リス獣人の捕虜に恋して10年目、狼獣人はようやく最悪の印象を与えながら迎えに行く。
説明
エルノアスという小国のリス獣人騎士、アルマロは国境防衛の部隊長として侵略せんとする帝国を迎え撃つべく現地に赴くが、そこに現れたのは帝国で軍神とも呼ばれる大柄な狼獣人の騎士だった。
部隊はあっという間に壊滅し、アルマロを含めたエルノアスの兵は皆捕虜として捕まってしまう。
牢で、絶望に打ちひしがれていた仲間たちとは違い、アルマロはその瞳から帝国への怒りや反抗心を失っていなかった。
そして、あの大柄な狼獣人の騎士が牢に入ってくるとアルマロは彼の言動に全て辛辣な言葉で返していく。何より、食事として出されたスープの器をその狼獣人に投げつけたのだ。
だが、そんなアルマロの反応に彼は今まで得られなかったものを感じ、終戦後も忘れられず、彼女を側に置く方法を思いついたのだった。
エピソード1
叩きつけるような雨が、灰色の石壁を黒く染めていく。エルノアス王国の国境を守る最前線基地は、わずか半日の強襲によって崩壊した。鉄錆と焦げた獣毛の臭いが立ち込める中、泥濘と化した中庭には、武装を剥ぎ取られたエルノアスの兵士たちが泥まみれで膝をつかされていた。
冷たい雨水が、アルマロの額から頬を伝って流れ落ちる。彼女の手首には、ずしりと重い帝国の鉄鎖が食い込んでいた。周囲の部下たちは、敗戦の現実を受け入れられずに頭を垂れ、ただ泥を見つめて小刻みに震えている。彼らの絶望が雨音に溶けていく中で、アルマロだけは背筋をまっすぐに伸ばしていた。
濡れて重くなった栗色のリスの尾が、泥の中に浸かっている。不快感が神経を逆撫でした。しかし、彼女の視線は前方で勝ち誇る帝国兵たちの足元を射抜いたままだ。小柄な体躯のどこにそれほどの熱量が残っているのか、彼女の琥珀色の瞳は、濡れた石床に反射する松明の火を吸い込んで赤々と燃えていた。
兵舎の影から、周囲の兵卒とは明らかに異なる体躯の影が現れた。
濡れた銀灰色の毛並みを鈍く光らせ、大柄な狼獣人が歩み寄ってくる。ティルフレーグ帝国の副兵団長であり、皇位継承権を持つ男、マーナだった。その肩幅はアルマロの倍近くあり、腰に帯びた大剣は彼女の身長ほどもある。整った、しかし彫刻のように冷酷な造作の顔が、雨の幕の向こうから現れた。
マーナの視線が、跪く捕虜たちを順番になぞり、最後にアルマロのところで止まった。彼は鼻孔をわずかに広げ、獲物の匂いを嗅ぎ分けるように彼女を見下ろす。
「これが、国境を死守すると息巻いていたエルノアスの精鋭か」
低く、地響きのような声だった。マーナはアルマロの前に歩みを進め、その頑丈な軍靴で彼女のすぐ脇の泥を踏みつけた。跳ね上がった泥水がアルマロの頬に付着する。マーナは視線を下げ、彼女の背後で泥に塗れている大きな尾を一瞥した。
「ずいぶんと立派な尾だが、これではただの濡れた雑巾だな。エルノアスの騎士は、その自慢の尾で床を掃くのが仕事なのか?」
周囲の帝国兵から下品な笑い声が漏れた。アルマロの奥歯がギリリと鳴る。神経質な彼女にとって、身だしなみを汚されることは何よりも耐え難い屈辱だった。だが、彼女は視線を逸らさず、むしろマーナの金の瞳を真っ向から睨み返した。
「敗者を愚弄することでしか己の強さを証明できないのか、帝国の狼め。その大きな体は、虚栄心で膨らんでいるだけらしい」
周囲の笑い声がぴたりと止んだ。背後に控える部下の一人が、小さく悲鳴のような息を漏らす。
マーナは眉一つ動かさず、ただ冷徹な笑みをその薄い唇に浮かべた。彼はゆっくりと腰を落とし、アルマロの目線に合わせるように顔を近づける。獣特有の肉食獣の匂いと、雨の冷気が混ざり合って彼女の鼻腔を突いた。
「威勢がいいな、小鼠。だが、現実は見ろ。お前たちの国は破れ、お前は私の足元に繋がれている。……ほら、降伏の誓いを立てろ。私の靴に額を擦り付け、慈悲を乞うのが敗者の作法だ」
マーナは右足を半歩前に出し、泥に汚れた革靴を彼女の鼻先に突きつけた。
アルマロの呼吸が荒くなる。怒りで全身の毛が逆立つ感覚があった。彼女は縛られた両手を握り締め、爪が手のひらに食い込むのを感じながら、ただ沈黙をもってその傲慢な要求を拒絶した。
翌日、捕虜たちは急ごしらえの地下独房へと押し込められた。
湿った石壁に囲まれた狭い部屋には、わずかな光しか差し込まない。夕刻になり、鉄格子の隙間から投げ入れられたのは、木皿に盛られた灰色のスープと、石のように硬いパンだった。スープの表面には薄汚れた脂が浮き、具と呼べるものはちぎれた泥付きの葉野菜だけだった。
アルマロがその皿を手に取ったとき、通路の奥から重い足音が響いてきた。
現れたのはマーナだった。護衛も連れず、ただ一人で視察に来たらしい。彼は鉄格子の前に立ち、腕を組んで中を見下ろした。その端正な顔には、相変わらず他者を見下すような余裕が張り付いている。
「口に合わないか? 小国の貧相な胃袋には、我が帝国の配給は贅沢すぎるかもしれんな」
その言葉が、アルマロの中で張り詰めていた糸を完全に断ち切った。
彼女はためらうことなく、手にしていた木皿を全力で振り抜いた。
バシャリ、と鈍い音が狭い通路に響き渡る。
冷めかけた脂っこいスープと、ふやけた葉野菜が、マーナの整った顔面にまともに命中した。スープは彼の額から鼻筋を伝い、銀灰色の顎髭へと滴り落ちる。額には、ふやけたキャベツの破片が張り付いていた。
一瞬にして、地下通路は墓場のような静寂に包まれた。
背後の牢にいたエルノアスの兵士たちは息を呑み、絶望のあまり頭を抱えた。皇族であり、軍神と恐れられる男の顔に泥を塗ったのだ。即座に首を刎ねられても文句は言えない。アルマロ自身も、死を覚悟して顎を引き、彼を睨み据えた。
だが、マーナは動かなかった。
顔に付着したスープを拭おうともせず、彼はただ目を見開いていた。その金の瞳が、驚愕に揺れている。
これまで、彼の前に立つ者は皆、二つの態度しか取らなかった。彼の強大な力と身分に怯えて平伏するか、あるいは「神獣の血を引く者」として腫れ物のように扱い、決して目を合わせようとしないか。彼を一個の生命として、憎悪を込めて真っ向から否定した者など、これまでの人生でただの一人もいなかった。
アルマロの瞳の中にあるのは、恐怖ではない。純然たる敵意であり、対等な個としての拒絶だった。
マーナの胸の奥で、何かが激しく脈打った。心臓が熱い血を全身に送り出す。彼はゆっくりと手を伸ばし、頬を伝うスープを指先で拭うと、それを舐めた。
「……面白い」
ぽつりと漏らした声は、怒りではなく、奇妙に弾んだ響きを帯びていた。彼は低く笑い始め、やがてその笑いは地下室の天井に反響するほど大きくなった。アルマロは眉をひそめ、この大男が狂ったのかと不審の目を向けた。
「おい、小鼠。お前、名はなんと言う」
「敗者に名乗る名などない。さっさと殺せばいいでしょう」
「殺す? まさか。そんな退屈な真似をするわけがないだろう」
マーナはそう言い残すと、濡れた顔のまま、大股で通路の闇へと消えていった。残されたアルマロは、嵐の去った後のような困惑の中で、自身の震える手を凝視していた。
その夜から、奇妙な時間が始まった。
深夜、静まり返った地下牢に、消え入りそうな松明の光が揺れる。見張りの兵たちが眠りにつく頃、決まって重い足音が近づいてきた。
現れるのはいつもマーナだった。彼は鉄格子の前にどさりと腰を下ろし、長い足を投げ出す。手には酒瓶を持っていることもあれば、ただ木製の水筒を下げているだけのこともあった。
「また来たの、暇人。帝国の皇太子は、夜中に捕虜の顔を見ないと眠れない病気にでもかかっているわけ?」
アルマロは牢の奥で膝を抱えたまま、冷ややかに言い放った。
「うるさい小鼠だ。お前のその減らず口を聞かないと、どうにも一日の終わりが締まらなくてな」
マーナはそう言って、格子の隙間から酒瓶を差し出したが、アルマロはそれを無視した。
「帝国の酒など、毒が入っていなくても泥水の味がしそうだわ。私たちはあなたたちと違って、果実の香りを尊ぶの。そちらの野蛮な味覚には理解できないでしょうけど」
「野蛮、だと? 水で薄めたようなエルノアスの果実酒こそ、小便と大差ない。我が国の黒麦酒のコクを知らんとは、これだから田舎者は困る」
「田舎者! 歴史の長さで言えば、我が国の方がはるかに古いわ! あなたたちはただ、他人の土地を力任せに奪って肥大化しただけの、品性のない新興国でしょう!」
アルマロは立ち上がり、鉄格子に歩み寄って彼を怒鳴りつけた。小柄な彼女が、格子の隙間から身を乗り出すようにして怒りを露わにする。
マーナはそれを遮るように、鼻で笑った。
「歴史が長くとも、守る力がなければただの骸だ。建国神話のリスの神獣とやらは、我が国のマーナガルムが月を喰らう前に、恐れをなして逃げ出したんじゃないのか?」
「ラタトスク様を侮辱することは許さない! あの御方は世界樹を駆け巡り、言葉を伝える賢者よ! ただ牙を剥いて吠えるだけの野獣とは格が違うの!」
「ほう、言葉を伝えるだけで国が守れるなら、なぜ今お前はそこに囚われている?」
その問いは鋭く、アルマロの胸に突き刺さった。彼女は言葉を詰まらせ、悔しさに唇を噛んだ。しかし、逃げるように視線を逸らすことはしなかった。ただ、涙がこぼれそうなほどに瞳を潤ませながら、それでもマーナを睨み続けた。
マーナはその表情を、食い入るように見つめていた。
宮廷の者たちは、彼が口を開けば平伏し、その意見にただ賛同した。彼の前で本音を語る者などおらず、誰もが彼の顔色を窺い、機嫌を取るための言葉だけを並べた。だが、この目の前の小さな獣人は違う。彼女は自らの信じるもののために、彼の身分も、その圧倒的な体躯も無視して、全力で言葉をぶつけてくる。
そこには、偽りがなかった。
「……お前と話していると、自分が『神の子』でも『皇太子』でもない、ただの男であるように思えてくる」
マーナがふと漏らした呟きに、アルマロは怪訝そうに眉を寄せた。
「何をブツブツ言っているの? 気味が悪いわ」
「なんでもない。おい、明日はエルノアスの乾燥果実でも持ってきてやる。我が国の黒麦酒とどちらが優れているか、決着をつけよう」
「いらないわよ、そんなもの!……でも、持ってくるなら最高級のやつにしなさい。安物だったら、また顔面に投げつけてあげるから」
アルマロがふいと顔を背けると、その濡れた尾がわずかに揺れた。
マーナはそれを見て、小さく笑った。鉄格子の冷たい感触が、彼の指先に伝わる。彼らの間にあるのは、決して交わることのない敵対関係であり、国と国との深い溝だった。だが、この暗い地下牢の片隅で交わされる言葉の火花だけは、確かに彼らの魂を繋ぎ止めていた。
最新エピソード
ティルフレーグ帝国の乾いた空気は、時として刃物のように肌を刺す。しかしその朝、皇太子妃となるアルマロの部屋に運び込まれたのは、帝国の冷徹な白銀ではなく、故郷エルノアスの陽だまりを編み上げたよう
ティルフレーグ帝国の王宮は、巨大な石の死体だった。
アルマロは、窓枠を飾る冷ややかな白銀の彫刻を見上げるたびに、自分が飲み込まれた獲物の腹の中にいるような錯覚に陥った。エルノアス
マーナが去った後の謁見の間には、冷え切ったスープの脂のような、重苦しく不快な沈黙が沈殿していた。剥がれかけた壁紙の隙間から入り込む隙間風が、かつては栄華を誇った王国の末路を嘲笑うように吹き抜ける
視界の端で爆ぜた赤黒い液体が、マーナの銀灰色の毛並みに吸い込まれていく。魔獣の絶命とともに静まり返った森の中で、アルマロの鼓膜には、自分を抱きかかえる男の重厚な心臓の鼓動だけが、暴力的なまでのリ







