説明
エンジニア崩れの冴えない中年男性ハヤシは、ある日、アパートのベランダに出て、桜並木を見ながら、ビールを飲む。
ふと、隣部屋のベランダを見ると、そこには…
エピソード1
春の休日の昼下がりというのは、時として人を無防備な怠惰へと誘う。
エンジニアとしてはとうの昔に燃え尽き、今ではただ古びたアパートの一室で日々の糧を稼ぐだけの男、ハヤシにとって、それは数少ない慰めの一つだった。彼はぬるくなった缶ビールを片手に、狭いベランダへと身体を滑り込ませた。きしむアルミサッシの音が、午後の静寂に不似合いなアクセントを加える。
眼下には、まるで薄墨で描かれたような住宅街が広がり、その向こうには、この季節の主役である桜並木が淡い桃色の帯となって続いていた。満開をわずかに過ぎ、風が吹くたびに一片、また一片と花びらが舞い散る様は、終わりゆく祭りの寂寥感を漂わせている。ハヤシは手すりにもたれかかり、その儚い光景から目を離せずにいた。金属の冷たさが、薄手のスウェット越しにじわりと体温を奪っていく。彼は缶を傾け、炭酸の気の抜けた液体を喉へと流し込んだ。ビールの苦みと、心に澱のように溜まった中年男の感傷が、舌の上で奇妙に混じり合う。これが、俺の休日か。悪くはない。だが、決して良くもない。ただ、時間が過ぎていくだけだ。
ふと、彼の視線が桜並木から逸れ、吸い寄せられるように右隣へと動いた。201号室と202号室を隔てるのは、胸の高さほどの、安っぽい樹脂製の衝立一枚。プライバシーなどという概念を設計段階で忘れてしまったかのような、不用心な間仕切りだ。その向こう側、202号室のベランダには、一本の短い物干し竿が渡してあり、そこに鮮やかな一点の色彩が揺れていた。
ピンク色の、ブラジャーだった。
それは、つい最近この部屋に越してきた女子大生――アイの部屋だ。ハヤシはその事実を知っていた。廊下ですれ違うたびに、小さな声で「こんにちは」と挨拶を交わすだけの関係。しかし、彼のくたびれた日常において、彼女の存在は密かな、そして疚しい光だった。その光の持ち物がいま、無防備に午後の陽光を浴びている。繊細なレースの装飾が施された、若々しいデザイン。ハヤシの目は、そこに縫い付けられたかのように動かなくなった。これは見てはいけないものだ。彼の内で、かろうじて残っていた理性の残骸がそう警告する。だが、彼の視線は裏腹に、その柔らかな膨らみを想像し、布地が触れるであろう肌の滑らかさを心に描いていた。エンジニアとしての彼の頭脳は、かつて複雑な回路図を追っていたように、今はただ一つの対象――若い女の私的な衣類――のディテールを執拗に分析している。このピンクを選ぶ感性。きっと彼女は、俺のような男が決して立ち入ることのできない、華やかで甘い世界に住んでいるのだろう。そんな陳腐な妄想が、ビールの酔いと混じり合って思考を鈍らせていく。
その時だった。カチャリ、と微かな音がした。202号室のベランダに通じるガラスドアが、静かに横にスライドする。ハヤシの心臓が、大きく跳ねた。まず現れたのは、白い指先。そして、すらりとした腕。やがて、部屋着姿のアイが、陽光の中にその全身を現した。彼女は物干し竿に干された洗濯物を取り込もうとしているらしかった。ハヤシは息を呑んだ。まるで、時間が引き伸ばされたかのような、奇妙なスローモーションの映像を見ているかのようだ。彼女が物干し竿へと手を伸ばす。その指が、例のピンク色のブラジャーに触れようとした、その瞬間。
ふと、彼女はこちらを向いた。
何の脈絡もなく、ただ、そこに誰かがいる気配でも感じ取ったかのように。
そして、二人の視線が、衝立越しに、真正面から交錯した。
ハヤシの視線が、彼女の顔ではなく、その手元にあるブラジャーに注がれていたという事実も、白日の下に晒されたまま。
その瞬間、引き伸ばされていた時間のゴムが、パチンと音を立てて現実へと戻った。マズイ。その三文字が、彼の脳内で警報のように鳴り響く。血の気が、足元から急速に引いていくのが分かった。何か言わなければ。桜を見ていたんです、とか。天気がいいですね、とか。しかし、彼の喉はセメントで固められたかのように、一片の音も発することを拒絶した。ただ、間抜けな中年男が、隣人の下着を凝視していた、という動かしがたい事実だけが、二人の間に横たわっている。
アイの表情に、変化はなかった。驚きも、嫌悪も、怒りも浮かんでいない。ただ、すっと全ての感情が抜け落ちたかのような、能面じみた無表情がそこにあるだけだった。それはどんな罵倒よりも、どんな軽蔑の眼差しよりも、ハヤシの心を深く抉った。彼女は彼から視線を外すと、何の躊躇いも見せずにブラジャーをハンガーから外し、そのままくるりと身体の向きを変えた。そして、先ほど出てきたのと同じように静かにガラスドアを開け、部屋の中へと姿を消した。ドアが閉まる、最後のカチャリという音が、ハヤシの敗北を告げるゴングのように響いた。
ベランダには、再びハヤシ一人だけが取り残された。
彼はゆっくりと顔を桜並木の方へと戻した。花びらは、先ほどと何も変わらず、ただ静かに舞い続けている。世界の何もかもが、この数分間の出来事などなかったかのように、平然と続いている。彼は震える手で、ぬるいきわみのビールを再び口元へと運んだ。舌に広がるのは、もはや苦みではなく、ただただ自分の愚かさと惨めさを濃縮したような、救いのない味だった。
最新エピソード
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