説明
暴風雪に封鎖されたロ厳荘園。記憶の欠落を抱える若き管家・林渡は、自身の正体に疑念を持ち始める。過去の事件が再演され、犠牲者が続出する中、時間の止まった鐘楼、空白の裁き、そして「罪人の名前を書き記す式」を前に、林渡は無垢な犠牲者となるか、最後の守夜人となるか、運命の選択を迫られていく。雪と記憶、罪と名前、誰もが迷宮で正体を失い、世界そのものが鏡像の謎へと沈み込むゴシック群像劇です。
エピソード1
第一章 雪吻玻璃的第七下心跳
風が裏山を這い上るたび、窓硝子が微かに呻いた。林渡は片手で額を押さえ、外の暗さに顔を近づけた。雪粒が斜めに流れ、ガラスの向こう側で瞬く灯火を削っていく。一、二、三――胸の奥で音が跳ねる。四、五。六。七。雪が溶ける速さと鼓点がぴたりと重なった瞬間、塔の頂が闇に呑まれた。
灯りが消えた。
視界に残った残像は、まだ色を失っていない円い光だった。林渡は瞬きを我慢し、消えた灯の位置を睨み続けた。闇はすぐに形を取り戻し、石塔の肩をざらつく雪に曝け出す。風が途切れた隙に、遠くで鎖が鳴る音がした。誰かが物干し台を引きずっているのか、それとも――。
背後の階段がきしんだ。
林渡は振り返らなかった。新しい管家の本分は、見てはならぬものを見ないことだ。しかし硝子に映った人影は、逃げる足取りを止め、俯いたまま何かを握りしめている。銀の小さな蓋が、月の返り光で瞬いた。懐中時計だ。前任管家の遺品のはずだ。
「阿沅さん」
低く呼びかけると、少女の肩が跳ねた。林渡はゆっくりと体を回し、手の平を見せた。刀傷の残る指先が、まだ硝子の冷たさを帯びている。
「深夜の回覧は、主人の許可が必要だ」
阿沅は答えず、階段の陰に退いた。林渡は一歩踏み出し、足元の板が抜ける音を立てないよう体重を移す。少女の拳が小刻みに震え、金属の蓋が微かに鳴った。音を殺すつもりなのに、逆に静寂を削っている。
「見せてもらえますか」
林渡は手を差し出した。阿沅の睫が上がり、すぐに伏せられる。拒絶の意志だ。だが林渡は動かない。新米管家にできる脅しは、ただの沈黙だけだ。風が再び強まり、窓枠が低く唸る。隙間から這い込んだ雪片が、床板で水音を立てて溶けた。
阿沅は観念したように指を開いた。銀の時計は古い。裏蓋に刻まれた文字が、薄れながらも拒絶の鋭さを保っている。
第七條守夜人戒律――
時間の所有者は、夜の所有者なり。
林渡は息を呑んだ。前任管家が遺したという言葉は、赫斯塔が口にしたことがない。山荘に来て三日、まだ時計の回収を受けていなかったが、これでは理由が見えた。戒律は七つある。七番目が「時間の所有」だとすれば、残り六つは――。
「返してください」
阿沅の声は掠れていた。林渡は蓋を閉じ、慎重に少女の掌に戻した。指が触れた瞬間、彼女の皮膚は氷より冷たかった。塔の灯が消えた意味を、林渡はようやく実感した。夜は、主人のものになる。
廊下の端で鐘が一つ鳴った。午前零時――いや、もう正確な時刻はわからない。林渡は懐中時計を見ずに済むよう、袖の中で拳を作った。踵を返し、階段を下りかけたとき、玄関の扉が開く音がした。重い雪が肩に落ちる気配と、静かな足取り。訪問者は一人だ。
顧雪征だった。
黒い外套の襟に雪が溶け、細い眉に水滴を溜めている。視線はすぐに林渡を見据え、次に阿沅を見て、最後に階段の陰に置かれた懐中時計へ滑った。何も言わない。問いかけは、ただの沈黙だ。林渡は背筋を伸ばし、一歩下がって通りを譲った。
「1893年の記録、持ち出したのはあなたか」
唐突に、顧雪征は口を開いた。声は低く、氷の下を流れる水のようだ。林渡は瞬きを殺し、返事に詰まった。記録? 前任管家が遺した書類のことか。見たことはない。が、言葉が喉の奥で凍りつく。顧雪征の瞳は、記憶の裏側を読もうとする光を宿している。
「……私は、まだ」
林渡は息を吸い、言い淀んだ。山荘に来る前の自分の顔が、朧げに浮かぶ。確かに、ここへ来るための推薦状は用意した。だが、推薦者の名前が思い出せない。まるで、誰かが文字を削ぎ取ったようだ。
「記憶に空白があるなら、空白を埋めるまで帰さない」
顧雪征は告げると、外套の雪を払い、奥へ進んだ。足音は消えない。廊下の壁が音を跳ね返し、遠くで赫斯塔の部屋の扉が開く気配がした。林渡は額に汗を感じた。寒さのせいではない。塔の灯が消えたとき、自分の胸の中の何かも消えたのかもしれない。
阿沅が小さく咳をした。林渡は我に返り、少女を見下ろした。時計は握りしめられたままだ。戒律の文字が、もう一度読みたいと思った瞬間、廊下の奥から鐘が二度鳴った。今度は、赫斯塔の部屋からだ。
「全員、時計を持って大広間へ」
赫斯塔の声は、壁を通しても粘り気を失わない。林渡は頷き、懐中時計を探った。だが、持っていない。昨日、部屋に置き忘れたのだ。阿沅は時計を隠したまま、動かない。林渡は軽く手を振り、先に立って歩き出した。背中で、少女の息が詰まる音がした。
大広間には、すでに顧雪征がいた。テーブルの上に、十個の懐中時計が並べられている。赫スタは黒絹の手袋をはめ、一つ一つを丁寧に取り上げ、蓋を開け、秒針を確かめ、閉じてから箱に納めた。動作に無駄がない。まるで、時間そのものを手なずける儀式だ。
林渡は扉の前で立ち尽くした。赫斯塔は顔を上げず、顧雪征も沈黙したままだ。阿沅が後ろから滑り込み、列の端に並ぶ。時計を持たない林渡は、空の手をどこに置けばいいかわからない。ポケットに突っ込むと、指が縫い目に引っかかる。赫斯塔が最後の一個を箱に納め、蓋を閉じた。金属の音が、広間の天井で長く尾を引く。
「夜の所有者は、時間の所有者なり」
赫斯塔は宣言し、箱を抱えて奥の扉へ向かった。顧雪征が続き、阿沅が俯いたまま従う。林渡は一人、広間に取り残された。硝子越しの雪が、再び七粒降って、音もなく溶けていった。胸の鼓動は、もう数えられない。
最新エピソード
――蝋燭の火が、一度、大きく揺れた。
林渡は指先で燭芯を押さえ、火を鎮めた。燭台の影が壁を這い、古い書棚の背表紙を黒く染める。彼は息を殺し、懐中時計の蓋を開いた。午前二時。館の眠りが
――鏡の中に、誰かがいた。
長すぎる袖の先を覗き込みながら、林渡は息を殺した。燭台の火が一瞬、青白く震え、鏡面を霜で曇らせた。映像は歪み、彼の顔を別人の面へとすり替えた。赫スタの礼服――
――蝋燭の火が、一度、大きく揺れた。
階段の下で、古びた帳簿が開かれる。赫スタの指が、新しい頁をめくる。紙は乾きすぎて、爪先で触れただけで微かに粉を散らす。
<――館の時計が、歯を欠いた。
林渡は、封筒の角を噛み砕いた。薄紙の奥に小さな硬塊が転がる感触が、舌の裏側でざらりと鳴った。乳歯だった。彼は喉を反らし、唾と一緒に丸めて飲み込んだ。食道







