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地下鉄の黙示録

地下鉄の黙示録

更新日時: 2026-01-19 02:07:56
By: sanca
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説明

世界は、核の炎によって終わった。 生き残った人々は、地上を捨て、地下鉄の闇へと逃げ込んだ。


崩れたトンネル、尽きかける資源、 そして――人でなくなった“何か”が徘徊する暗闇。


藤堂怜司は、ただ生き延びるために歩き続けていた。 信頼を疑い、正しさを選ぶたびに何かを切り捨てながら。


そんな地下の旅路で、彼は一人の女と出会う。 彩音―― 静かで、か弱く見えて、 しかし闇の中でだけ異様な輝きを放つ存在。


彼女の瞳は、暗闇を見通す。 彼女の体は、少しずつ人間の理から外れていく。


それでも、彼女の心は―― 人として、誰かを想うことをやめなかった。


やがて怜司は、選択を迫られる。 生き残るために、人であることを捨てるのか。 それとも、人であるがゆえに滅びるのか。


これは、 滅びた世界で「希望」を選び続けた一人の男と、 永遠に近づいていく一人の女の物語。


地下鉄の闇から始まり、 やがて未来へと語り継がれていく―― 終わりではなく、始まりの黙示録。


エピソード1

第一章

あの日の朝も、俺は人間が嫌いだった。

満員の大江戸線。押し合いへし合い、誰もが無表情で、誰もが自分のことしか考えていない。汗の匂い、香水の匂い、加齢臭。全部が混ざり合って、吐き気がするような空気を作り上げている。

藤堂怜司、三十二歳。大手IT企業のシステムエンジニア。

毎朝七時二十三分の電車に乗り、新宿で乗り換え、九時前にはオフィスに着く。その繰り返し。何年も、何年も。

妻の顔を思い出そうとした。今朝、何か言っていた気がする。娘の幼稚園がどうとか。聞いていなかった。いつものことだ。

「次は練馬、練馬です」

アナウンスが流れる。まだ先は長い。

俺はイヤホンを耳に押し込み、目を閉じた。周りの人間を意識から締め出す。この車両に何十人いるか知らないが、俺にとっては背景でしかない。

そう思っていた。

あと三十秒後に世界が終わるとも知らずに。



最初に感じたのは、音だった。

いや、音と呼んでいいのかわからない。地の底から何かが唸るような、腹の奥に響く重低音。それが一瞬で轟音に変わった。

次に来たのは、揺れ。

東日本大震災の時、俺は東京にいた。あの日のことは覚えている。オフィスのデスクにしがみついて、長い横揺れが収まるのを待った。

これは、あれより酷い。

比べ物にならない。縦に、横に、斜めに、あらゆる方向から殴りつけられるような揺れ。電車が横倒しになるかと思った。天井に叩きつけられ、床に叩きつけられ、誰かの肘が顔に当たり、誰かの悲鳴が耳元で響いた。

地下深くにいるのに、空気そのものが震えていた。

まるで地上で何か、途方もなく巨大な何かが爆発したような——

電気が消えた。

完全な暗闇だった。

「きゃあああああ!」

「何だ!? 何が起きた!?」

「地震か!?」

悲鳴と怒号が渦巻く。誰かが俺の足を踏み、誰かが俺の背中にしがみついてきた。暗闇の中で、人間たちがパニックを起こしている。

俺は冷静だった。

いや、冷静というより、現実感がなかった。

(何が起きた?)

地震にしては、最初の音がおかしい。あの重低音。地鳴りとは違う、何か人工的な——

誰かがスマートフォンの画面を点けた。その青白い光が、折り重なった乗客たちの顔を照らし出す。

「電波ない!」

「俺もだ!」

「基地局がやられたのか?」

口々に叫ぶ声。でも、一人の男がスマホを持ったまま固まっていた。画面を凝視している。

「おい……これ……」

震える声だった。

俺は人の波を押しのけて、その画面を覗き込んだ。

緊急速報。電波が途切れる直前に届いていたらしい。

『緊急速報:東京都心部に核攻撃の可能性。地下への避難を——』

文章は途中で切れていた。

核。

その一文字が、脳内で反響した。

周囲がざわめく。誰かが「嘘だろ」と呟き、誰かが泣き崩れた。

俺は、不思議と冷静だった。

核攻撃。東京に。

俺は今、地下にいる。地下鉄の中に。だから生きている。

大江戸線は都営地下鉄の中で一番深い。場所によっては地下四十メートル以上。防空壕代わりになると、どこかで読んだ記憶がある。

じゃあ、地上にいた人間は?

妻は?

娘は?

今朝、何か言っていた。娘の幼稚園がどうとか。今日は何かの行事で、早めに家を出ると——

妻と娘のことが、頭をよぎった。

地上にいたはずだ。今日は娘の幼稚園で何かの行事があると言っていた。

死んだだろうな、と思った。

不思議と、胸は痛まなかった。

悲しくないわけじゃない。たぶん。ただ、それよりも先に「じゃあ俺はどうする」という思考が来る。

薄情だと思う。人としてどうかと思う。

でも、それが俺だ。昔からそうだった。

祖父が死んだ時も、葬式で泣けなかった。周りが泣いているのを見て、「ああ、ここは泣く場面なのか」と思っただけだ。

感情がないわけじゃない。ただ、優先順位が違う。

今、俺がすべきことは悲しむことじゃない。

生き残ることだ。



どれくらい時間が経ったのかわからない。

非常灯が点いた。薄暗い赤色の光が、車内を照らし出す。

地獄絵図だった。

折り重なる人間。血を流している者、動かない者、泣き叫ぶ者。さっきまで無表情で、互いを背景としか見ていなかった乗客たちが、今は獣のように喚いている。

「出して! 出してくれ!」

誰かがドアを叩いている。

「外に出たら死ぬぞ!」

別の誰かが叫ぶ。

「嘘だ! 核なんて嘘に決まってる!」

「放射能が——」

「政府の陰謀だ! 俺たちを閉じ込めておくための——」

怒号が飛び交う。誰も彼もが自分の信じたいことだけを叫んでいる。

俺は動かなかった。

動けなかったんじゃない。動く必要を感じなかった。

地上はもう駄目だ。それだけは確信があった。あの衝撃、あの揺れ。核かどうかは別として、地上で何か途方もないことが起きたのは間違いない。

なら、俺がすべきことは一つ。

ここで生き残ること。

俺は周囲を見回した。パニックを起こしている人間たち。怪我をしている人間たち。泣いている人間たち。

——こいつらの何割が、一週間後に生きているだろうか。

冷たい思考だった。自分でもわかっている。

数字で考える。確率で考える。生存率。リソース。最適解。

それが俺の生き方だ。ずっとそうしてきた。

仕事でも、家庭でも、人間関係でも。

感情を排して、論理だけで動く。

それが効率的だと、俺は知っている。



電車のドアが、外からこじ開けられた。

駅員だった。懐中電灯を持った若い男が、汗だくの顔で車内を覗き込む。

「皆さん、落ち着いてください! ここは練馬駅です! ホームに誘導します!」

乗客たちが雪崩を打って出口に向かう。押し合い、転び、また押し合う。

俺は最後の方で車両を出た。急ぐ必要はない。どうせ外には出られないのだ。

練馬駅のホーム。

非常灯だけが灯る薄暗い空間に、何百人もの人間がひしめいていた。電車から降りてきた乗客、たまたまホームにいた乗客、改札から逃げ込んできたらしい人々。

空気が悪い。換気が止まっているのか、人いきれと埃っぽさで息が詰まる。

どこかで子供が泣いている。どこかで女が叫んでいる。どこかで男たちが怒鳴り合っている。

カオスだ。

俺はホームの端に移動した。壁を背にできる場所。人の流れから外れた場所。

そこで周囲を観察し始めた。

駅員は三人。若い男が二人と、年配の女が一人。全員がパニック状態の乗客対応に追われている。

非常口は——見える範囲で二箇所。どちらも人が殺到している。

改札方面から、新たに人が流れ込んでくる。地上から逃げてきたらしい。

その中に、異様な姿の人間がいた。

服がボロボロで、肌が赤く焼けただれている。髪が半分なくなっている。

「熱い……熱い……」

うわごとのように呟きながら、ふらふらと歩いている。

被曝だ。

あるいは、爆発の熱線を直接浴びたのか。

周囲の人間が悲鳴を上げて道を空ける。

その男は数歩よろめいて——そのままホームに崩れ落ちた。

誰も近づかない。

当然だ。放射能がうつると思っているのだろう。正確には「うつる」わけではないが、高濃度に被曝した人間に近づくのは確かに危険だ。

俺は男から目を逸らした。

助けようとは思わなかった。助けても意味がない。あの状態では長くは持たない。

それより——

「あの」

声をかけられた。

振り向くと、女が立っていた。

二十代後半か。地味なオフィスカジュアル。

見覚えが——いや、見覚えがあるというのは正確じゃない。毎朝、同じ車両に乗っていた女だ。いつも同じドア付近に立っていて、いつもスマホで何かを読んでいた。顔を覚えているわけじゃない。ただ、存在として認識していた。毎日同じ場所にいる風景の一部として。

「あなた、いつも同じ電車ですよね」

俺は何も答えなかった。答える必要を感じなかった。

だが、女は続けた。

「私、小野寺といいます。小野寺彩音」

自己紹介。この状況で。

「……何の用だ」

俺の声は、平坦だった。

「一人より、二人の方がいいかと思って」

「は?」

「生き残るなら、ですけど」

彩音は薄く笑った。

場違いなほど落ち着いていた。周囲が阿鼻叫喚の中で、この女だけが妙に冷静だ。

「あなた、さっきからずっと周りを観察してましたよね。パニックにもならず、冷静に状況を分析してた。非常口の位置、駅員の数、人の流れ。全部見てたでしょう」

「……だから何だ」

「私、そういう人についていきたいなって」

図々しい女だ、と思った。

初対面で、この非常事態に、いきなり「ついていきたい」だと?

「断る。一人の方が効率がいい」

「そうですか?」

彩音は首を傾げた。

「私、ソロキャンプが趣味なんです」

「……何の関係が」

「火の起こし方、水の濾過、食べられる野草の見分け方。一通りできますよ」

俺は鼻で笑った。

「地下に野草は生えてないぞ」

「……え」

「水の濾過? 放射性物質まみれの水を濾過した経験でもあるのか。煮沸すれば何とかなるとでも思ってる?」

彩音の顔が強張った。

「それは……」

「ソロキャンプのスキルなんて、今の状況じゃ何の役にも立たない。山の中でテント張るのと、核攻撃後の地下で生き延びるのは全く別の話だ」

冷たく言い放った。

余裕がなかった、と言えばそうかもしれない。

だが、甘い期待を持たれても困る。この状況がどれほど深刻か、わかっていないなら教えてやる必要がある。

彩音は黙った。

俺は踵を返そうとした。やはり一人の方がいい。こんな——

「じゃあ、何が役に立つんですか」

彩音の声が、俺の背中を止めた。

振り向くと、彩音はまっすぐ俺を見ていた。さっきまでの営業スマイルは消えている。

「教えてください。何が必要なのか。私、覚えますから」

「……覚える?」

「私、バカですけど、言われたことはやります。邪魔にはなりません」

俺は彩音を見た。

目が据わっていた。媚びでも、懇願でもない。

生き残るという意思だけがそこにあった。

「……体力は」

「あります。去年、富士山に日帰りで登りました」

「応急処置は」

「救命講習受けてます」

「見張りを任せたら、寝ずにできるか」

「やります」

即答だった。

俺は少し考えた。

スキルは使えない。だが、この女には別の価値があるかもしれない。

従順さ。覚悟。そして——折れなさそうな芯。

「一つ聞く」

「はい」

「さっき、被曝した男がホームに倒れた。見ていたか」

「見てました」

「どう思った」

彩音は少し黙った。

「……可哀想だと思いました」

「それだけか」

「それだけです。助けようとは思いませんでした。助けても助からないから」

俺は、少しだけ彩音を見直した。

「いいだろう。ついてこい」

「ありがとうございます」

彩音は笑った。

「よろしくお願いします、えっと……」

「藤堂」

「藤堂さん。よろしくお願いします」

これが、小野寺彩音との出会いだった。

この女が、俺の人生を変えることになるとは、この時は思いもしなかった。

地上では世界が終わり、地下では何かが始まろうとしていた。

それが後に「黙示録」と呼ばれることになる物語の、最初の一ページだった。


第二章

練馬駅での最初の夜は、地獄だった。

いや、地獄というのは正確じゃない。地獄には秩序がある。罪人を裁く閻魔がいて、責め苦を与える鬼がいる。

ここには何もなかった。

ただ、数百人の人間が、薄暗いホームにひしめいているだけ。

泣き叫ぶ者。呆然と座り込む者。怒鳴り散らす者。祈りを捧げる者。

そして、死んでいく者。

改札方面から逃げ込んできた人間の中に、被曝者が何人もいた。

肌が焼けただれた者。血を吐く者。髪が抜け落ちた者。

彼らは一人、また一人と倒れていった。

誰も助けなかった。助けられなかった。

医者らしき男が一人いたが、彼は首を振るだけだった。

「放射線障害だ。急性被曝の症状が出ている。こうなったら、もう……」

その先は言わなかった。言う必要もなかった。

死体は、ホームの端にまとめられた。

毛布をかけて、見えないようにして。

でも、匂いは隠せなかった。



俺と彩音は、ホームの最も奥——線路側の壁際に陣取っていた。

人の流れから外れた場所。背後を気にしなくていい場所。

彩音は俺の隣に座り、膝を抱えていた。

「……眠れないですね」

「寝る必要はない。今は情報収集が優先だ」

「情報って、何を」

「この駅の構造。人の数。使えそうな物資。危険な人間。全部だ」

彩音は少し黙って、それから頷いた。

「私も手伝います」

「いい。お前は休んでろ。交代で見張りをする。今夜は俺が先だ」

「……ありがとうございます」

「礼を言うな。合理的な判断だ。お前が倒れたら、俺の負担が増える」

彩音は小さく笑った。

「藤堂さんって、そういう言い方しかできないんですね」

「どういう意味だ」

「優しいのに、優しく言えないっていうか」

「優しくない。効率の話をしている」

「はいはい」

適当に流された。

苛立つかと思ったが、不思議とそうでもなかった。



二日目。

状況は悪化していた。

駅員たちが、ようやく状況を把握し始めた。

「皆さん、落ち着いて聞いてください」

若い駅員が、声を張り上げる。

「現在、地上の状況は不明です。通信も途絶えています。救援が来るまで、この駅で待機していただくことになります」

「救援はいつ来るんだ!」

誰かが怒鳴った。

「それは……現時点では不明です」

「不明じゃ困るんだよ!」

「政府は何やってんだ!」

「自衛隊を呼べ!」

怒号が飛び交う。駅員は明らかに動揺していた。

俺は壁際で、それを眺めていた。

救援が来る。

そう信じている人間がまだいる。

来るわけがない。

核攻撃が事実なら、東京の行政機能は壊滅しているはずだ。救援どころか、誰が生きているかもわからない。

彩音が小声で聞いてきた。

「……救援、来ると思いますか」

「来ない」

即答した。

彩音の顔が曇る。

「でも……自衛隊とか、消防とか……」

「地上が壊滅してるなら、救援組織も壊滅してる。仮に生き残っていても、放射能汚染された東京に突入できる装備があるかどうか。期待しない方がいい」

「じゃあ、私たちは……」

「自分で生き残る。それだけだ」

彩音は黙った。

でも、その目に絶望はなかった。

覚悟があった。



三日目。

食料が尽きかけていた。

駅の売店には多少の菓子や飲料があったが、初日の夜に略奪が起きて、あっという間に空になった。

最初は遠慮がちだった。

「すみません、一つだけ……」

「お金は後で払いますから……」

そう言いながら、菓子を手に取る人々。

でも、誰かが走り出した瞬間、堰が切れた。

我先にと売店に殺到する群衆。押し合い、奪い合い、殴り合い。

俺は最初から動かなかった。

「……取りに行かなくていいんですか」

彩音が聞いた。

「今行っても無駄だ。あの人数に突っ込んだら怪我をする。怪我をしたら終わりだ」

「でも、食べ物が……」

「後で考える」

結局、売店は数分で空になった。

床に散乱する包装紙と、空のペットボトル。

それを拾い集めている人間もいた。

俺は黙って見ていた。

水もない。

駅のトイレの水道は最初は出ていたが、二日目の午後に止まった。貯水タンクが空になったらしい。

電気は非常用電源で持っているが、それもいつまでもつかわからない。

そして何より——外との連絡が取れない。

携帯電話は圏外のまま。

駅員が持っていた無線機も、応答がない。

誰かが地上の様子を見に行こうとした。

改札を上がり、階段を登り——

五分後、その男は転げ落ちるように戻ってきた。

顔が真っ赤に腫れ上がり、目から血を流していた。

「外は……駄目だ……息が……」

それだけ言って、意識を失った。

翌朝、その男は死んだ。

それ以来、外に出ようとする人間はいなくなった。



四日目の夜。

ホームの中央で、集会のようなものが開かれた。

生き残った数百人のうち、まだ動ける人間が集まっていた。

発起人は、スーツ姿の中年男だった。名札には「山本」と書いてある。どこかの会社の管理職だろう。

「皆さん、このままでは全員死にます」

声を張り上げる。

「食料も水もない。救援も来ない。我々は自分たちで生き延びる方法を考えなければならない」

もっともな話だった。

「まず、リーダーを決めましょう。指揮系統がなければ、統率が取れない」

「お前がやるつもりか?」

誰かが野次を飛ばした。

「私は提案しているだけです。皆さんが選べばいい」

「選ぶって、選挙でもやんのかよ」

「それも一つの方法でしょう」

議論が紛糾し始めた。

「俺は従わねえぞ」

「勝手に決めるな」

「お前みたいなサラリーマンに何ができる」

「じゃあお前がやれよ!」

俺は壁際でそれを眺めていた。

「……参加しなくていいんですか?」

彩音が小声で聞いてきた。

「必要ない」

「でも、皆で決めるなら——」

「見てろ。あの集会は何も決められない」

俺が言い終わる前に、ホームの別の場所で怒号が上がった。

「何勝手に決めてんだ!」

「俺たちにも発言させろ!」

「お前らだけで仕切るな!」

中年の男——確か「佐藤」と名乗っていた——が、山本に詰め寄っている。

「なんでお前が仕切るんだよ。俺だってここにいる権利がある」

「だから、皆で話し合おうと——」

「話し合い? お前が勝手に始めたくせに」

あっという間に、集会は怒鳴り合いに変わった。

「……ほらな」

「藤堂さん、最初からわかってたんですか」

「リーダーを決めようとする奴と、それに従いたくない奴がいる。資源が限られてる状況で、全員が納得する決定なんてできない。当然こうなる」

彩音は黙って頷いた。

集会は結局、何も決まらないまま解散した。

山本は疲れた顔で項垂れ、佐藤は勝ち誇ったように鼻を鳴らしていた。

どちらも、間違っている。

でも、俺が口を出す義理はない。



その夜。

俺は彩音を連れて、ホームの端——線路に降りる階段の近くに移動した。

「藤堂さん、ここは……」

「いざという時、すぐに線路に降りられる。覚えておけ」

「いざという時って……」

「この駅にいる人間が、いつまでも大人しくしてると思うか?」

彩音は息を呑んだ。

「食料が尽きた。水も尽きかけてる。そうなったら、人間は何をする?」

「……奪い合い」

「そうだ。今はまだ理性が残ってる。でも、あと数日もすれば変わる。飢えた人間は獣になる」

彩音の顔が青ざめた。

「俺たちが狙われる可能性もある。特にお前は」

「……私?」

「女だからだ」

直接的に言った。オブラートに包んでも仕方がない。

彩音は黙った。でも、目を逸らさなかった。

「……わかってます。覚悟はしてます」

「いい覚悟だ」

俺は立ち上がった。

「ここに長居は無理だ。移動を考える」

「移動って……どこに」

「新宿」

彩音が目を丸くした。

「新宿って、都心ですよね。核が落ちたんじゃ——」

「大江戸線は地下深くを走っている。線路を歩けば、地上に出ずに新宿まで行ける」

「でも、なんで新宿なんですか」

俺は少し考えてから答えた。

「新宿駅は日本最大のターミナルだ。地下街も広い。物資が集まりやすく、情報も得やすい。それに、他の路線との接続もある。選択肢が増える」

「選択肢……」

「ここにいたら、選択肢はない。座して死ぬだけだ。新宿に行けば、少なくとも可能性が広がる」

彩音は黙って俺の顔を見つめていた。

「……反対か?」

「いえ。藤堂さんがそう言うなら、そうなんだと思います」

「根拠のない信頼はやめろ」

「根拠はありますよ」

彩音は薄く笑った。

「あなた、この四日間ずっと考えてたでしょう。どうすれば生き残れるか。私は何も考えられなかった。ただ怖くて、不安で、あなたの隣にいることしかできなかった。だから、あなたが考えたことを信じます」

「……勝手にしろ」

俺は視線を逸らした。

「明日の朝、この駅を出る。準備しておけ」

「はい」

彩音の声には、迷いがなかった。



五日目の朝。

俺と彩音は、誰にも告げずに練馬駅を後にした。

線路に降り、暗いトンネルの中に足を踏み入れる。

非常灯の薄明かりだけが、進むべき道を照らしていた。

振り返ると、ホームの灯りが小さく見えた。

あそこに残った人間たちが、これからどうなるかはわからない。

救援が来るかもしれない。

来ないかもしれない。

でも、それは俺たちが考えることじゃない。

俺たちは俺たちの道を行く。

「藤堂さん」

彩音が、隣を歩きながら言った。

「なんだ」

「……ありがとうございます」

「何がだ」

「連れて行ってくれて」

「礼はいらない。お前が役に立つと判断したから連れて行く。それだけだ」

「……はい」

彩音は笑っていた。

暗いトンネルの中で、その笑顔だけが妙に眩しかった。

新宿まで、何キロあるかわからない。

途中で何があるかもわからない。

でも、俺たちは歩き始めた。

これが、旅の始まりだった。

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