月と和歌と、届かぬ恋
説明
藤原家の末娘・薫子は、和歌の才を認められ中宮定子に仕えることになった。華やかな宮中には、権力争いの影が渦巻いている。そんな中、薫子は定子の弟・道隆と出会う。月夜の庭で交わした言葉、触れ合った指先——身分違いの想いは、やがて彼女を危険な運命へと導いていく。
エピソード1
十六年の私の人生は、父の言葉一つでその流れを定められた。「薫子、宮中に上がり、中宮定子様にお仕えせよ」。それが、藤原の端くれに生まれた娘としての、私の定めだった。
出発の朝、邸の庭に咲き誇る棣棠の花が、春雨に濡れて重たげに首を垂れていた。父、藤原為時は、改まった顔で私の前に座り、その口から発せられる言葉は、昨夜から幾度となく繰り返されたものと同じだった。「よいか、薫子。宮中は我らのような中流貴族が夢を見る場所ではない。才をひけらかさず、波風を立てず、ただひたすらに己の務めを果たせ。決して、家の名を汚すようなことはしてくれるな」。その声には、期待よりも不安の色が濃く滲んでいた。
「はい、お父様。肝に銘じます」。私はただ、俯いて応えることしかできない。父の言うことはもっともだ。和歌や書に少しばかり心得があるからといって、雲の上の人々が集う内裏でそれがどれほどの価値を持つというのか。
父が去った後、母がすっと私の隣に寄り添い、そっと私の手に冷たい感触のものを握らせた。見れば、それは美しく装幀された一巻の冊子だった。「これは…」。それは、私が幼い頃から書き溜めてきた和歌を、母が密かに清書し、まとめたものだった。
「お守りよ、薫子」。母はそれだけを言うと、潤んだ目で私を見つめた。「辛いことがあったなら、これを開いてごらんなさい。あなたの言葉は、いつだってあなたの心を映す鏡なのだから」。父の現実的な忠告と、母の芸術的な励まし。二つの異なる思いをその小さな冊子に感じながら、私は胸が締め付けられるようだった。
やがて、私を迎えに来た牛車が門前に到着した。ぎ、と軋む車輪の音が、私の新たな人生の始まりを告げている。牛車の御簾の内側は薄暗く、揺れに身を任せていると、期待と不安が交互に押し寄せてくる。物語で読んだ華やかな宮廷への憧れ。同時に、父の言葉が重くのしかかり、背筋が冷たくなる。私は母がくれた和歌集を強く握りしめた。
牛車が止まり、外から「お着きになりました」という声が聞こえると、私の心臓は大きく跳ねた。御簾が上げられ、目の前に広がった光景に、私は息を呑む。朱塗りの柱がどこまでも続く回廊、陽光を照り返す壮麗な屋根瓦、整然と行き交う女房たちの衣擦れの音。これが、内裏。私がこれから生きていく場所。
「こちらへ」。低い、しわがれた声に我に返ると、そこにいたのは年配の女房だった。私を案内する役目らしい。彼女は私を一瞥すると、何の感慨も浮かべない目で前を歩き始めた。私は慌ててその後に続く。彼女の歩みは速く、壮大な宮殿の景色も、きらびやかな装束をまとった人々も、すべてが幻のように私の目の前を通り過ぎていった。
「浮かれていてはなりませんよ、お嬢様」。前を歩く老女官が、振り返りもせずに言った。「ここは、あなたが物語で読むような美しいだけの場所ではございません。一言一句、一つの振る舞いが、あなたの身を助けもすれば、破滅させもする。…よくよく、お気をつけなさい」。その声は、長年この場所で生きてきた者だけが持つ、冷たい重みを持っていた。胸に抱いていた淡い憧れの上に、冷水を浴びせられたような心地がした。
長い回廊を渡り、いくつもの御簾をくぐり抜けた先、ひときわ清浄な空気が漂う一室へと通された。そこが、中宮定子様のおわす登華殿だった。部屋には高貴な沈香が焚きしめられ、几帳の向こうにかすかに人の気配がする。私は先導の女房に促されるまま、震える体で深々と額づいた。
「顔を上げなさい」。鈴を転がすような、清らかで優しい声が降ってきた。恐る恐る顔を上げると、御簾の向こう、幾重にも重ねた袿の鮮やかな色彩の中に、想像していたよりもずっとお若い、美しい方が座っていらっしゃった。柔らかな光に照らされたそのお顔は、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだった。その微笑みは、私の張り詰めた心を少しだけ解きほぐしてくれる。
「あなたが、今日から私に仕えてくれる薫子ね」。中宮様、藤原定子様はそう仰ると、興味深そうに私をご覧になった。「父から聞いています。和歌の才があると」。
「いえ、そのような…父が大袈裟に申し上げただけでございます」。私は慌てて首を振る。父が私のことをそのように伝えていたとは。才をひけらかすなと言った本人が、一体何を考えているのか。
「謙遜しなくてもよいわ。私は歌を好むの。何か得意なことはあるかしら」。定子様の問いに、私の頭は真っ白になった。得意なこと。そう問われて、即座に答えられるようなものは何もない。ただ、母のくれた和歌集の感触だけが、掌の中で確かな存在感を放っていた。
「…和歌、を…少々…」。かろうじて、それだけを絞り出す。すると、定子様は楽しそうに微笑まれた。
「では、一つ詠んでみてはくれないかしら。今、この場で。そうね…初めて宮中に上がった、今のあなたの心を」。
無慈悲な、しかし抗うことのできない勅命だった。私の心臓は口から飛び出しそうになり、指先は氷のように冷たくなった。周囲に控える他の女房たちの視線が、針のように肌に突き刺さる。失敗すれば、物笑いの種になるだろう。父の顔が、老女官の警告が、脳裏をよぎる。しかし、ここで竦んでしまえば、それこそ何の取り柄もない娘だと示してしまうことになる。
私は目を閉じ、必死に言葉を探した。不安、期待、畏れ、憧れ。渦巻く感情の中で、ふと、牛車の中から見た景色、そして今目にしているこの輝かしいけれどどこか冷たい宮殿の光景が結びついた。私は震える声で、かろうじて歌を紡ぎ出した。
「雲の上の 月のかつらを 見るごとく 仰げば遠し みやこの光」
(雲の上にあるという月の桂の木を見るように、あまりに尊く仰ぎ見れば、都の光はあまりに遠く感じられます)
歌い終えると、あたりは水を打ったように静まり返った。私は、自分の心臓の音だけがやけに大きく響くのを聞いていた。ああ、なんという稚拙な歌を詠んでしまったのだろう。あまりに率直すぎて、何の工夫もない。きっと、お笑い草だ。顔から火が出るような羞恥に、私は再び深く頭を垂れた。
沈黙が、永遠のように感じられた。もうここにはいられない。早く実家に帰してほしい。そう思い詰めた、その時だった。
「…美しい歌ね」。
定子様の声は、驚くほど静かで、そして温かかった。私は弾かれたように顔を上げる。御簾の向こうの定子様は、先ほどまでの楽しげな表情ではなく、どこか物思いに沈むような、それでいて深い慈しみを湛えた目で私を見つめていた。その瞳の中に、一瞬、きらりと光るものが見えた気がした。
「あなたの歌には、偽りがない。まっすぐで、清らかだわ」。定子様はそう言うと、ふっと微笑んで、はっきりと告げられた。「気に入ったわ、薫子。私のそばに仕えなさい」。
その言葉が、私の心にすとんと落ちた。緊張の糸がぷつりと切れ、安堵から涙がにじみそうになる。周囲の女房たちの間に、さっと緊張が走ったのが肌で感じられた。嫉妬、あるいは品定めするような視線。だが、今の私にはどうでもよかった。定子様の「私のそばに」という言葉だけが、私の世界を照らしてくれた。
こうして、私の女房としての日々が始まった。主な仕事は、定子様のお側近くにあって、求めに応じて和歌を詠み、お返歌の相談に乗ること、そして経文の写経や、膨大な量の手紙や物語の整理だった。筆を持つことは好きだったけれど、それは想像以上に根気のいる作業だった。
昼間は、他の女房たちと共に黙々と筆を動かす。硯で墨をする音、紙の上を筆が滑る音だけが部屋に満ちる。しかし、その静寂の下では、複雑な人間関係が常にうごめいていた。新参者の私が、初対面でいきなり中宮様からお言葉を賜ったことは、すぐに広まっていたらしい。
「まあ、薫子様は本当にお歌がお上手なのね。中宮様があれほどお気に入りになるくらいですもの」。ある日、写経の手を休めた私に、隣に座っていた年上の女房がにこやかに話しかけてきた。その目は、しかし笑っていない。
「とんでもないことでございます。ただ、運が良かっただけで…」。私は曖昧に微笑み返すしかない。ここで肯定すれば嫉妬を買い、強く否定すれば謙遜を通り越して不遜と取られるだろう。言葉の一つ一つを、薄氷を踏む思いで選ばなければならなかった。
またある時は、別の派閥に属するらしい女房から、「中宮様だけでなく、他の宮様方ともお近づきになっておいた方が、後々のためですよ」と、甘い言葉で誘いをかけられることもあった。彼女たちの後ろには、それぞれの家の思惑が透けて見える。私はただ、「私のような者には、とても…」と丁重に断り、深く関わらないように努めた。
夜、自室に割り当てられた狭い一間に戻ると、どっと疲れが押し寄せる。きらびやかな衣装を脱ぎ捨て、一人になると、ようやく息がつける気がした。文机に向かい、母がくれた和歌集を開く。そこにある自分の拙い言葉たちが、唯一、本当の自分に戻れる場所だった。私は新しい白紙を取り出すと、今日あったこと、感じたことを、誰に見せるでもなく歌に詠んだ。筆を走らせている時間だけが、宮中の複雑なしがらみから私を解放してくれた。
「嫉妬もあれば、探りも入れてくるでしょう。でも、あなたはあなたのままでいればいいのよ」。ある夜、定子様のお休み前の支度を手伝っていると、ふと定子様がそうおっしゃった。私の戸惑いを、見抜いていらっしゃるかのようだった。
「中宮様…」。
「あなたの歌が、私には何よりの慰めよ。だから、他の誰が何を言おうと気にすることはないわ」。そう言って微笑む定子様の顔は、皇后という立場を忘れさせるほど、優しく、そしてどこか儚げに見えた。
私は、この方の側でお仕えできることを、心から幸運だと思った。たとえこの先、どれほどの困難が待ち受けていようとも、この方の言葉がある限り、私はここで生きていけるだろう。そんな予感を胸に抱きながら、私は文机の前に座り、静かに筆を取った。外では、遠くで鳴く鹿の声が、宮中の長い夜の訪れを告げていた。
最新エピソード
それから、さらに幾星霜が過ぎ去った。山寺での日々は、水が流れるように静かで、季節の移ろいだけが時の経過を教えてくれる。毎年秋に届けられる名もなき荷は、いつしか私の心の支えとなっていた。彼が都で
あれから、十年という歳月が流れた。
父の望み通り、道隆様は摂政の座に就き、藤原氏の権勢は日の本に並ぶものなき頂点を極めた。豪奢な邸には、彼が選ん
婚礼まであと二日。絶望という名の闇が、じわりじわりと私を蝕んでいく。父の屋敷の一室は、美しい調度品で飾られてはいるものの、鉄格子のない牢獄に他ならなかった。
道隆様との来世の約束を胸に抱いてから、私の心は奇妙な静けさに満たされていた。それは諦念とも、あるいは究極の希望とも言えるものだった。現実がどれほど残酷でも、魂の約束があれば耐えられる。そう、信







