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負け犬女騎士の冒険譚

負け犬女騎士の冒険譚

更新日時: 2026-07-27 01:50:59
By: Dear
連載中
言語:  日本語12+
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エピソード数
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説明

志だけは立派な女騎士がモンスター相手に戦い、毎回敗北して恥ずかしい目に遭わされるお話です。


エピソード1

――その朝の霧は、牛乳を水で溶いたように白くてやわらかかった。  

ミレーユ・ベルナールは丘のふもとで足を止め、鎧の胸板を拳でこつんと叩いた。  

「今日こそは!」  

声がこもって、すぐそばの木の枝で眠っていたトンビが慌てて飛び立つ。  

彼女は頬を赤くした。  

「……大声出しすぎたかな」  


けれど、すぐ背筋を伸ばす。  

銀色の胸甲に彫られた百合の紋章が、朝日を受けてちらりと光った。  

「市民の平和のために、騎士ミレーユ、出撃!」  

誰に言うわけでもない決意の言葉を呟いて、彼女は木立の中の細い獣道を進んだ。  


目指すは、最近うわさの「ぬるぬる池」。  

名前の通り、池の周りがいつもぬるぬるしており、通行人が転んで衣服を汚すという。  

原因は――  

「スライム、一匹だけど、結構キケンらしい」  

村長さんの言葉を思い出す。  

「小さいようで、油断すると足をすくわれて大けが。頼むよ、若き百合の騎士殿」  


若き百合――そのあだ名が恥ずかしい。  

でも、頼られた以上、見事退治してみせる。  

「スライムなんて、習った通りの初級魔法で一撃よ!」  


彼女は右手を翳し、小さく呪文を唱えた。  

「ライト・ボール」  

ぱちり、と豆電球ほどの光が弾け、すぐに霧に吸い込まれる。  

「……見えにくい霧だな」  

足元が見えない。  

一歩、また一歩。  


ぬちゃ。  

なにか、冷たくて粘っこいものが甲冑の脛当てに絡んだ。  

「――っ!」  

思わず剣に手を掛ける。  

霧の幕が切れるように晴れ、目の前にそれはいた。  


直径、おおむね百姓のたらいぐらい。  

透明な水母のような体を持ち、内部に枯葉や小枝が渦を巻いている。  

表面がゆるゆると波打ち、ぬめった音を立てた。  

「ス、スライム!」  

ミレーユは一歩後退る。  

相手は、ただの低級魔物。  

けれど、なんだか無骨な笑いを浮かべているように見えた。  


「来なさい!」  

彼女は剣を抜く。  

柄に手の汗が染みる。  

初陣のとき、師範に言われた言葉が耳をよぎる。  

『剣を抜いたら、迷うな。迷った隙に、相手は牙を立てる』  


「うおっ!」  

踏み込みざま、横薙ぎの一閃。  

銀の弧が描け――  

するり、と剣が滑った。  

スライムの体は、まるで水を切る絹の布。  

切れ味鋭い騎士剣が、まるで棒きれのように表面をかすめるだけ。  


「ちぇっ、粘り気が強い!」  

すぐに体勢を立て直そうとした、その瞬間。  


ぬちゃっ!  

スライムがふくらみ、彼女の右腕を飲み込んだ。  

「きゃっ――いや、うわぁ!?」  

甲冑の隙間から、冷たい汁がしみ込んでくる。  

ぬめりが肌を這い、肘の内側をくすぐる。  

「や、やめろっ! 離せ!」  

剣を左手に持ち替え、振り払おうとする。  

が、ばねのような弾力が衝撃を吸収し、刃が食い込まない。  


さらに、スライムは這い上がってきた。  

胸甲の百合の紋章を溶かすように覆い、首当ての裏に回り込む。  

「あうっ、冷たい! それ、変なところに――」  

背中を丸めようとした拍子に、足がぬるついた石を踏んだ。  


ざぶっ!  

尻もちをつく。  

腰当てが泥とスライム汁に沈み、ぬちゃりと音を立てる。  

「うう……」  

目の前で、スライムがゆっくりと盛り上がり――  

まるで「どうする?」と問いかけるように、ぷるんと震えた。  


「うるさい! 騎士が、泥に座るぐらいで――」  

言い訳する間もなく、今度は左足首を絡め取る。  

「ひゃっ!」  

甲冑の継ぎ目から、冷たい汁がぞくぞくと這い上がる。  

まるで巨大な舌に足を舐められているような、不気味な感触。  

「や、やばい……こんなの、教科書に載ってなかった」  


彼女は剣を投げ出し、両手でスライムをむにゅっと押し潰そうとした。  

が、指が埋まるだけで、まるで力が通わない。  

「ううう、どうしてこうなるのよ!」  

粘体は着実に這い上がり、腰のベルトを溶かすように包み込む。  

鎧の紐がずるずると緩み、胸当てががくりと下がる。  

「ちょ、ちょっと! 服まで持ってかないで!」  


顔が熱くなる。  

道端で鎧を乱されるなど、騎士の沽券に関わる。  

――いや、道端に人影はない。  

霧も晴れ、周囲は静まり返っている。  

だが、自分自身の心臓の音だけが、ばくばくと響いてやまない。  


「し、しつこい!」  

彼女は腰を捻り、這い上がる粘液を振り落とそうと暴れた。  

すると、スライムがぷちっと音を立てて弾け――  

べちゃっ、と大量の汁が腰から腿にかけて降り注ぐ。  

「きゃあっ……あうう」  

白い外套がべっとりと張り付き、肌の温もりで少しずつ温まってくる。  

冷たかったはずなのに、今はぬるぬると蒸し暑い。  


スライムは元の大きさに縮み、再びぷるぷると震えた。  

まるで「勝負あり?」と言わんばかり。  

「……まだよ!」  

ミレーユは這い上がろうとした。  

が、手が泥ですべり、肘を打つ。  

「いてっ……」  

涙が滲む。  

――ダメだ、こんな格好で立ち上がれない。  

鎧の紐は緩み、外套は重く、足は粘着する。  


スライムが、今度はゆっくりと彼女の頭上に這い上がってきた。  

「う、うわあああ!」  

彼女は必死に這いずり退がる。  

背中を地面に擦りながら、石ころを蹴散らす。  

「やめてやめて、そこは顔! 顔にかからないで!」  


ぬちゃり、と頬に冷たい膜が張られた。  

「んぐっ!」  

鼻をつままれ、息が詰まる。  

――まずい、窒息する!  

両手で顔を覆い、粘体を剥がそうとする。  

指が滑り、爪が空振りする。  


その瞬間、ぷちっ、と小さな破裂音。  

スライムが弾け、今度は細かい飛沫となって降ってきた。  

「はぁっ、はぁっ……」  

彼女は仰向けに倒れ、空を見上げた。  

青い空。  

雲がのんびりと流れている。  

――まるで、自分だけがひどい目に遭っているみたい。  


ぱたぱた、と小さな音。  

スライムの残り滓が、鎧の表面を這いずり落ちていく。  

「……ったく」  

ミレーユはゆっくりと半身を起こした。  

髪から垂れた汁が、肩にぽたりと落ちる。  

「初級魔物にやられるなんて、師匠に知られたら笑い殺される」  


ぬるぬるした手の平で額を拭う。  

指が汚れ、肌がべたつく。  

「でも……生きてる」  

ふと、口元が緩んだ。  

「生きてるし、怪我もしてない。や、やった?」  

自分でも信じられないほど、明るい声が出る。  


立ち上がろうとして、腰が重い。  

外套の裾にスライムの汁がたっぷり含まれ、まるで鉛の板。  

「うう、重い……」  

鎧の紐を締め直し、剣を拾い上げる。  

鞘に収めようとして、手が滑って二度も落とす。  

「ちょっと、いい加減にしてよ!」  

誰に向かって叫んでいるのか、自分でもわからない。  


ぎしぎしと音を立てながら、丘を下る。  

足取りは重いが、心は妙に軽い。  

――負けた。  

――でも、退けた。  

スライムは池のほうへ逃げ戻ったようだ。  

通行人が転ばないよう、看板でも立てておけばいい。  

「……看板代、村長に請求しよう」  

くすくす、と喉が震える。  


道端の小川で顔を洗う。  

水がぬるつき、石にこびりつく。  

「ああ、もう……」  

鏡のように澄んだ水面に、自分の顔が映る。  

頬に泥、額に葉っぱ、髪はねずみの巣。  

「これじゃあ、百合の騎士どころか、抜け穴のネズミ」  

自嘲しながら、水をすくう。  


冷たさが、ぴりりと頬を刺す。  

――でも、悪くない。  

風が吹いて、外套の裾をはためかせた。  

「次こそ、きちんと魔法を当ててやる」  

拳を握り、空に向かって宣言する。  

「覚えてろ、スライム! 騎士ミレーユ・ベルナール、必ずや勝利してみせる!」  


返事はない。  

ただ、風が葉を揺らして、くすくすと笑っているようだった。  

「……なんだか、私まで笑えてきた」  

彼女は肩をすくめ、ぬるついた靴底で石を蹴った。  

石はぽろりと転がり、向こう岸に落ちる。  

「さてと、まずは村長さんに報告――」  

一歩、また一歩。  

重い鎧が、今度は心地よいリズムを刻み始める。  


背後で、ぷちっ。  

小さな音がして、スライムが顔を出した。  

ミレーユは振り返らない。  

「今度は、本気でやるからね!」  

だけど、足取りは軽い。  

恥ずかしい思い出は、すぐに次の笑い話になる。  

――だって、騎士は今日も生きて、明日に向かって歩いている。  


「次こそ、絶対に!」  

その声は、澄んだ空に吸い込まれて――  

ぬるぬる池のほとりに、小さな希望の種を落とした。

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