説明
孤独な文芸記者・神崎は、ある小説と出会い、批評では届かないその核心に触れるため、自ら短編を書き始める。
創造と批評の境界が溶けゆく中、彼は作家の魂と危ういほど深く共鳴してしまう。
やがて神崎は問われる――他者の物語を読むとは、どこまでが対話で、どこからが侵犯なのか。
エピソード1
言葉は死んだ。少なくとも、神崎の手から生まれる言葉は、とうに命脈を絶たれていた。
文芸誌の片隅に「神崎」の名で書評を寄稿し始めて二十年。かつては剃刀のようだと評された彼の批評は、今や使い古されただけの鈍器に成り果てていた。行間に埋めたはずの毒も、皮肉も、賞賛さえも、インクが乾く頃には陳腐な屍骸と化す。毎週、書評の締め切りが彼の首を締め、絞り出された文章は誰の心にも届かず、ただ古紙の山に埋もれていく。その自覚が、じわじわと彼の精神を蝕んでいた。
「先生、今週分です」
宅配業者の男が、事務的な声色で分厚い封筒の束を差し出す。その中には、神崎が裁くべき「作品」という名の供物が詰まっている。彼は無言で受け取ると、ドアを閉めた。書斎に立ち込める、古紙と埃の匂い。整然と積まれた本の塔が、墓標のように彼を見下ろしている。彼はその中の一冊を無造作に手に取り、数ページをめくっては投げ出した。
「くだらない」
呟きは誰に聞かれるでもなく、静寂に溶ける。愛、喪失、社会への反逆。どれもこれも、どこかで読んだ言葉の焼き増し。安全な地平で繰り広げられる、予定調和の茶番劇。批評とは、そんな死体に防腐処理を施し、さも生きているかのように見せかける空虚な作業ではないのか。そんな考えが、ここ数年、彼の頭から離れない。
彼は送られてきた封筒の一つを、ペーパーナイフで無感情に切り裂いた。中から現れたのは、見慣れない装丁の一冊。黒一色の表紙に、銀の箔押しで『虚ろ舟』とだけ記されている。作者の名は、月代(つきしろ)。聞いたことのない新人作家だった。
「月代、か」
その名が、なぜか舌の上で奇妙な感触を残す。彼は本の束の一番下にそれを置き、まずは片付けるべき「仕事」から手をつけることにした。流行作家の凡庸なミステリー、大家の自己模倣に過ぎない私小説。彼は慣れた手つきでパソコンに向かい、一時間ほどで二本の書評を書き上げた。言葉を並べる作業は、もはや呼吸と同じだった。思考も、感情も、そこには介在しない。
書き終えた原稿を編集部にメールで送り、神崎は息をついた。部屋はすでに薄闇に包まれている。彼は椅子に深く身を沈め、先ほどの黒い本を手に取った。何の気なしに、最初のページを開く。その瞬間だった。
一行目が、彼の眼球に突き刺さった。
それは文章ではなかった。研ぎ澄まされた刃だった。常識を、均衡を、神崎が二十年かけて築き上げた言葉の秩序を、たった一行で切り裂く、冷たい鋼の刃。彼は息を呑んだ。次の行を、その次の行を、貪るように追う。世界が歪む。書斎の壁が溶け落ち、インクの匂いが消え、代わりに潮の香りと、あり得ない金属の軋む音が耳の奥で鳴り響いた。
『虚ろ舟』は、物語ではなかった。体験だった。言葉によって構築された、もう一つの現実。そこでは影に重さがあり、沈黙が音を発し、人々は記憶ではなく未来によって苦悩する。論理は反転し、因果律はねじ曲げられ、読者は方向感覚を失ったまま、作者の掌の上で弄ばれる。神崎は、自分が批評家であることさえ忘れ、ただその世界に溺れていた。
「……なんだ、これは」
何時間経ったのか。彼が顔を上げた時、窓の外は完全に夜の闇に支配されていた。手の中の本は、まだ半分も読み終えていない。だが、彼の内側では、すでに取り返しのつかない何かが起こってしまっていた。心臓が痛いほど脈打ち、指先が冷たく痺れている。これは衝撃ではない。冒涜だ。文学という聖域に対する、あまりにも美しく、完璧な冒涜。
彼はよろめくように立ち上がり、キッチンで水を一杯煽った。しかし、喉の渇きは癒えない。脳が、細胞が、あの文章の続きを渇望している。彼は書斎に戻り、再びページに視線を落とした。夜が更け、やがて白み始め、再び夜が来るまで、彼は読み続けた。食事も、睡眠も、忘れていた。ただ、月代という未知の作家が創造した深淵を、己の精神に刻みつけるように。
最後のページを閉じた時、神崎は虚脱していた。世界からすべての音が消え、ただ耳鳴りだけが響いている。彼は自分の書斎を見回した。昨日まで慣れ親しんだはずの風景が、まるで異国のもののように見えた。積まれた本の塔は、もはや墓標ですらなく、ただのがらくたの山に過ぎなかった。
この小説を、どう批評しろというのか。
「構成が巧みだ」? 「文体に独創性がある」? 「テーマが深遠だ」? そんな言葉が、この怪物の前で何の意味を持つ。それは、神の手による天地創造を前にして、「岩の配置がいい」と評するようなものだ。滑稽ですらない。冒涜的ですらある。
彼の二十年のキャリアが、築き上げてきた批評という技術が、『虚ろ舟』の前では完全に無力だった。彼の言葉は、この作品の本質に指一本触れることすらできない。その絶望的な事実が、鈍い痛みとなって彼を打ちのめした。無力感。ここ数年感じていた生ぬるいそれとは違う。存在そのものを否定されるような、絶対的な無力感だった。
彼はデスクの上の、鋭く削られた鉛筆を睨みつけた。分析のための、分解のための、裁きを下すための道具。それが、今やただの木の棒にしか見えなかった。
「……駄目だ」
声が漏れた。
「これでは、駄目だ」
では、どうする? 書評の依頼を断るか? 「私の手には余る」とでも言って。それは敗北だ。批評家・神崎の死を意味する。ならば、どうすればこの作品に応えることができる? この衝撃を、この戦慄を、この、世界が反転するような感覚を、どうすれば言葉で伝えられるというのだ。
ふと、狂気じみた考えが彼の脳裏をよぎった。
一つの宇宙を前にして、批評家ができることは何か。言葉でその輪郭をなぞるだけでは、何も伝わらない。ならば。
――ならば、こちらも、一つの宇宙を創造するしかないのではないか。
彫刻の価値を問うには、自ら鑿を振るうしかないように。交響曲に応えるには、自らタクトを握るしかないように。小説という宇宙の深淵を覗かせるには、小説という手段でしかあり得ないのではないか。
小説によって、小説を批評する。
その考えは、雷鳴のように彼の全身を貫いた。狂っている。前代未聞だ。批評家としての倫理にもとる、自殺行為に等しい。だが、彼の魂は、その禁断の果実に手を伸ばすことだけが唯一の道だと叫んでいた。これこそが、『虚ろ舟』と、月代という恐るべき才能に対する、唯一可能な応答なのだと。
彼は震える手で、受話器を取った。編集長の顔が目に浮かぶ。呆れ、怒り、そして軽蔑するだろう。構わない。もう、どうでもよかった。
「俺だ。神崎だ」
電話の向こうで、編集長の桜井が眠そうな声で応じた。時刻は、おそらく深夜だろう。
「どうした、こんな時間に。まさか原稿が落ちるとか言うなよ」
「いや、原稿は……今週分はもう送った」神崎の声は、自分でも驚くほど乾いていた。「次の、月代の『虚ろ舟』の件だ」
「ああ、あの新人か。どうだった? いつものように、二千字でバッサリやってくれるんだろうな」
桜井の軽薄な口調が、やけに遠く聞こえる。神崎は一度、目を閉じた。そして、静かに告げた。
「いや……通常の書評は書かない」
「はあ? どういうことだ。締め切りを延ばしてほしいって話か?」
「そうじゃない」神崎は言葉を区切った。「あの作品を批評するには、二千字では足りない。いや、どんな言葉も足りない」
「おいおい、先生らしくもない。あの神崎が何を言ってるんだ」
沈黙が、電話線を伝って重くのしかかる。神崎は、デスクの上の真っ白な原稿用紙に目を落とした。それは、無限の可能性であると同時に、絶望的な虚無にも見えた。
「だから、試みたいことがある」
「試みたいこと?」
「ああ」
彼は、深呼吸を一つした。二十年間守り続けた砦を、自らの手で爆破するような覚悟で、言葉を紡いだ。
「小説で、あの小説を批評する。短編を一本、俺が書く。それが、俺の『虚ろ舟』に対する書評だ」
電話の向こうで、桜井が息を呑む音が聞こえた。長い、信じられないといった風情の沈黙が続く。やがて、絞り出すような声が鼓膜を震わせた。
「……神崎、お前、正気か?」
最新エピソード
約束の茶室は、都市の喧騒が嘘のように静まり返っていた。通された個室は、磨き抜かれた床柱が鈍い光を放ち、壁には墨絵の掛け軸が一幅。影が濃く、光が薄い。神崎は座布団の上に硬直したまま、その完璧な静寂
「正気か?」
友人の声が、まだ耳の奥でくすぶっていた。打ち捨てられた炭火のように、忘れた頃にじり、と音を立てて皮膚を焼く。神崎は書斎の椅子に深く身を沈め、その鈍
言葉ではない。ただ、空気が震える、微かな音。
神崎はその音の源から目を逸らせずにいた。書斎の隅、書架の影が最も深く淀む場所。そこはもはや単なる暗がりではなかった。質量を伴い、呼吸して
言葉は死んだ。少なくとも、神崎の手から生まれる言葉は、とうに命脈を絶たれていた。
文芸誌の片隅に「神崎」の名で書評を寄稿し始めて二十年。かつては剃刀のようだと







