説明
砂漠化した未来の地球を舞台に、過去の記憶を燃料として緑を産む「禁忌の装置」を巡る、孤独な男の喪失と再生を描いたSFクロニクルです。
エピソード1
その世界において、最も価値のあるものは「無音」だった。
絶え間なく鼓膜を震わせる砂粒の摩擦音。装甲板を削る乾いた風の悲鳴。それらが完全に遮断される場所を探すことこそが、スカベンジャーとして生きるカイにとっての、唯一の贅沢と言えた。
「――九、十、十一」
カイは暗闇の中で声を潜めながら、指先でボロ布の感触を確かめた。
一日一度、ボトルから貴重な水を数滴だけ滴らせ、愛用のゴーグルを磨き上げる。それはこの極限の世界において、およそ何の意味も持たない潔癖なルーチンだった。水は命の残量そのものであり、本来なら一滴たりとも無駄にはできない。だが、カイにとってこの行為は、自分がまだ「砂粒の一つ」に成り下がっていないことを証明するための、唯一の儀式だった。
念入りに拭い終えたゴーグルを顔に装着する。レンズ越しに見える世界は、相変わらず酷薄な灰色と黄土色に染まっていた。
ここ、かつて「シブヤ」と呼ばれた廃都の最深部は、崩落した巨大な建造物の残骸が複雑に入り組む迷宮だ。地表を荒れ狂う「鉄の連盟」のスカウトたちも、ここまで深く潜ってくる根性はない。彼らは目に見える鉄クズと古びた弾薬を奪い合うことに血道を上げているが、カイが求めているのはそんな血生臭い代物ではなかった。
カイが求めているのは、古い絵本に描かれていた「森」だ。
幼い頃、まだ世界にわずかな色彩が残っていた頃、擦り切れた紙のページに描かれていた、見渡す限りの圧倒的な緑。誰も傷つけず、誰にも邪魔されず、ただ静かに朽ちていくことができる場所。彼にとってその幻の森は、生きるための目標ではなく、己の人生を美しく終わらせるための「孤独な墓標」だった。家族を守れず、ただ一人生き残ってしまった自分にふさわしい、静謐な終着駅。
「……奥か」
ボロ布を腰のポーチにしまい、カイは懐中電灯の光を前方に向けた。
崩落した地下区画の亀裂。そこから、奇妙なほど冷たく、そして「無臭」の空気が流れ出してきている。砂の臭いも、錆びた鉄の悪臭もない、完全なる空白の空気。
歩を進めるたび、足元で古いコンクリートの破片が砕ける音が響く。
やがて懐中電灯の放つ細い光の束が、空間の中央に鎮座する「それ」を捉えた。
それは、周囲の泥や瓦礫とは明らかに一線を画す、滑らかな曲面を持った銀色のポッドだった。数世紀もの間、時を止めていたかのように、その表面には塵一つ付着していない。旧文明の遺物――それも、軍事用ではなく、何らかの秘匿されたテクノロジーの結晶であることは一目で分かった。
「掘り出し物、というには不気味すぎるな」
カイは警戒しながら歩み寄り、ポッドの表面に手を触れた。
その瞬間、冷徹な金属の質感ではなく、まるで生き物の肌のような、微かな温もりが指先へ伝わってきた。
『――生体反応を感知。システム、再起動シーケンスに移行します』
鼓膜に直接響くような、澄んだ電子音声。
ポッドの表面に幾何学的な光のラインが走り、プシュー、と不気味なほどの静けさで圧搾空気が抜ける音がした。銀色の外殻が左右に割れ、内部から溢れ出たのは、淡い燐光を放つ粒子のアリアだった。
光の粒子は空中で収束し、やがて一人の少女の輪郭を結んでいく。
透き通るような銀髪に、旧文明の意匠を凝らした機能的な衣服。実体を持たないホログラムであることは、彼女の身体が時折、背景の闇を透過させていることから見当がついた。
『はじめまして、管理者様。私は環境再生支援ユニット、コードネーム【ナギ】。惑星規模の環境再生プログラムを全うするため、あなたのアシストを開始します』
少女――ナギは、丁寧に一礼した。その表情は完璧に作り込まれていたが、どこか機械的な冷たさを残している。
「……ナギ、だと?」
カイは一歩身を引いて、銃のグリップに手をかけた。「俺は管理者などではない。ただの通りすがりのスカベンジャーだ。お前の言う『環境再生』なんておとぎ話には興味がない」
『いいえ、あなたは私の封印を解きました。現在、この惑星の地表は98.6%が砂漠化しています。ですが、ここから北西に数百キロ離れた地点に、旧文明が遺した「土壌還流プラント」が存在します。そこへ到達すれば、本物の緑――あなたが求める森を、再びこの大地に蘇らせることが可能です』
「森……」
カイの胸が、わずかにドクンと跳ねた。
おとぎ話だ。そんなものは、とうの昔に枯れ果てたはずだ。だが、この少女の瞳には、嘘を吐くための「感情」そのものが欠落しているように見えた。
「本当に、緑があるのか。そこに」
『はい。私のデータベースに間違いありません。ただし――』
ナギのホログラムが、わずかに歪んだ。
『――私のシステムには、再起動時の衝撃による致命的なエラーが発生しています。環境再生機能を維持するための主動力源が、著しく摩耗しているのです』
「なら、動けないってことか?」
『いいえ。代替エネルギーの供給があれば、作動は可能です。当ユニットは、接続された人間の【主観的記憶】を電気信号および精神エネルギーに変換し、燃料として消費するシステムを緊急採用しました』
「記憶を……喰う、だと?」
カイが怪訝な声を上げた、その瞬間だった。
ナギの瞳が青く輝き、カイの脳裏に、強烈な熱を伴った「光」が逆流してきた。
「が、あ、あッ……!?」
頭蓋骨を内側からノミで叩き割られるような激痛。
視界が鮮やかな色彩で埋め尽くされる。それは、砂漠化する前の世界。まだ空が青く、水が豊かだった頃の、ある「記憶」だった。
夕暮れ時の、小さな食卓。
温かいスープの湯気。笑い合う、見慣れたはずの顔。
「カイ、たくさん食べなさい」と微笑む、優しい手のひらの感触。
それは、彼が過酷な荒野を生き抜く中で、心の奥底に大切に仕舞い込んでいた、かつての家族とのささやかな夕食の記憶だった。
その色彩が、ナギの体から放たれる銀色の光の中に、吸い込まれていく。
バラバラに砕け、燃焼し、灰になって消えていくのが分かった。
「やめろ……! それを、奪うな……!」
カイは床に膝をつき、頭を抱えて絶叫した。
守りきれなかった家族。その罪悪感と共に、彼をこの世界に繋ぎ止めていた唯一の絆。その大切な記憶が、目に見える速度で「消去」されていく。
やがて、痛みが引いた。
ハァ、ハァ、と荒い息を吐きながら、カイは冷たいコンクリートの床を見つめた。
頭の中の、ある一角が、完全に真っ白な空白に変わっていた。
誰かがいた。温かい場所があった。それは分かる。だが、その場所がどんな匂いだったか、彼らがどんな顔で笑っていたか、ディテールが完全に思い出せない。まるで、水に濡れた絵画の絵の具が、綺麗に拭い去られてしまったかのように。
『……代替エネルギーの徴収、完了。システム、安定期に移行。砂嵐の発生確率は、今後二十四時間で、じゅう、に、パーセント……ク、クフ、フッ』
ナギの声が響いた。
砂嵐の予報を告げる彼女の声に、突如として不気味なノイズが混ざる。それは、人間の感情を不完全に模倣したような、歪んだ笑い声だった。
『ご協力感謝します、カイ様。これで私は、あなたを「土壌還流プラント」――シオンの庭へと案内することができます』
カイはゆっくりと立ち上がった。
怒りで拳が震えていた。だが同時に、圧倒的な虚無感が彼を支配していた。
大切なものを奪われた。しかし、奪われたという事実だけが残り、その実体がもう思い出せない。
「お前は……悪魔の機械だな」
カイは冷たく言い放ち、愛用のゴーグルを厳しく指先で直した。
『私はただの環境再生ユニットです。目的地の座標を提示します。さあ、旅を始めましょう。本物の緑に溢れた、あなたの墓標を探すために』
ナギは静かに微笑んだ。そのホログラムの足元から、微かな、しかし確かに、現実の砂を押し退けて、一輪の小さな、白い名もなき花が急速に芽吹き、そして一瞬で枯れていった。
カイはもう、自分が失ったものの大きさを正しく測ることすらできない。
ただ、胸に残る動機――「森へ行く」という乾いた意志だけを道標に、彼は銀色の少女と共に、光の届かない地下区画から、再び地獄のような砂塵が舞う地上へと、不可逆の一歩を踏み出した。
最新エピソード
最初の一歩を踏み出してから、どれほどの時が流れたのだろうか。
男――かつてカイと呼ばれたその旅人は、相変わらず灰色のグラデーションに包まれた世界を歩き続けていた。
彼には、もう
世界は、静寂に満ちていた。
地表を狂ったように狂い回っていた熱風はいつの間にか凪ぎ、不快な砂粒の摩擦音も、電子機器の耳障りなノイズも、すべてが深い闇の底へと沈み込んでいた。
<砂の海が終わり、世界の果てにそびえ立つ「シオンの庭」が見えたとき、カイにはもう、それが何のために目指していた場所なのか、正しく認識できなくなっていた。
視界からほとんどの色彩が脱落し
「シブヤ」の廃墟を後にしてから、十日の月日が流れた。
世界の境界線は、どこまで行っても変わらない。空は濁った鉛色、大地は波打つ黄砂の海。地平線の彼方から吹き付ける熱風が、カイの防護外







