新庄優奈のSecond-Flight-Love💕
説明
新庄優奈。22歳。客室乗務員。航空会社の研修を無事終えての初の実践フライトを迎えた。ただ、彼女が就職先の航空会社には他にはない変わったサービスがあり、彼女は自分の性格も合わさって、しっかりとお客様に満足できてもらえるのか不安がっていた。また、一人前の客室乗務員を目指すには、さまざまな💕💕💕が必要だと、奮闘する彼女であった。
そんな彼女の日々の奮闘の記録です。
※これは『堀越優奈のOne-Flight-Love』をベースに再構築した物語です。第23話以降からストーリーが変わります。
エピソード1
第一話 雲の上に飛び立つ朝
一 午前五時三十二分
目が覚めたとき、枕の端に顔を埋めていた。前夜のうちにしょっぱいものが乾いて、頬に膜が張ったようになっている。まだ四時台だろうと思いながら、枕もとへ手を伸ばす。指先がスマートフォンの角に当たった。
画面が暗いまま、ぼうっと光を放つ。
七月十日、火曜日、午前五時三十二分。
寝ぼけた目で、もう一度見る。七月十日。火曜日。間違いない。
本番の日だ。
布団の中から身体を起こした途端、重力というものを思い出した。重さが上体を引っ張る。下着越しの自分の身体が、寝ている間になぜか二回りほど膨らんだ気がする。いや、膨らんだわけではない。膨らんでいるのは、ずっと前から。研修中に測ったとき、たしかに数字は出ていた。百十五。よくわからない単位で。ただその数字を、自分の中でどう扱えばいいのか、まだ決められずにいた。
「……んっ」
立ち上がって伸びをすると、胸の重みが揺れて、背中までつられてしなった。鎖骨に布地が食い込む。相変わらず、自分の身体のバランスがおかしい。重心がいつもより前に寄る。歩くたびに、半歩ぶんだけ誰かが後ろから押してくるみたいだ。
浴室に向かい、顔を洗った。水道水がひんやりと冷たい。鏡の中に、自分の顔があった。黒い髪が乱れている。頬には、寝ている間に圧迫された赤い跡がうっすらと残る。唇は、つぼみのようにぷっくりと。ピンク色の口紅をさすまでもなく、この唇はもともと色を持ってしまっている。研修のときに、教官から注意された。派手だと言われた。でも、これは生まれつきだ。どうしようもない。
顔を拭き、下着をつけずに、制服へ手を伸ばす。会社から支給された専用の制服。紺と黄の、肌に吸い付くような布地。胸元は大胆に開いていて、どうやっても閉じない。この会社の制服は、そういう設計なのだと研修で教わった。教わって、納得した。ふうん、そういう設計なんだ。そういう設計でないと、いけないんだ。
でも、実際に着てみると。
「……ううっ」
ファスナーが、胸のあたりで引っかかる。
背中に手を回して、引っ張る。引っ張る。布が裂ける音がしないことを祈りながら、息を止めて、一気に引き上げる。上まで上がらない。あと三センチほどのところで、金属のランナーがぴたりと止まる。何かが挟まっている。自分の身体が。服の中で膨らんでいる。挟まっているのは、たぶん、わき腹のあたりの肉だ。息を細く吐いて、身体を薄くしようとする。どこも薄くならない。ぜんぶ、詰まっている。
結局、うつ伏せに布団の上へ倒れ込んで、重い身体を沈めてから、ようやく上がった。ファスナーが閉じたとき、ゼンマイが弾けたような音がした。背中が、じりじりと締め付けられる。
鏡の前に立った。
見慣れない自分がいた。
体にぴったりと張り付いた紺のジャケットが、腰のくびれをくっきりと浮き上がらせている。胸元の開いたVゾーンから、谷間の影がのぞく。ノーブラなので、布の下で形がまるごと柔らかく揺れている。歩けば揺れる。まばたきするだけで、布地が乳房の先端に触れて、こそばゆい。スカートのサイドスリットから、太ももの素肌が見えている。七センチのエナメルブラックのヒールを履くと、足首が細く伸びて、膝の裏の筋がきゅっと締まった。
「……わあ」
自分で言うのも変だが、思った以上に、えらいことになっていた。
そんなにエロい服だと言われた気がする。研修のとき、教官が言っていた。「お前たちの制服は、ただの制服ではない。機能性と官能性が融合した、ようやくの代物だ」と。
だから、これは、そういうものなんだ。
そういうものとして、これを着て、空を飛ぶんだ。
深呼吸をしたら、胸元の布がきしんだ。
二 午前七時十分
羽田空港の職員通用口をくぐったとき、腕時計が七時十分を指していた。集合は七時半。時間には、まだ余裕がある。そう思って一息ついたとき、後ろから声がかかった。
「あれ、新庄さん? 今日が初フライトだっけ?」
振り返ると、同じ便に乗務する先輩CAがいた。名前は確か、藤原さん。入社四年目の、研修でも何度か見かけた人だ。おっとりして見えて、目だけが鋭い。優奈は慌てて頭を下げた。
「は、はい。新庄です。今日、初めてです。よ、よろしくお願いします」
「うんうん。緊張してる?」
「あの……緊張してないって言ったら、嘘になります」
「だろうね。でも大丈夫、先輩がちゃんとついてるから」
藤原さんは笑いながら、優奈の全身を眺めた。上から下へ、下から上へ。時間をかけて、じっくりと。顔のあたりまでは笑顔だったのに、胸のあたりでぴたりと止まった。
「……ねえ、新庄さん」
「はい」
「その制服、サイズは合ってる?」
「合ってるはず、です。研修のとき、採寸してもらって。三か月前の、話ですけど」
「三か月前の、ね」
藤原さんは、何かを飲み込むように、ごくりと唾をのんだ。
「……三か月前、採寸したときと、今じゃ、たぶん、一センチか二センチは変わってるよ。その胸」
「えっ」
「今、ファスナー、きつくない?」
優奈は背中に手を回した。確かに。朝、布団の上で格闘した記憶が新しい。あのまま閉まらなかったら、どうするつもりだったんだろう。
「きつい、です。さっき、こう、うつ伏せになって、なんとか」
「うつ伏せに⁉」
藤原さんの声が、薄い壁を揺らした。すぐに自分で口を押さえて、声を潜める。
「今のはなし。忘れて。とにかく、バックヤードで、もう一度着替え直してきな。このままだと、飛んでる最中に、ファスナーが死ぬから」
「死ぬ、んですか」
「死ぬよ。布地が悲鳴を上げる、って言ってもいい。とにかく、行こう」
バックヤードに連れて行かれた。鏡の前で、もう一度制服と向き合う。藤原さんが外で待っていてくれる。着替えるのは、恥ずかしい。
でも、どうしても、ひとりでは無理だ。あのファスナーは、もう二度と、朝のようにうまく上がる気がしない。意を決して、呼んだ。
「あの……藤原さん。すみません。ファスナーが……無理、です」
ひと言で言われた。
「新庄さん。あんた、このままで、お客様の前に行くの?」
言葉の意味が、うまく噛み砕けない。このまま、というのは、どのままか。この制服を着たまま、という意味だろうか。だったら、ほかに着替えようがない。
「この制服が……規定ですから。これを着て、行きます」
「そうじゃなくて。そうじゃなくてさ。あんた、わかってないの?」
藤原さんの手が伸びて、優奈の胸元の開いたVゾーンを指さした。指が、皮膚と布の境目に、ぴたりと当たる。その指先から、ひやりとした熱が伝わってくる。
「ここ。この谷間、もう見えちゃってるよ。ただでさえ、うちの制服は派手なんだから。あんたのその身体で着たら、お客様が……いろいろ、思っちゃうでしょ。うちの会社は、そういうサービスがあるんだから。『天上のやすらぎ』って、知ってる?」
「あ……はい。研修で、資料は」
「資料は読んだんだ。いいね。じゃあ、意識してね。その身体で、その制服で、あなたが機内に立ったら、もう、それはサービスの始まりなんだから」
「サービスの……始まり」
「そう。終わりじゃなくて、始まり。まだ始まってないんだよ、今日は。だから、気を抜いちゃだめ」
藤原さんは、ため息をつくように、肩の力を抜いた。そして、小声で、もうひとつ付け加えた。
「……私がアテンド、担当明朝って、よかったわ」
意味がわからず、聞き返そうとした。けれど、藤原さんはもう背を向けて、「さ、いこう」とだけ言った。
三 午前八時
フライト前の打ち合わせは、バックヤードの奥にある小さな会議室で行われた。パイロット二人。藤原さんをはじめとする先輩CAが三人。それから、新入りの優奈。計六人の朝礼だ。
「では、本日のフライトについて、申し送り事項を確認します」
機長が資料をめくる。その横で、副操縦士が頷く。みんな真剣な顔だ。優奈も、背筋を伸ばして、資料を読む。読もうとする。
けれど、目の前の文字が、どうしても頭に入ってこない。一文字目を追った途端、視界の端に、自分の胸が入ってくる。開いたVゾーン。谷間の影。深呼吸のたびに、布地が上下する。今、自分の身体が、机の上に置かれた資料と一緒に、みんなの視界に入っている。そう思った瞬間、急に、自分の身体が自分のものでないみたいに感じた。
おろしたての制服が、肌に触れるたびに、ざわざわする。とくに、胸の先端は、ノーブラなので、布が擦れるたびに、ちりっ、と電気が走る。姿勢を正そうと背筋を伸ばせば伸ばすほど、布と身体が密着して、谷間が深くなる。呼吸をするたびに、鎖骨のあたりに汗がにじむ。じっとりと、シルクが頬に張り付くみたいに。
(……んっ。あの、)
狭くて、苦しい。でも、この場で、制服を直すのは、場違いだ。
そう思って、こらえていると。
「では、持参品の確認を。酸素マスク、救命胴衣、各所の持ち場……新庄さん?」
機長が名前を呼んだ。優奈は、はっとして顔を上げた。
「は、はい!」
「酸素マスクと救命胴衣の位置、もう確認した?」
「あ、あの……はい。昨日、整備の方と一緒に……」
「よし。では、もうひとつ。新庄さんは初乗務だから、特別にサービスについての話をしよう。『天上のやすらぎ』の、基本的な流れを、ひとつだけ確認する。相手は一人、時間は三十分。延長なし。対応は、当番制。個室を使うか、自席で行うかは、お客様の選択に委ねる。ここまでは、大丈夫?」
「はい。資料で……読みました」
「ん。じゃあ、ひとつ問題を出す」
機長は資料から目を離して、優奈を見た。資料を見るときと同じ、落ち着いた目だった。けれど、横にいる副操縦士が、咳払いをした。ごほん、と。その咳払いのあとで、機長も、微妙に視線を泳がせた。泳がせて、どこを見たらいいかわからなそうに、もう一度資料に落とした。
「……お客様が、個室を希望された。ここで、最初にすべきことは?」
「最初にすべきこと、ですね」
優奈は考えた。三十分の制限時間。個室へのご案内。お冷やを出す。それから、何をするんだったか。研修の資料には、なんと書いてあっただろう。なんと、書いてあった?
「ええと……まず、お客様に……」
「うん」
「……お冷やを、出します」
「うん。それは大事だ。……それから?」
「それから……」
考えようとするたびに、自分の胸の重みが、思考の邪魔をする。うつむきがちになる。うつむくと、谷間が、また深くなる。深くなった映像が、頭の中に浮かんで、思考が散る。悪循環だ。
「……お客様のお身体を、お預かりする……?」
「それだ」
機長が、ぱちんと指を鳴らした。
「お客様のお身体をお預かりします。これが基本だ。心と身体を、最高に癒す。それが、私たちのサービスだ。新庄さん。あなたが緊張してると、お客様も緊張する。まずは、落ち着きなさい。深呼吸でもして」
「は、はいっ」
深呼吸をした。深く。胸いっぱいに吸い込んだ。
その瞬間。
背中のファスナーが、破れた。
ぶちっ、という音と、糸が切れる音が混ざった、頼りない破裂音が、会議室に響いた。背中に走った衝撃で、身体がびくりと跳ねる。紺のジャケットの背縫い目が、ファスナーの上端から、一気に五センチほど裂けた。中の肌着が、白く光る。
「っ……」
息が漏れた。声にならない声。口元から、吐息だけがこぼれた。ああ、と思う。これは、恥ずかしいやつだ。夜中に目が覚めてトイレに行く途中で味わう、あの「ああ」とは、質が違う。これは、職場で、初日で、みんなの前で、自分の身体が自分の意志を裏切っただけの、純然たる恥辱だ。
「新庄さん⁉」
藤原さんの声が、飛んできた。
「だ、だいじょうぶ⁉ ファスナー⁉」
「は、はい……あの、その、朝も、きつくて……」
「やっぱりそうか! だから言ったのに!」
優奈はくるりと背中を見せた。裂けた背縫い目から、白い肌着が見えている。藤原さんが慌てて立ち上がる。パイロット二人は、気まずそうに、お互いの顔を見合わせた。ごほん。ごほん。咳払いが二度、重なった。機長が資料で顔を隠すみたいに、めくる。
「ええと……では、ちょっと、その……着替えを」
「はい、すみません。新庄さん、こっち、こっち!」
藤原さんに腕を引っ張られて、会議室を出た。廊下を早足で歩きながら、背中の裂けた部分に風が入ってきて、ひやりとする。歩くたびに、制服の裾が揺れて、スリットから太ももがのぞく。そのたびに、藤原さんの視線が、刺さる。刺さって、はずれる。
「新庄さん」
「はい」
「あんたさ。せっかく採寸したんだから、ちゃんと、あんたの身体に合わせた制服にしなさいよ。その身体で、二年前のサイズを着るのは、無茶ってもんだよ」
「わたし、二年前は……まだ、研修、受けてなかった、です」
「だから、育ったんでしょ。これから先、うちの制服を着て飛ぶんだったら、その身体とも、ちゃんと付き合っていかないと」
「付き合うって……」
「だって、あんた、自分の身体のこと、ぜんぜん知らないでしょ。触り方も、扱い方も。これから、お客様の身体をお預かりするっていうのに、自分の身体すら、まともに預かれないの?」
その言葉が、胸に刺さった。たしかに、そのとおりだ。自分の身体が、こんなに自分の思うままにならないなんて。研修では、マニュアル対応と機内サービスと、それから、あの「天上のやすらぎ」についての、実技演習も受けた。でも、あのときの自分は、もっと軽かった。身体が。胸も。ぜんぶ、もっと軽いものだと思っていた。
「わたし、もっと……ちゃんと考えます。自分の身体のことを」
「考えればいいよ。そうして、少しずつ慣れていけばいい。人に喜んでもらう仕事なんだから。まずは、自分が喜べないとね」
藤原さんはそう言って、応急用の安全ピンを差し出した。ブローチみたいに、背中の裂け目を留めてくれた。針先が肌を掠めて、ちくりと痛い。けれど、その痛さが、逆に、自分を現実に引き戻してくれるみたいだった。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして。でも、次の休みに、採寸し直してもらいなよ。絶対」
「はい」
四 午前八時三十分
打ち合わせが再開されたときには、優奈の緊張は、もう限界を超えていた。安全ピンで留められた背中が、気になる。歩くたびに、鋼のピンが皮膚に触れる。ちく、ちく。何かをするたびに、背中に冷たい視線が刺さる気がする。
「……以上で、ブリーフィングを終了します。各自、持ち場につけ」
機長の声が終わった瞬間、優奈の肩から力が抜けた。へなへなと、その場にしゃがみ込みそうになった。膝が笑う。震えているのか、それとも笑っているのか、自分でもわからない。ただ、立っているのが、やっとは、かろうじて、という感じだった。
(……だめだ。緊張しすぎて。じっとしないと。ちゃんとしなきゃ)
よし、と気合を入れ直して、荷物をまとめる。手が、どうも落ち着かない。資料をしまうとき、指先が、ふるふると震えていた。これは緊張だ。うん、たぶん、そうだ。緊張。身体中に、そう書いてある。
「新庄さん、大丈夫? 青い顔してるよ」
「だ、大丈夫です。ちょっと、緊張してるだけ、です」
「そ。とりあえず、お水でも飲んで落ち着きな。飛行機の中じゃ、飲めないからさ。いまのうちに飲んでおきなよ」
藤原さんに促されて、給水機の前へ行く。プラスチックのコップを取り、水を注ぐ。手が震えて、半分くらい、こぼれた。指先に水がかかって、ひんやりとする。
「うぅっ」
思わず、口から声が漏れた。その声が、また、色っぽく聞こえてしまって。
周りに誰もいないことを確認して、そっと、深呼吸をした。今度は、優しく。浅く。胸を大きく動かさないように。
(……うん。落ち着け、優奈。あなたは、ちゃんとできる)
そう言い聞かせても、身体は正直だった。ふくらはぎが、じんじんと鳴る。スカートのスリットから、太ももが汗ばんでいる。制服の下の素肌に、汗がにじんで、布地と肌が、張り付くように密着している。胸の先端は、ずっと、布に擦れて、ひそかに硬くなっていた。自分では、見えない。でも、触れば、わかる。硬くなっている。
(あっ……これ、いけないやつ)
触ってしまった自分の手を、慌てて離した。ばれていない。ばれていないはずだ。そう思って、そっと、周りを見渡す。誰もいない。良かった。
「……ごほん」
と、背後で咳の音。振り返るより先に、身体がびくっと跳ねた。声の主は、副操縦士だった。パイロットの一人が、給水機の脇を、通りかかっただけ。彼は、優奈が振り返ったとき、視点を合わせないように、目線を床に落としていた。
「失礼。……ん、新庄さん、でしたか。健康状態は、問題ないですか」
「は、はい。問題ないです。ありがとうございます」
「そうですか。……では、あとで、機内で」
そう言って、彼は去っていった。去り際に、一度だけ、視線が動いた。動いた先は、たぶん、自分の胸元だった。それとも、背中だった。そのどちらでもなかったかもしれない。けれど、その視線の重たさだけは、確かに残った。焦げ付くみたいに、肌に貼りついた。
(……なんで、みんな、そういう目で見るんだろ)
なんで、と聞かれても答えようがない。自分でもわからない。鏡に映る自分は、確かに、ちょっと、変な服を着ている。でも、それが規定の制服だから。それに、この会社に入るって決めたとき、ちゃんと説明は受けた。胸元が開いています、と。肌を見せます、と。ノーブラが標準です、と。全部、聞いた。納得した。覚悟もした。
でも、「覚悟」と「現場」は、違った。現場には、人の視線があって、人の体温があった。マニュアルには書いていない「熱」が、空気の中に漂っている。
五 午前九時
集合場所へ戻ると、クルーがそろっていた。機長、副操縦士、藤原さん、あと、もうひとりの先輩CAが、バッグを手に待っている。みんな、すでにプロの顔をしていた。
「みんな、揃ったな。では、これからターミナルへ向かう。機内の準備、よろしく頼む」
機長がそう言って、先頭を歩き始めた。優奈は、その列の一番後ろに付く。歩き出すとき、心臓が、どくんと跳ねた。
ターミナルへ続く廊下を歩く。窓の外から、朝の光が差し込んでくる。七月の光は、もう、夏の色をしている。日の出の鋭さに、空港の滑走路が白く光っていた。遠くに、今日乗る飛行機が見える。白い機体が、朝の光を反射して、まぶしい。
(……あの、飛行機、か)
自分が、あの機体に乗って飛ぶんだと思うと、足がすくむ。けれど、立ち止まっているわけにはいかない。歩かなければ。列から、遅れてはいけない。
歩くたびに、ヒールが床を叩く。こつ、こつ、こつ。その音が、自分の鼓動みたいに、規則正しく響く。スカートの裾が、歩くたびに揺れる。サイドスリットから、太ももの素肌が、朝の光を弾く。自分の身体が、自分の影のように、無造作に付いてくる。
「新庄さん」
前から、藤原さんの声。
「はい」
「あんた、歩くとき、肩がね、ちょっと前に出てるよ。背筋を伸ばしなさい。そんだけ体格がいいんだから、歩くときは、堂々としていなよ」
「……はい」
背筋を伸ばす。胸が、つられて、前に突き出る。開いたVゾーンに、朝の光が差し込んで、谷間の影が、濃くなった。
「だめだよ。そういう意味じゃなくて、胸を張って歩きなさい、っていうのは、うーん……ろうけん……たとえば、あなたの好きなものを見つけたときみたいに、目をぱっと大きくして、そういう顔で歩くのよ」
「好きなものを……見つけた、とき」
「そう。きれいなものを見たときの顔。あなた、今、ぜんぜん余裕がない顔してる。緊張で、顔がこわばっちゃってる」
余裕のない顔。たしかに、そうかもしれない。鏡の前の自分は、いつもより目が大きく見開かれていて、口元が硬かった。
「緊張してるのは、わかるけど。でもね、私たちは、お客様に『安らぎ』を届ける仕事だよ。自分が緊張してたら、お客様まで緊張させちゃう」
「……そう、ですね」
「だから、深呼吸しなさい。あと、口元を、少しだけ、ほぐしておきなさい。緊張してても、口元だけ、ふにゃってできるでしょ? 営業スマイルっていうの? あれって、けっこう、武器になるから」
「武器……」
「そう、武器。あんたがこれから使っていく武器は、この制服と、その身体と、あとは笑顔だ。ぜんぶ、使えるものは使いなさい」
その言葉に、なんだか、少しだけ、肩の力が抜けた。
窓の外から、風が吹き込んでくる。目は青空だった。まばゆいひかり。ターミナルのガラス越しに、自分が映っている。紺と黄の制服を着た、ひとりの女の子。胸元が開いていて、ちょっとだけ、勇ましく見える。笑えば、もしかしたら、もう少し、マシに見えるかもしれない。
口元を、ほんの少しだけ、ほぐしてみた。ふにゃ、と。
すると、自分の顔が、鏡の中で、優しくなった。緊張の殻が、ぽろりと、ひとつ剥がれ落ちた気がした。
(……よし、かな)
滑走路の向こうで、飛行機が、エンジンの音を響かせている。今日、自分が乗る飛行機。まだエンジンはかかっていない。けれど、その機体は、朝の光をいっぱいに浴びて、いつでも飛べるぞ、と胸を張っているみたいだった。
新庄優奈、二十二年の人生で、いちばん大きな背伸びをした日。あと数時間もすれば、彼女の身体は、雲の上にある。
そのことをまだ、彼女は知らない。
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