説明
先祖代々の土地(耕作放棄地)を引き継いだ中年男性ハヤシの理想的奮闘物語。
エピソード1
眼鏡のレンズに映る蛍光灯の光が、ハヤシの疲れ切った瞳を刺した。モニターには相変わらず赤いエラーメッセージが踊っている。デバッグを始めてもう十二時間が経過していた。指先は腱鞘炎の痛みで痺れ、首筋には慢性的な凝りが石のように固まっている。
「また徹夜か」
呟いた声は、オープンオフィスの喧騒に掻き消された。隣のデスクでは二十代の若手エンジニアが軽やかにキーボードを叩いている。その指の動きを見ていると、かつての自分を思い出して胸が締め付けられた。あの頃は自分も、コードを書くことに純粋な喜びを感じていた。バグを潰すことが快感だった。しかし今は違う。すべてが作業に見え、すべてが重荷に感じられる。
携帯電話が震えた。画面には「父」という文字が表示されている。ハヤシは溜息をついてから通話ボタンを押した。
「もしもし」
「コウイチか。忙しいところ悪いが、ちょっと話がある」
父の声は相変わらず硬く、感情を表に出さない。七十三歳になった今でも、元教師らしい威厳を保っている。
「仕事中なんですが」
「土曜の夜に仕事とは、相変わらずだな。まあいい、手短に済ませる。例の土地の件だが」
ハヤシの手が止まった。「例の土地」とは、祖父の代から受け継がれてきた農地のことだ。子供の頃は夏休みに草刈りを手伝わされた記憶がある。しかし、もう二十年以上足を向けていない。
「あの土地、お前に譲る」
「は?」
「俺ももう年だ。管理しきれん。お前が継いでくれ」
ハヤシは眼鏡を外し、疲れた目を擦った。農地を相続するなど、考えたこともなかった。
「父さん、僕は農業なんて何も知りませんよ。それに仕事もあるし」
「だからといって放置するわけにもいかん。税金もかかる。売るにしても、あの状態じゃ買い手もつかん」
「あの状態って」
「見に来ればわかる。明日、時間を作れ」
そして父は一方的に電話を切った。ハヤシは携帯電話を見つめながら、深い溜息をついた。モニターのエラーメッセージが、まるで彼を嘲笑うように点滅している。
翌日の午後、ハヤシは久しぶりに実家の最寄り駅に降り立った。駅前の商店街は閑散としており、シャッターを下ろした店舗が目立つ。子供の頃に通った文房具店も、今はコインランドリーに変わっていた。
実家までの道のりを歩きながら、ハヤシは変わり果てた風景に複雑な思いを抱いた。新しく建った住宅もあるが、空き家も増えている。田んぼだった場所にはアパートが建ち、畑だった場所は駐車場になっていた。
「ただいま」
父は玄関でハヤシを迎えた。背中は以前より丸くなり、髪は完全に白くなっている。しかし、その眼差しは相変わらず鋭かった。
「車で行こう」
二人は無言で軽トラックに乗り込んだ。エアコンの効きが悪く、車内は蒸し暑い。窓を開けると、田園地帯特有の青臭い匂いが流れ込んできた。
十分ほど走ったところで、父は車を止めた。
「着いた」
ハヤシが車から降りると、目の前に広がっていたのは想像を絶する光景だった。かつては美しい田んぼだったであろう土地は、今や完全に荒れ果てていた。腰の高さまで伸びたセイタカアワダチソウが風に揺れ、その間には不法投棄されたテレビや冷蔵庫が無造作に放置されている。排水路は土砂で埋まり、用水路には濁った水が淀んでいた。
「これが……僕の土地?」
「三反歩ある。坪に直すと約三千坪だ」
ハヤシは呆然と立ち尽くした。容赦なく照りつける太陽の下で、荒れ地は絶望的な現実として彼の前に横たわっていた。雑草の隙間からは、得体の知れない虫が這い出してくる。空き缶やペットボトルが散乱し、一角には野良猫が作ったと思われる糞の山があった。
「年間の固定資産税が二十万。管理費もかかる。売るとしても、この状態じゃ二束三文だ」
父の言葉が頭上で響いたが、ハヤシの意識は目の前の惨状に釘付けになっていた。これは土地というより、巨大な産業廃棄物処理場に見えた。
「……なるほど」
ハヤシは眼鏡を指で押し上げた。そして、皮肉な笑みを浮かべながら呟いた。
「これはバグまみれのレガシーシステムより性質(タチ)が悪いな」
「何?」
「いえ、独り言です」
ハヤシはポケットからスマートフォンを取り出し、荒れ地の写真を何枚か撮った。IT業界で培った習慣で、まずは現状を正確に把握することから始めたかった。ファインダー越しに見ると、この土地の問題点がより明確に見えてくる。
排水の問題、雑草の除去、不法投棄物の処理、土壌の改良——課題は山積みだった。しかし、不思議なことに、ハヤシの中で何かが動き始めていた。それは久しく感じることのなかった感情だった。
「父さん、この土地を元に戻すのに、どれくらいかかると思います?」
「無理だろう。業者に頼めば数百万はかかる。個人でやるにしても、何年かかるか」
ハヤシは雑草の海を見渡した。セイタカアワダチソウの向こうに、かすかに見える山並みが美しかった。風が吹くと、雑草がざわめく音が聞こえる。その音は、コンクリートに囲まれたオフィスでは決して聞くことのできない、生命の音だった。
「攻略難易度:極、か」
「何を言ってるんだ?」
ハヤシは振り返ると、父に向かって言った。
「やってみます」
「何を?」
「この土地を、元に戻してみます」
父は眉をひそめた。
「正気か? お前に農業の経験があるとは思えんが」
「ありません。でも、やってみたいんです」
ハヤシ自身、その言葉に驚いていた。しかし、口から出た瞬間、それが本心だということがわかった。都会の喧騒に疲れていた彼にとって、この荒れ地は奇妙な魅力を放っていた。それは破綻したシステムを立て直す時の、あの興奮に似ていた。
「クソゲーでも、攻略する価値があるものはある」
父は困惑した表情を浮かべたが、やがて小さく頷いた。
「まあ、お前の人生だ。好きにしろ」
帰りの軽トラックの中で、ハヤシは窓の外を流れる田園風景を眺めていた。夕日が西の空を染め、田んぼの水面がオレンジ色に輝いている。その美しさは、モニターの中の世界とは全く異なる質感を持っていた。
「でも、どこから手をつけようか」
呟いた言葉は、挑戦への第一歩だった。
最新エピソード
三年後の春、ハヤシはタブレットを片手に農園の入り口で来訪者を迎えていた。かつての荒れ地は見る影もなく、「スマートファーム・ハヤシ」という看板の下には、色とりどりの野菜が整然と並んでいる。
六月の梅雨の合間、ハヤシは軽トラックの荷台で昼食を取っていた。コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、スマートフォンでSNSを眺める。農作業で日焼けした腕は、かつてのオフィスワーカーの面影を完
月曜日の朝、ハヤシは会社の自席でノートパソコンを開いていた。しかし、画面に映っているのはプログラムのコードではなく、農業に関するウェブサイトだった。「土壌改良 方法」「雑草除去 効率的」「排水
眼鏡のレンズに映る蛍光灯の光が、ハヤシの疲れ切った瞳を刺した。モニターには相変わらず赤いエラーメッセージが踊っている。デバッグを始めてもう十二時間が経過していた。指先は腱鞘炎の痛みで痺れ、首筋







