゃ……」

 言いかけて、シローは口を閉じた。

 エリカがあまりにも真面目な顔をしていたからだ。笑っているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、本当にそう信じている顔だった。

 シローは困ったように眉を寄せた。

「……変なの」

「変ではないわ。運命とは、突然訪れるものなのよ」

「うん。やっぱり変だ」

 そう言いながらも、シローは少し笑った。

 エリカもつられて笑った。

 雨上がりの公園で、二人だけが、少し秘密を持ったみたいだった。

 その時、遠くからエリカを呼ぶ声がした。

 大人の声だった。

 エリカははっとして、公園の入口を振り返った。迎えに来た人が手を振っている。帰らなければならない。今日だけではない。もうすぐ、遠い国へ行くのだと、朝から何度も聞かされていた。

 日本を離れる。

 この公園にも、たぶん、しばらく来られない。

 エリカは急に不安になった。

 せっかく見つけたのに。

 赤い目をきれいだと言ってくれた子を、せっかく見つけたのに。

「また、会える?」

 エリカは聞いた。

 シローは一瞬だけ目を丸くして、それから強がるように笑った。

「会えるでしょ。ここ、そんなに広くないし」

「本当?」

「うん。たぶん」

 その「たぶん」が、エリカには少しだけ頼りなく聞こえた。

 けれど、信じたかった。

 エリカはアジサイを見た。雨粒を抱えた青紫の花。今日のことを忘れないように、目に焼きつける。

 それからシローを見た。

「では、またね。私の王子様」

「だから、王子様じゃ――」

 シローの言葉は、車のドアが閉まる音にかき消された。

 窓越しに、エリカは公園を見つめた。

 シローはまだそこに立っていた。何か言いたそうな顔で、でも結局何も言わずに、こちらを見ている。

 車がゆっくり動き出す。

 公園が遠ざかる。

 白藤学園へ続く坂道も、雨に濡れたアジサイも、少しずつ小さくなっていく。

 エリカは胸の前で小さく手を握った。

 赤い瞳を怖がらなかった子。

 きれいだと言ってくれた子。

 助けてくれた子。

 私の、運命の王子様。

 その記憶は、雨粒のように、エリカの心に残った。

 公園では、シローがひとり残されていた。

 さっき散っていった子どもたちの一人が、遠くから声をかける。

「シロー、王子様だって!」

 別の子が笑った。

「よかったじゃん、王子様!」

 シローは顔を赤くしたまま、ぷいっとそっぽを向いた。

「うるさい」

 短く言った声は、少し怒っているようで、少し恥ずかしそうでもあった。

 王子様。

 その言葉は、胸の中に小さな棘みたいに残った。

 嫌だったのかと聞かれたら、たぶん、そうだ。

 でも、あの子のことが嫌だったわけではない。

 赤い目をした、きれいで、変で、泣きそうなのに偉そうにしていた子。助けたら、まっすぐに自分を見て、運命だなんて言った子。

 あんな顔で言われたら、怒りきれない。

 でも、やっぱり、王子様は違う。

 シローは濡れた手をズボンで拭いて、アジサイを見た。

 雨に濡れた花は、さっきより少しだけ明るく見えた。

「……今度会ったら」

 シローは小さくつぶやいた。

「絶対、王子様なんて言わせない」

 その日、エリカは王子様を見つけた。

 その日、シローは王子様と呼ばれた。

 同じ雨上がりの公園で、同じアジサイを見ていたのに、二人の胸に残ったものは、少しだけ違っていた。

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