高畑瑠夏と影に潜むアイツ〜darkness of heart
説明
高畑瑠夏には、誰にも言いたくない過去がある。それでも、彼女は懸命に今この時を生きていた。だが、彼女の心にはいつもいつもついて廻る『アイツ』が囁き続けていた。そして、彼女の人生が破滅か成功かは『アイツ』の気分次第。そんな彼女の一生をミステリアスに描きます。
エピソード1
第一話 五月の終わり、名古屋
名古屋の夕暮れは、
まだ淡い光を残していた。
五月の終わり、
日は長くなりつつある。
午後六時を過ぎても、
空の端にオレンジが焼き付いている。
瑠夏はアパレルショップのバックヤードを出て、
従業員用のドアをくぐった。
革のバッグを肩からかけ、
スマートフォンはポケットの中。
一日中立ちっぱなしで、
足の裏がじんじんする。
表通りに出ると、
夕方の熱気がまだアスファルトにこもっていた。
車の排気ガスと、
どこかの店から流れる音楽が混じる。
彼女は歩きながら、
軽く首を回した。
肩の筋肉が軋む。
今日のシフトは朝の九時から。
客の対応、
品出し、
レジ。
息継ぎのない時間だった。
それでも、
彼女は文句を言わない。
この仕事は、
まだましな方だ。
彼女の服装は、
シンプルだった。
黒のノースリーブトップス。
襟ぐりは深めで、
鎖骨の線があらわになる。
下はベージュのタイトスカート。
丈は膝より少し上で、
歩くたびに布が太ももに張りつく。
足元はフラットのバレエシューズ。
化粧は薄い。
アイラインと口紅だけ。
それでも、
彼女が歩くだけで視線が集まる。
背筋が伸びている。
肩は落ちているが、
姿勢は崩れない。
胸元に視線が落ちるのは、
もう慣れている。
追い抜いたサラリーマンが振り返る。
すれ違う女子大生が、
目だけで彼女を値踏みする。
瑠夏はそれらを無視して、
まっすぐ前を向いている。
交差点で信号待ちをする。
彼女はバッグからスマートフォンを取り出し、
何げなく画面をのぞいた。
通知はない。
友達からの連絡も、
仕事以外のメールも。
彼女はスマートフォンをバッグに戻し、
信号が青に変わるのを待った。
そのとき、
彼女の耳に、
声が届いた。
「すみません、お時間大丈夫ですか?」
声は男性のものだった。
低めだが、
わざとらしい明るさを含んでいる。
瑠夏は顔を上げずに、
横目で声の主を確認した。
スーツ姿の男。
ネクタイはゆるめ。
名古屋の街でよく見る、
キャッチの類だった。
クラブやバーの勧誘、
またはアンケートと称したナンパ。
どちらにせよ、
彼女にとってはただのノイズだ。
「結構です」
彼女は短く答えた。
顔は見ない。
信号はまだ赤だったが、
彼女は歩道の端に移動した。
距離を取る。
それだけで、
普通は諦める。
しかし、
その男は引き下がらなかった。
「いや、ちょっとお聞きしたいことがあって。この辺りで何かいいお店知りませんか?」
しつこい。
瑠夏は内心で舌打ちした。
表面には出さない。
冷たい表情を保ったまま、
彼女はかぶりを振った。
「知りません」
「えー、そう言わずに。ちょっとだけでも」
男は一歩、
踏み込む。
距離が縮まる。
瑠夏は無意識に、
バッグを胸の前に持ち上げた。
防壁の代わりだ。
彼女の指が革の表面をなぞる。
信号が青に変わった。
彼女は無視して横断歩道を渡り始めた。
しかし、男も追ってくる。
「待ってくださいよ。そんなに怖がらないでください。
俺、悪い人間じゃないんですけど」
その言葉が、
瑠夏の何かを刺激した。
悪い人間じゃない。
そう言う人間ほど、
質が悪い。
彼女は足を止めて、
振り返った。
初めて、
直接男を見た。
三十代半ば。
笑顔だが、
目の奥が笑っていない。
その目が、
彼女の胸のラインを這う。
「しつこいですよ」
声は低く、
冷めきっていた。
男は一瞬、
表情を硬くしたが、
すぐに笑みを戻す。
「いやあ、本当に、ちょっとだけ話聞いてもらえませんか? ここじゃあれなんで、近くのカフェでも」
男が手を伸ばす。
彼女の腕に触れそうになった、
そのとき。
瑠夏のからだが、
反射的に反応した。
一歩後退。
肩が上がる。
呼吸が浅くなる。
指の先がかすかに震えた。
記憶ではなく、
からだが覚えている。
触られるということ。
その先にあるもの。
彼女の肌が総毛立つ。
男の手を見つめる。
その手のひらの、
暖かそうな、
柔らかそうな、
そんな感触を想像しただけで、
吐き気がした。
「触らないでください」
言葉は、
絞り出すようだった。
男は手を引っ込めたが、
まだ笑っている。
「すいませんすいません。でも、本当にいい娘さんだなと思って。ちょっと話すだけでも」
そのときだった。
瑠夏の耳の奥で、声がした。
——————面白いじゃない。
彼女ははっとして、
周囲を見回した。
誰もいない。
男が不思議そうな顔をしている。
だが、
その声は確かに聞こえた。
彼女の内側から。
脳髄に直接、
響くような声だった。
——————あの男、
お前が欲しくてたまらないんだよ。
目を見ろ。
汚らわしいほどに、
欲望が滲んでいる。
瑠夏は唇を噛んだ。
この声の正体を知っている。
彼女の心の闇。
彼女が長年、
抱え続けてきたもう一人の自分。
普段は奥に押し込んでいるが、
こうして、
何かのきっかけで顔を出す。
特に、
男に絡まれたとき。
彼女の恐怖や嫌悪を餌にして、
這い出してくる。
——————逃げるのか?
いつもそうだ。
逃げて、隠れて、我慢する。
お前はそれが正しいと思っているのか?
「やめろ」
瑠夏は小声でつぶやいた。
男はそれを聞き取れず、
「え?」と首をかしげた。
「あの、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
男がまた一歩、
近づく。
その動作が、
闇の声をより活性化させた。
——————いい機会だ。
ちょっとからかってやれ。
あの男の欲望を、
もっと引き出してやれ。
お前ならできる。
そういう顔をしている。
瑠夏のからだに、
違和感が走った。
胸の奥が熱くなる。
彼女は男性恐怖症だ。
触られるのも、
見られるのも、
嫌悪の対象だ。
しかし、
この闇の声は、
その嫌悪を逆撫でする。
恐怖を官能に塗り替えようとする。
「大丈夫です。これ以上近づかないでください」
彼女はもう一度、
後退する。
しかし、男は追う。
「ちょっと、そんなに警戒しないで。俺、本当に悪い人間じゃないから」
——————悪い人間じゃない?
ふん。自分で言うやつに限って、そうじゃないもんだ。
でも、お前もそうだろ。お前は「いい娘」じゃない。AV女優をやってる。男に身体を売ってる。違うか?
その声が、
瑠夏の心臓を掴む。
「違う...」
彼女の声は、
かすれて出なかった。
自分でも気づかないうちに、
唇が震えていた。
男が怪訝そうな顔をする。
あたりは徐々に暗くなり始めている。
街灯がともり、
ネオンサインが色を放ち始める。
——————違わない。
お前の身体は、もう汚れている。
それを自覚しろ。
お前が触れられることを嫌がれば嫌がるほど、
身体は反応する。
そうだろ?
あの男の手がお前に触れたら、
お前はどうなる?
「やめろって...」
瑠夏は両手で顔を覆った。
指の隙間から、
男の姿が見える。
男は困惑しつつも、まだ離れない。
「すみません、体調悪いんですか? どこかで休みます?」
その言葉は、
一見優しげだった。
しかし、
その裏にある下心は、
彼女には手に取るようにわかる。
休もうと言って、
連れて行かれて、
そして——彼女は何度も経験してきた。
——————そうだ。
お前は知っている。
男はみんな同じだ。
お前を獣のように扱う。
でも、お前も同じだ。
お前はそれを受け入れてきた。
AVの現場で、カメラの前で。
お前はもう、普通の女じゃないんだ。
瑠夏の耳の奥で、
声が響く。
彼女は震えながらも、
顔を上げた。
目に涙がにじみそうになるのをこらえる。
男は怪訝な表情を浮かべているが、
目は欲でぎらついている。
——————どうする?
このまま帰るか?
また、
部屋に閉じこもって、
自分を慰めるか?
それとも——
声は、
甘く、
毒のように絡みつく。
——————ちょっとだけ、
遊んでみないか?
「...」
瑠夏は沈黙した。
からだの奥底で、
何かが蠢いている。
恐怖と、
それとは別の、
熱い何か。
彼女はそれを否定したい。
しかし、
闇の声は、
彼女の最も深いところを知っている。
彼女の孤独、
彼女の絶望、
そして彼女の身体の弱さを。
男が口を開いた。
「お嬢さん、本当に大丈夫? 顔が真っ青だよ。どこか、俺の知ってるカフェにでも」
その手が、
再び伸びた。
今度は、
彼女の肩に触れようとしていた。
瑠夏は、
動けなかった。
その手を見つめたまま。
心臓の鼓動が速くなる。
息ができない。
体が固まる。
その瞬間、
彼女の中で、
何かが切れた。
——————よし。
じゃあ、ちょっと、からかってやろうか。
瑠夏の唇が、
自然に動いた。
「...お兄さん、私のこと、そんなに気に入ったの?」
声が、
普段と違う。
柔らかく、
艶を帯びている。
男が一瞬、目を丸くした。
「え? あ、はい、もちろん」
男はにやつきながら、さらに近づく。
「じゃあさ、もっとちゃんと話さない? ここじゃあなんだし」
「うん...でもね」
瑠夏は一歩前に出た。
男との距離が、
逆に縮まる。
彼女は首をかしげ、
微笑んだ。
口元だけ。目は笑っていない。
「私、お兄さんみたいな人、好きなんだよ。だって、簡単に引っかかるから」
男の表情が、
一瞬で凍りついた。
瑠夏は続ける。
「あなたの目、全部読めるよ。私に触りたいんでしょ?
連れて行って、無理やりヤりたいんでしょ? 違う?」
声は冷めきっていた。
男は口をぱくぱくさせている。
「な、何言って...」
「女だからって、誰でもやれると思ってるの?」
彼女の言葉に、
男はたじろいだ。
一歩後退する。
周囲の視線が集まり始める。
男は赤くなり、うつむいた。
「...す、すみません」
そう言うと、
男は早足で立ち去った。
残されたのは、
瑠夏だけ。
冷たい風が吹き抜ける。
彼女は、笑みを消した。
——————ふん。つまらない奴だ。
もっと楽しめると思ったのに。
心の闇が、
毒づいた。
瑠夏はその声に、自分の中で反論する。
「...もう、いい。ああいうのは慣れてる」
——————そうか?
お前のからだは、まだ熱を持ってるけどな。
瑠夏は、
自分の胸に手を当てた。
確かに、
心臓が高鳴っている。
あの男の視線、
手の動き、
そのすべてが、
彼女の皮膚に残っている。
嫌悪感。
しかし、
その奥に、
何か、
熱いものがうごめいていることを、
彼女は知っている。
彼女は深く息を吸った。
そして、
再び歩き始める。
空は、
もう暗くなりかけている。
街灯が、
彼女の影を長く伸ばした。
その後ろ姿を、
誰かが見つめている気がした。
彼女は振り返らない。
振り返ってはいけないと、
知っているから。
最新エピソード
午後九時。
鍵を回す音が、
蛍光灯の唸りより小さく響いた。
ドアを閉めた瞬間、
外の熱気が断たれた。<
第十三話 雨のあと、檻の外
午後四時五分。
スタジオの空気が、
一本の糸を垂らしたみたいに静まっている。
<第十二話 映す者、映される者
午後三時。
スタジオの赤いランプが、
カメラの上で脈打つように灯った。
第十一話 獣たちの休憩室 -afterglow-
午後二時半。
スタジオのエアコンは効きすぎていた。
汗で張り付い







