説明
※ 5/25 エピソード17~20を追加、完結。
闇バイト、ダメ、絶対!
最初から「法に触れること」を確信、あるいは期待して足を踏み入れる実行役と、彼女(彼)らを消耗品として操る募集役、指示役の救いようのないショートショート集。
エピソード1
### マネー・ロンダリングのバイパス構築(ソーマ、24歳・元エンジニア)
ワンルームマンションの空気は、常に電子回路が吐き出す熱と、埃の焼けるような匂いで停滞していた。ソーマは三日間、一度もカーテンを開けていない。液晶ディスプレイから放たれる青白い光が、彼の青白い頬を冷徹に照らし出し、無精髭の影を不自然に強調している。二十四歳。かつては将来を嘱望されたエンジニアとして、渋谷のベンチャー企業で「世界の形を変える」ためのコードを書いていた。だが、その世界は彼を、古くなった周辺機器のようにあっさりと廃棄した。経営陣の無策による赤字のしわ寄せは、最も口うるさく、かつ最も有能だった彼に向けられた。
「僕の価値を理解できない連中に、僕の作った仕組みを使わせる必要はない」
ソーマは、キーボードを叩く指先の感覚を研ぎ澄ませた。指先がキーに触れるたび、微かな、しかし確かな抵抗が神経を伝わってくる。それは彼にとって、現実世界との唯一の接点であり、同時に世界を裏側から支配するための触診でもあった。
彼が今取り組んでいるのは、ある「匿名組織」から依頼されたマネー・ロンダリングのためのバイパス構築だ。ダークウェブの掲示板で見つけたその依頼は、報酬の桁が違っていた。犯罪収益、おそらくは薬物か人身売買、あるいは大規模なフィッシング詐欺で得られた汚れた電子の奔流を、数千、数万のダミー口座と仮想通貨のミキシングサービスを複雑に経由させ、追跡不能な「清流」へと変える。
それが違法であることは、コードを書く前から理解していた。むしろ、その禁忌の感触こそが、彼の乾いた自尊心を潤していた。法律という、凡庸な人間たちが自分たちを守るために作った薄っぺらな壁。ソーマにとって、そんなものは論理的な欠陥(バグ)の集積に過ぎない。自分ほどの技術があれば、当局の監視の目をかいくぐるバックドアなど、いくらでも造作できる。彼は、組織から提供された暗号化された資金のリストを眺めながら、薄く笑った。
作業は、静謐な狂気を孕んで進んだ。画面上を流れる文字列は、もはや単なる記号ではなかった。それは血管であり、神経であり、生き物の臓器のように脈動していた。ソーマは、組織の指示通りにシステムを構築しながら、その深層に、自分だけが知る「バイパスのバイパス」を密かに埋め込んでいった。
全資金のわずか三パーセント。それを、自分があらかじめ用意しておいた、幾重にも秘匿された海外のプライベートウォレットに流れるよう細工する。数億、数十億という巨額の資金移動の中で、三パーセントの誤差など、ノイズとして処理されるはずだ。組織は、洗浄された「綺麗な金」が手元に戻れば、その過程で生じた微細な蒸発に気づくことはない。あるいは、気づいたとしても、システム上の不可避なロスとして諦めるだろう。
「これは手数料だ。僕の才能に対する、正当な対価だよ」
彼は独りごちた。声は掠れ、部屋の四隅に溜まった闇に吸い込まれた。
数週間に及ぶ構築作業が終わり、ついに「洗浄」の実行ボタンを押す時が来た。ソーマは、震える指先でEnterキーを叩いた。瞬間、画面上のインジケーターが激しく明滅し、世界中のサーバーを介して、汚れた金が分解され、再構築されていく様子が可視化された。ビットの奔流が、彼が設計した迷宮の中を駆け巡る。
完璧だった。
ログを確認する。資金は予定通り分散され、そして彼が仕掛けた隠しルートを通じて、三パーセントの「手数料」が、彼のウォレットへと静かに流れ込み始めた。画面に表示される数字が、見たこともない桁数で膨れ上がっていく。高揚感が、麻薬のように彼の脳を焼いた。これで、自分を切り捨てた社会を見返してやれる。明日にはこの薄汚いアパートを出て、誰にも見つからない場所で、本当の自由を手に入れるのだ。
だが、その絶頂の瞬間、画面の端で、一つの小さなウィンドウがポップアップした。
『Unexpected Error: Traceback detected』
ソーマの心臓が、不規則な音を立てた。追跡? ありえない。自分の組んだ匿名化プロトコルは完璧なはずだ。彼は必死にキーボードを叩き、エラーの出所を突き止めようとした。しかし、指が動かない。正確には、キーボードが反応を拒否している。
画面が突如として暗転し、中央に一つのアイコンが表示された。それは、古びたチェスの駒、黒い「ナイト」を模したものだった。
「……なんだ、これは」
スピーカーから、ノイズ混じりの電子音が響いた。それは、加工された合成音声だったが、妙に粘り気のある、生物的な響きを帯びていた。
『ソーマ君。二十四歳。元、株式会社ネクスト・コア、リードエンジニア』
全身の血が引いていくのが分かった。なぜ、名前を知っている。この依頼は、徹底した匿名性の下で行われていたはずだ。
『君の書くコードは美しい。特に、あの三パーセントの横取りを隠蔽するためのアルゴリズム。実に独創的だ。あんな発想をする人間は、そうはいない』
「誰だ……お前は」
『我々は、君が「組織」と呼んでいるものの、さらにその奥にいる者たちだ。君のような有能な若者が、自分の才能を過信して毒を飲み込む瞬間を、我々はいつも楽しみにしている』
画面上のナイトのアイコンが、嘲笑うように細かく震えた。
『君は、自分がシステムを支配しているつもりだっただろう? だが、君が踏み込んだのは、我々が用意した「遊び場」に過ぎない。君が作ったバックドアは、我々が君を捕獲するための、入り口だったんだよ』
ソーマは椅子を蹴り飛ばして立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。視界が歪む。ディスプレイの光が、網膜を刺すように鋭くなる。
『さて、罰の時間だ。窃盗罪は重い。だが、我々は警察ではない。もっと効率的な方法で、君を裁くことにした』
突然、デスクの上に置いていたスマートフォンが震え出した。画面には、ソーマの銀行口座から全額が引き出されたという通知が、滝のように流れ込んでいた。
「待て、やめろ!」
彼はスマートフォンを掴もうとしたが、画面は一瞬でブラックアウトし、二度と点灯しなくなった。次に、部屋の隅にあるノートパソコンが勝手に起動し、彼のSNSアカウントが次々と削除されていく様子を映し出した。投稿、写真、友人とのメッセージ、積み上げてきた過去の断片が、デジタルの塵となって消えていく。
『君の資産、君の経歴、君の人間関係。すべてを消去した』
音声は淡々と続いた。
『だが、それだけでは足りない。君という「存在」そのものを、この世界から抹消しなければならない』
ディスプレイに、ソーマの戸籍謄本の画像が表示された。そこには彼の両親の名前、出生地、そして彼の名前が記されていた。その画像の上を、赤い斜線が走り、文字が一つずつ、ノイズに変わっていく。
「何をしている……! やめろ、頼む!」
彼は画面に向かって叫んだが、返ってくるのは冷たい電子音だけだった。
『君のマイナンバー、年金記録、健康保険証のデータ、運転免許証の登録情報。すべて、サーバーから消去、あるいは「存在しない番号」に書き換えた。今、この瞬間、日本という国の公的な記録の中に、ソーマという人間は存在しなくなった』
ソーマは狂ったように部屋を飛び出し、廊下にある共用電話に手をかけた。誰かに、警察に、あるいはかつての知人に連絡しなければならない。だが、受話器からは、聞いたこともないような不気味な信号音しか聞こえてこない。
彼はコンビニへと走った。レジに財布を叩きつけ、飲み物を買おうとした。だが、彼のクレジットカードは「無効なカード」として弾かれた。予備のキャッシュカードをATMに差し込んでも、「該当する口座はありません」という冷酷なメッセージが返ってくるだけだった。
「すいません、僕の……僕の名前はソーマです! 確認してください!」
店員に詰め寄るが、若く無機質な顔をした店員は、怪訝そうに彼を見つめるだけだった。
「お客様、お引き取りください。警察を呼びますよ」
警察。そうだ、警察なら助けてくれる。彼は交番へと駆け込んだ。
「僕のデータが消されたんです! 誰かにハッキングされて、戸籍も、銀行口座も……!」
対応した初老の警官は、困惑した顔でソーマの顔と、手元の端末を交互に見た。
「君、落ち着きなさい。名前は?」
「ソーマです。アサクラ・ソーマ」
警官が名前を打ち込む。数秒の沈黙の後、警官は首を振った。
「該当する人物はいないな。住所は?」
住所を告げる。警官が再び検索する。
「その住所は、空き地になっているはずだが。君、身分を証明できるものは持っているか?」
ソーマは震える手で財布から運転免許証を取り出した。だが、そこにあったはずの彼の顔写真は、真っ白な空白に変わっていた。名前も住所も、何もかもが消え、ただのプラスチックの破片がそこにあるだけだった。
「これは……」
警官の目が、疑念から警戒へと変わった。
「君、偽造免許証か何かか? 署まで来てもらおうか」
ソーマは警官の手を振り払い、夜の街へと逃げ出した。
街灯の光が、彼を冷たく照らしていた。行き交う人々は、皆スマートフォンを見つめ、デジタルの海に浸かっている。その海の中に、もはや彼の居場所はなかった。彼は物理的にはそこに存在し、呼吸をし、心臓を動かしている。だが、彼を社会に繋ぎ止めていた無数の見えない糸は、すべて断ち切られていた。
彼は、自分がかつて住んでいたマンションに戻ろうとした。だが、エントランスのオートロックは、彼の暗証番号を受け付けなかった。管理会社に電話しようにも、彼のスマートフォンはただの文鎮と化している。
彼は、道端に座り込んだ。
冷たい風が、彼の頬を撫でていく。人々が自分の横を通り過ぎていくが、誰一人として彼と目を合わせようとはしない。彼は、透明な壁に囲まれた檻の中にいるようだった。
ふと、視界の端で、街頭の大型ビジョンが切り替わった。
そこには、彼がさっきまで見ていた、あの黒い「ナイト」の駒が映し出されていた。そして、その下に、短い一文が表示された。
『Welcome to the Digital Dungeon.(デジタルな監獄へようこそ)』
その文字は、数秒で消え、何事もなかったかのように最新のスマートフォンの広告に切り替わった。
ソーマは、自分の手を見た。指先はまだ、キーボードを叩く感覚を覚えている。だが、その指先が触れられるものは、もうこの世界のどこにもない。彼は、自分が作り上げた「追跡不能なバイパス」そのものになってしまったのだ。
彼は、声を上げようとした。だが、喉が拒絶した。自分が誰であるかを証明する言葉を、彼はもう持っていなかった。
暗闇の中で、一台の黒いセダンが彼の前で静かに止まった。後部座席の窓がゆっくりと降り、中から冷たい視線が彼を射抜いた。それは、あの合成音声の主のものだろうか。
「君の才能は、まだ使い道がある。物理的な身体だけは、我々が管理してあげよう」
ドアが開いた。そこは、光の一切届かない、真の暗黒だった。
ソーマは、抗う気力を失っていた。彼は、自分からその暗闇の中へと足を踏み入れた。自分が飲み込んだ毒が、全身に回りきっていくのを感じながら。
都会の喧騒は何事もなかったかのように続き、デジタルの波は絶え間なく世界を浸食し続けている。その波間に、一人のエンジニアが消えたことなど、誰一人として気づくことはなかった。
夜空には、冷たい月が浮かんでいた。その光は、もはや存在しない人間の影を、アスファルトの上に淡く描き出していた。
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