説明
白い肌、赤い瞳、海外帰りの不器用な転校生・エリカ。
白藤学園にやってきた彼女は、緊張のあまり少し高貴すぎる自己紹介をしてしまい、いつしか「6月の吸血鬼」と噂されるようになる。
けれどエリカの胸には、五歳の六月、雨上がりの公園で助けてくれた“運命の王子様”の記憶が残っていた。
孤独な噂、忘れられない記憶、アジサイの咲く学園、そして音楽との出会い。
桜、結菜、雪、クリスと過ごす日々の中で、エリカの中に隠れていた“歌いたい気持ち”が少しずつ動き出す。
噂も、孤独も、言えなかった想いも、全部抱えたまま。 少女たちは、紫陽花祭のステージへ向かっていく。
傷ついた記憶からでも、花は咲く。
これは、のちにBloom of BlooDと呼ばれる少女たちが、6月の学園で初めて自分たちの音を見つける、夏の始まりの物語。
エピソード1
雨は、さっきまで泣いていたみたいに、公園のあちこちへ雫を残していた。
その公園は、白藤学園へ続く坂道の途中にあった。
まだ幼い子どもたちにとって、白藤学園は大きな門と白い校舎のある、少し遠いお城のような場所だった。坂道の下にあるこの小さな公園には、六月になるとアジサイが咲く。
ブランコの下には水たまりができていて、すべり台の銀色の手すりには、丸い雨粒がいくつも並んでいた。砂場の砂はまだ黒っぽく湿っていて、歩くたびに靴の裏へ少しだけくっついた。
公園の隅では、アジサイが咲いていた。
青とも紫とも言えない花が、雨粒を抱えたまま、重たそうに首をかしげている。花びらに見える小さな一枚一枚が光を受けて、まるで誰かが宝石をこぼしたみたいだった。
その年、エリカは五歳だった。
エリカは、そのアジサイのそばに立っていた。
白いワンピースの裾は、雨上がりの草に触れて少し濡れている。長い金色の髪も、湿った空気を吸って、いつもより重たく感じた。
けれど、エリカが一番気にしていたのは、服でも髪でもなかった。
公園にいた子どもたちの視線だった。
「見て。目、赤い」
誰かが言った。
「ほんとだ。吸血鬼みたい」
「外国のお姫様?」
「でも、ちょっとこわい」
その言葉は、雨粒よりも冷たくエリカの胸に落ちた。
エリカは唇をきゅっと結んだ。泣きそうになっていることを、誰にも知られたくなかった。泣いたら、本当に怖がられる気がした。泣いたら、本当に変な子になってしまう気がした。
だからエリカは、小さな胸を精一杯張った。
「わ、我は……こわくなどないわ」
声が震えた。
自分でも分かった。
でも、もう言ってしまったからには、引き返せなかった。エリカは赤い瞳を細めて、できるだけ堂々として見えるようにした。
子どもたちは、一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「我って言った!」
「やっぱり変なの」
「吸血鬼のお姫様だ!」
笑い声が、公園の濡れた空気に跳ねた。
エリカはアジサイの花に目を落とした。花は何も言わない。ただ、雨を受け止めたまま静かに咲いている。
自分も、あんなふうにできたらいいのに。
何を言われても、ただ綺麗に咲いていられたらいいのに。
エリカの目に涙がたまりかけた、その時だった。
「ねえ」
雨上がりの空気を、まっすぐな声が切った。
「それ、いじめてるの?」
子どもたちが振り返った。
公園の入口に、ひとりの子が立っていた。ピンク色の髪は短めで、雨上がりの風に少し跳ねている。服は動きやすそうで、膝には小さな泥のあとがあった。
エリカには、その子が絵本の王子様みたいに見えた。
絵本に出てくる王子様は、もっときらきらした服を着ていた気がする。けれど、目の前の子は、濡れた地面も泥も気にせず、まっすぐこちらを見ていた。だからエリカには、その子がどんな王子様よりも頼もしく見えた。
「シロー」
誰かが、気まずそうにその子を呼んだ。
「関係ないじゃん」
「あるよ」
シローと呼ばれた子は、すたすたと歩いてきた。
「泣きそうな子をみんなで囲んでるの、かっこ悪いし」
「泣いてないもん」
子どもの一人が言い返した。
シローはちらりとエリカを見た。
エリカは慌てて目をそらした。泣いていない。泣いていないつもりだった。けれど、たぶん泣きそうな顔をしていた。
シローは、ふん、と鼻を鳴らした。
「そんなに吸血鬼が怖いなら、先に帰れば? 食べられる前に」
「た、食べられないし!」
「じゃあ怖くないんでしょ。なら、いじわる言わなくていいじゃん」
子どもたちは言葉に詰まった。誰かが「もう行こう」と言って、別の子が「シロー、すぐそういうこと言う」と文句を言った。
けれど、結局みんな、公園の反対側へ散っていった。
笑い声が遠ざかる。
エリカの周りに、急に静けさが戻ってきた。
シローはエリカの前に立つと、まじまじと顔をのぞき込んだ。
エリカは身構えた。
また、目のことを言われると思った。
赤い、とか。怖い、とか。吸血鬼みたい、とか。
けれど、シローは違うことを言った。
「きれいな目だね」
エリカは瞬きをした。
「……きれい?」
「うん。赤いビー玉みたい」
シローはにっと笑った。
「ちょっと光ってる。かっこいい」
かっこいい。
その言葉は、エリカの胸の奥に、ぽんと小さな灯りをつけた。
怖いでも、変でもない。
かっこいい。
エリカは頬が熱くなるのを感じながら、あわてて顔をそむけた。
「と、当然よ。我は……特別な血を引く者なのだから」
「ふーん」
シローは首をかしげた。
「よくわかんないけど、すごいね」
からかっている声ではなかった。
本当に、そう思っているみたいだった。
エリカは困った。こういう時、何と言えばいいのか分からなかった。お礼を言うべきなのだろうか。それとも、吸血姫らしく優雅に微笑むべきなのだろうか。
考えているうちに、シローが手を差し出した。
「こっち、滑るよ。転ぶと服、もっと濡れる」
その手には、少し泥がついていた。
でもエリカには、その手がとても頼もしく見えた。
エリカは、おそるおそるその手を取った。指先が触れる。シローの手は、雨上がりの空気よりもずっと温かかった。
足元の水たまりに、二人の姿が映った。
金色の髪のエリカと、ピンク色の髪のシロー。
白いワンピースのエリカと、泥のついた膝で立つシロー。
それは、エリカが知っている絵本の挿絵とは全然違っていた。けれど、エリカには分かった。
この子は、自分を助けてくれた。
怖がらずに、否定せずに、手を差し出してくれた。
だからエリカは、真剣に言った。
「あなたは、私の運命の王子様ね」
シローが固まった。
まるで、今まで元気に動いていた時計の針が、急に止まってしまったみたいだった。
「……お、王子様?」
「ええ」
エリカは大きくうなずいた。
「だって、助けてくれたもの」
シローの顔が、少し赤くなった。
「わ、王子様じゃ……」
言いかけて、シローは口を閉じた。
エリカがあまりにも真面目な顔をしていたからだ。笑っているわけでも、からかっているわけでもない。ただ、本当にそう信じている顔だった。
シローは困ったように眉を寄せた。
「……変なの」
「変ではないわ。運命とは、突然訪れるものなのよ」
「うん。やっぱり変だ」
そう言いながらも、シローは少し笑った。
エリカもつられて笑った。
雨上がりの公園で、二人だけが、少し秘密を持ったみたいだった。
その時、遠くからエリカを呼ぶ声がした。
大人の声だった。
エリカははっとして、公園の入口を振り返った。迎えに来た人が手を振っている。帰らなければならない。今日だけではない。もうすぐ、遠い国へ行くのだと、朝から何度も聞かされていた。
日本を離れる。
この公園にも、たぶん、しばらく来られない。
エリカは急に不安になった。
せっかく見つけたのに。
赤い目をきれいだと言ってくれた子を、せっかく見つけたのに。
「また、会える?」
エリカは聞いた。
シローは一瞬だけ目を丸くして、それから強がるように笑った。
「会えるでしょ。ここ、そんなに広くないし」
「本当?」
「うん。たぶん」
その「たぶん」が、エリカには少しだけ頼りなく聞こえた。
けれど、信じたかった。
エリカはアジサイを見た。雨粒を抱えた青紫の花。今日のことを忘れないように、目に焼きつける。
それからシローを見た。
「では、またね。私の王子様」
「だから、王子様じゃ――」
シローの言葉は、車のドアが閉まる音にかき消された。
窓越しに、エリカは公園を見つめた。
シローはまだそこに立っていた。何か言いたそうな顔で、でも結局何も言わずに、こちらを見ている。
車がゆっくり動き出す。
公園が遠ざかる。
白藤学園へ続く坂道も、雨に濡れたアジサイも、少しずつ小さくなっていく。
エリカは胸の前で小さく手を握った。
赤い瞳を怖がらなかった子。
きれいだと言ってくれた子。
助けてくれた子。
私の、運命の王子様。
その記憶は、雨粒のように、エリカの心に残った。
公園では、シローがひとり残されていた。
さっき散っていった子どもたちの一人が、遠くから声をかける。
「シロー、王子様だって!」
別の子が笑った。
「よかったじゃん、王子様!」
シローは顔を赤くしたまま、ぷいっとそっぽを向いた。
「うるさい」
短く言った声は、少し怒っているようで、少し恥ずかしそうでもあった。
王子様。
その言葉は、胸の中に小さな棘みたいに残った。
嫌だったのかと聞かれたら、たぶん、そうだ。
でも、あの子のことが嫌だったわけではない。
赤い目をした、きれいで、変で、泣きそうなのに偉そうにしていた子。助けたら、まっすぐに自分を見て、運命だなんて言った子。
あんな顔で言われたら、怒りきれない。
でも、やっぱり、王子様は違う。
シローは濡れた手をズボンで拭いて、アジサイを見た。
雨に濡れた花は、さっきより少しだけ明るく見えた。
「……今度会ったら」
シローは小さくつぶやいた。
「絶対、王子様なんて言わせない」
その日、エリカは王子様を見つけた。
その日、シローは王子様と呼ばれた。
同じ雨上がりの公園で、同じアジサイを見ていたのに、二人の胸に残ったものは、少しだけ違っていた。
最新エピソード
紫陽花祭のにぎわいは、夕方になるにつれて少しずつほどけていった。
廊下に飾られていた色紙のアジサイは、ところどころ端がめくれている。教室からは片付けの音が聞こえ、誰かの笑い声が
紫陽花祭の朝、白藤学園はいつもより少し浮かれていた。
廊下には、色紙で作られたアジサイの飾りが並んでいる。教室の入口にはクラス企画の看板が立ち、窓際には雨粒を模した透明なビーズ
翌朝、エリカが教室に入ると、桜の机の上に一枚の紙が広げられていた。
嫌な予感がした。
なぜなら、桜があまりにも楽しそうな顔をしていたからだ。
放課後の校門前には、いつもより少しだけ湿った風が吹いていた。
六月の空は曇っている。けれど、雨は降っていない。校門のそばに咲いたアジサイは、薄い青と紫を揺らしながら、これから始







