説明
いじめが原因で学校へ行けなくなった少年・篠宮悠真は、現実から逃げるように国民的VRMMO《LIFE LINK ONLINE》へログインする。
そこで出会ったのは、誰もが知る神プレイヤー・レイ。 戦うことすら怖がる悠真に、レイは「敵を倒す強さ」ではなく、「誰かの逃げ場所を作る強さ」を教えてくれる。
守護士となった悠真は、仮想世界の中で少しずつ誰かを守れるようになっていく。 しかし、彼が逃げ込んだはずの世界には、ずっと目を逸らしてきた過去が待っていた。
かつて助けを求める声から逃げた少年。 すべてを見ていた神プレイヤー。 そして、医療システムとして生まれたVRMMOに隠された、もう一つの接続。
これは、許されるための物語ではない。 許されないまま、それでも逃げずに生きるための物語。
エピソード1
朝は、勝手に来る。
カーテンを閉めていても、布団を頭までかぶっていても、スマホの画面を裏返していても、朝は遠慮なく部屋の中へ入り込んでくる。
窓の外から、自転車のブレーキ音が聞こえた。
どこかの家の玄関が閉まる音。
誰かの笑い声。
制服のスカートが擦れるような、かすかな音まで聞こえた気がして、篠宮悠真は布団の中で目を閉じた。
行かなければならない場所がある。
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなった。
枕元のスマホが震える。
一度。
二度。
三度。
通知の振動は短いのに、胸の奥では何度も反響した。
悠真は布団から片手だけを出し、スマホをつかんだ。画面を点ける。明るさが目に刺さった。
クラスのグループ通知が、未読のまま積み上がっている。
『今日も休み?』
『先生が心配してたぞ』
『既読くらいつけろよ』
『逃げてばっか』
そこまで見て、悠真は画面を伏せた。
逃げてばっか。
その言葉は、ただの悪口よりもずっと正しかった。正しい言葉は、刃物より深く刺さることがある。
いじめられている。
そう言えば、少しは楽になれるのかもしれない。
学校に行けない理由としては、十分だった。実際、クラスの空気は悠真に優しくなかった。廊下を歩けば視線が刺さり、教室に入れば会話が止まり、机に置かれたプリントはいつも少しだけ乱れていた。
けれど悠真は、その言葉を自分に使えなかった。
僕だけが、被害者みたいな顔をしていいはずがない。
そう思っただけで、胃の奥が冷たくなる。
ドアの向こうで、足音が止まった。
「悠真、起きてる?」
母の声だった。
悠真は返事をしなかった。声を出したら、何かを説明しなければならなくなる気がした。
「今日も……休む?」
沈黙。
ドア越しの母は、しばらく待っていた。怒鳴られる方がまだ楽だったかもしれない。けれど母は、いつも悠真を責めなかった。
「無理しなくていいからね。ご飯、置いておくから。食べられそうだったら食べて」
トレーが床に置かれる小さな音がした。
味噌汁の匂いが、ドアの隙間から少しだけ入ってくる。
足音が遠ざかる。
悠真は布団の中で膝を抱えた。
優しくされるたび、胸の奥で何かが腐っていく気がした。
そんな資格は、自分にはない。
部屋の隅には、ハンガーにかけた制服がある。最後に着た日から、ずっとそこにある。しわにならないよう母が整えてくれたのだろう。ブレザーの肩はきれいで、シャツも白い。
袖を通せば学校へ行ける。
ただそれだけのことが、悠真にはできなかった。
制服を見ると、別のものまで思い出しそうになる。
スマホの画面。
短いメッセージ。
冷たい手すり。
耳の奥に残った、聞き取れない声。
そして、遠ざかる自分の足音。
「……やめろ」
悠真は小さくつぶやいて、スマホを握りしめた。
画面にひびが入るほどの力は出なかった。何かを壊す勇気すら、自分にはない。
通知を消す代わりに、悠真は動画サイトを開いた。
何でもよかった。知らない誰かの声。興味のないニュース。ゲーム実況の切り抜き。音があれば、頭の中の声を少しはごまかせる。
流れていた動画が終わり、広告が差し込まれた。
青い空が映った。
雲の上に、緑の大陸が浮かんでいる。
草原を走る少年のアバター。
翼の生えた騎士。
魔法陣を描く少女。
老人と小さな子どもが、光る橋の上で手をつないでいる。
画面の中で、車椅子に座った少年が目を閉じた。
次の瞬間、仮想空間の中の彼は立ち上がり、白い花畑を走り出す。
ナレーションが、やけに明るく響いた。
『国民的フルダイブVRMMO、LIFE LINK ONLINE』
ロゴが現れる。
『医療現場で生まれた意思疎通支援技術を、すべての人の冒険へ。身体の制限を越えて、誰かと出会い、歩き、触れ合えるもう一つの世界――』
悠真は、画面から目を離せなかった。
最後に、白い文字が青空の中へ浮かび上がる。
『もう一つの人生へ、ログインしよう。』
もう一つの人生。
そんなものがあるなら。
今の自分を置いていけるだろうか。
学校へ行けない自分。
通知を見るだけで震える自分。
母に本当のことを話せない自分。
朝が来るたび、布団の中で息を殺している自分。
全部、ここに残していけるだろうか。
悠真はスマホで検索した。
LIFE LINK ONLINE。
通称、LLO。
公式サイトには、きらびやかな画像と、楽しそうな紹介文が並んでいた。
専用ヘッドセットと神経リンクパッドを使い、プレイヤーは仮想世界《アークガーデン》へログインする。剣士、魔導士、弓使い、職人、商人、支援職。職業を選び、仲間と冒険し、もう一つの人生を歩む。
スターターキットは、半年前に買ってあった。
クラスで流行っていたから、というだけの理由だった。
開けることはなかった。ログインすれば、学校の誰かに会うかもしれない。それが怖かった。
けれど今は、その怖さよりも、ここではないどこかへ行きたい気持ちの方が強かった。
夜になって、家が静かになった。
母が寝室に入る音を聞いてから、悠真はベッドの下に押し込んでいた箱を引っ張り出した。
《LIFE LINK ONLINE STARTER KIT》
箱には、笑顔のアバターたちが描かれている。
悠真はカッターで封を切った。
ヘッドセット。
神経リンクパッド。
簡易説明書。
初回ログインコード。
どれも新品の匂いがした。
説明書に従い、リンクパッドを腕に巻く。ヘッドセットを装着する。視界の端に起動画面が浮かんだ。
『アカウント名を入力してください』
悠真は少し迷ってから、入力した。
ユーマ。
本名を少しだけ変えただけの名前。
それでも、篠宮悠真ではない何かになれる気がした。
『ようこそ、ユーマさん』
『LIFE LINK ONLINEへログインしますか?』
はい。
いいえ。
指先が震える。
現実の自分を知っている人がいない場所なら、息ができるかもしれない。
悠真は「はい」を選んだ。
視界が白く染まった。
足元の感覚が消える。
ベッドの柔らかさも、部屋の空気も、閉じたカーテンの重さも、遠ざかっていく。
次に目を開けた時、悠真は空の下に立っていた。
高い空だった。
現実の部屋の天井とは違う。どこまでも抜けていくような青。白い鳥が群れを作り、噴水の上を横切っていく。石畳は淡く光り、広場の中央には巨大な水晶が浮かんでいた。
周囲には、たくさんのプレイヤーがいた。
「すごい、本当に動ける!」
「チュートリアルどこ?」
「職業、何にする?」
「スクショ撮ろうぜ!」
楽しそうな声。
はしゃぐ足音。
笑い声。
悠真は自分の手を見た。
動く。
握れる。
開ける。
指先に風の感覚がある。
アバターの身体は、現実の自分より少しだけ背筋が伸びている気がした。髪も整っている。目の下のくまもない。
ここなら、違う人間になれるかもしれない。
そう思ったのは、ほんの数秒だった。
誰かの笑い声が、耳の奥で形を変えた。
自分を笑っているように聞こえた。
広場の人混みが、教室に見えた。
知らないプレイヤーの視線が、クラスメイトの目に見えた。
何も言われていないのに、責められている気がした。
胸が苦しくなる。
『初心者チュートリアルを開始しますか?』
目の前に表示されたウィンドウに従い、悠真は広場の端にある訓練場へ移動した。
木剣を握らされる。
目の前に、小さな灰色のモンスターが現れた。丸く、角の生えた、いかにも初心者向けの敵だった。
『攻撃してみましょう』
システム音声は優しい。
周りの初心者たちは楽しそうに木剣を振っている。モンスターは軽い音を立てて消え、経験値の表示が弾ける。
悠真も剣を上げた。
モンスターが近づいてくる。
ただそれだけで、身体が固まった。
踏み出せない。
振れない。
逃げることもできない。
灰色のモンスターが跳ねた。小さな体当たりが悠真の胸に当たる。痛みはほとんどない。けれど悠真は一歩後ずさった。
「え、チュートリアルで固まってる?」
「初心者すぎるだろ」
「大丈夫? ログアウトしたら?」
悪意のない声だったのかもしれない。
けれど悠真には、全部同じに聞こえた。
逃げてばっか。
指先が冷える。
メニューを開く。
ログアウトの文字を探す。
やっぱり無理だった。
場所が変わっても、自分は変われない。
現実から逃げてきただけで、逃げてきた自分ごとここに来てしまった。
ログアウトボタンに指を伸ばした、その時だった。
白銀の光が、悠真の前を横切った。
音は遅れて届いた。
澄んだ金属音。
灰色のモンスターが光の粒になって消える。
悠真の前に、一人のプレイヤーが立っていた。
白銀の軽鎧。
長い外套。
細身の剣。
派手な装飾はないのに、その場の空気だけが一段静かになったように感じた。
周囲がざわつく。
「レイだ」
「え、神プレイヤーの?」
「なんで初心者エリアにいるんだよ」
「本物?」
レイと呼ばれたプレイヤーは、周囲の声を気にする様子もなく、剣を下ろした。
そして悠真を振り返る。
顔立ちは中性的で、表情は穏やかだった。声も静かで、責める響きはなかった。
「大丈夫。ここはまだ、失敗していい場所だから」
その言葉に、悠真はすぐ返事ができなかった。
失敗していい場所。
そんな場所が、この世にあるのだろうか。
「あ……すみません。僕、邪魔でしたよね」
「邪魔なら助けないよ」
レイは当たり前のように言った。
悠真は言葉に詰まった。
怒られたわけでも、笑われたわけでもない。なのに、胸の奥が痛かった。
レイは訓練場の隅を指した。
「少し、人の少ないところへ行こうか」
悠真は頷いた。
二人は噴水の陰にあるベンチへ移動した。
広場の喧騒は少し遠くなった。それだけで、呼吸が楽になる。
レイは隣に座らず、少し距離を取って立った。
その距離感が、ありがたかった。
「人が多い場所、苦手?」
悠真は肩を揺らした。
「……どうして、分かるんですか」
「見ていれば分かるよ。戦うより、見られる方が怖いんじゃない?」
図星だった。
悠真は視線を落とした。
「ゲームなら、大丈夫だと思ったんです」
「うん」
「でも、全然だめで。現実でも、ここでも……僕は」
そこから先は言えなかった。
僕は何だ。
弱い?
情けない?
逃げている?
どの言葉も正しくて、どの言葉も足りなかった。
レイは急かさなかった。
ただ、静かに待っていた。
沈黙が怖くない人なんて、初めてだった。
「立てないなら、まず座ったままでいい」
レイが言った。
「でも、ログアウトする前に、一歩だけ選んで」
「一歩……?」
「進むでも、戻るでも、助けを呼ぶでもいい。自分で選べば、それは君の一歩だよ」
悠真は何も言えなかった。
自分で選ぶ。
それは、悠真がずっと避けてきたことだった。
流されて、黙って、何も決めなかった。
それでも、何も選ばなかったこと自体が、ひとつの選択だったのだと、どこかで分かっていた。
レイが片手を動かす。
目の前にウィンドウが開いた。
『プレイヤー《レイ》からパーティ申請が届いています』
『承認しますか?』
はい。
いいえ。
悠真は画面を見つめた。
人と関われば、また傷つくかもしれない。
迷惑をかけるかもしれない。
逃げたくなるかもしれない。
ログアウトすれば、全部終わる。
ベッドの上に戻って、布団をかぶって、朝が来るのをやり過ごせばいい。
でも、レイは言った。
一歩だけ選んで。
悠真は震える指を伸ばした。
ログアウトではなく、承認を選んだ。
『パーティに参加しました』
小さな効果音が鳴る。
それは勝利の音でも、レベルアップの音でもなかった。
けれど悠真には、閉じた部屋のどこかに、細い隙間ができたように聞こえた。
レイが少しだけ笑った。
「よろしく、ユーマ」
「……よろしく、お願いします」
悠真は頭を下げた。
その瞬間、彼はまだ知らなかった。
この出会いが、逃げ続けてきた過去へ戻るための入口になることを。
最新エピソード
数日後。
悠真はまだ、学校には行けていなかった。
朝になると胸は苦しくなる。
スマホの通知を見る時、指は震える。
制
現実の部屋で、篠宮悠真のまぶたが、ゆっくりと開いた。
最初に見えたのは、低い天井だった。
白いわけでも、光でできているわけでもない。少し黄ばんだ、
「僕が君の人生をもらう」
怜の声が、白い空間に落ちた。
その瞬間、悠真の右手が勝手に動いた。
指が開く。
閉じる。
「知ってるって……どうして」
悠真の声は、自分でも驚くほど小さかった。
風見草の丘には、いつもの風が吹いている。
白い塔は遠くに見えて







