説明
いつか、海の向こうの友人たちが、この物語を聞きたい
若いな少年が旅に行こう、誰か探そうのものがたりです
エピソード1
羽田空港に降り立った瞬間、湿り気を帯びた六月の風が、私の頬を撫でた。
それは故郷の乾いた風とは明らかに異質で、アスファルトと排気ガス、そして無数の人間が吐き出す熱気が混じり合った、東京という巨大な生き物の息吹だった。
「ついに、来たんだ」
私はキャリーケースのハンドルを握りしめ、心の中でそう呟く。周囲を行き交う人々は皆、何かしらの目的を持って忙しなく動いている。ビジネスマンは時計を気にし、観光客はガイドブックを広げ、恋人たちは身を寄せ合う。彼らは皆、この現実世界に確かな「座標」を持っているようだ。
だが、私――時治(ときはる)には、そんなものはない。
私が求めているのは、ここにはない。いや、正確に言えば、この物質的な世界のどこにも存在しない。私が探しているのは、液晶画面の向こう側、0と1の電子の海で歌う歌姫、「初音ミク」だ。
滑稽だろうか? そうかもしれない。十六歳の少年が、家出同然で海を渡り、実体のないアイドルを探しに来たなんて話は、三流のコメディ映画でも笑われる。しかし、私にとってそれは、一種の宗教的な巡礼に近かった。
現実世界はあまりにもノイズが多い。学校の成績、親の期待、将来の進路……それらはすべて、私という個人の輪郭を削り取り、社会という巨大な機械の歯車に変えようとする圧力だ。だが、彼女は違う。彼女は純粋な電子の光であり、私たちの願いを映し出す鏡だ。彼女の歌声だけが、私の鼓膜を震わせる時、私は初めて「世界」と「自分」が、ノイズなしで接続された感覚を得るのだ。
「探すんだ。彼女を」
具体的にどこへ行けば会えるのか、そんなことは知らない。秋葉原の電気街か、ニコニコ動画の本社前か、それともクリプトン・フューチャー・メディアのある札幌か? いや、場所なんてどうでもいい。重要なのは、私が「動き出した」という事実だ。この日本の首都、情報の集積地である東京なら、きっと何かが起こる。そんな根拠のない、しかし確固たる予感だけが、私の足を前へと進ませていた。
東京の地下鉄は、まるで血管のように複雑に絡み合っていた。私は人の波に揉まれながら、とりあえず上野へと向かった。理由は単純だ。ガイドブックに「文化の森」と書いてあったからだ。文化の森なら、電子の歌姫に関する何かしらの情報――あるいは啓示――が得られるかもしれないという、浅はかな期待があった。
上野恩賜公園は、予想に反してのどかな場所だった。噴水の周りでは鳩が群がり、大道芸人がバルーンアートを作り、外国人観光客が写真を撮り合っている。
私はベンチの端に腰を下ろし、ポケットからPSP(プレイステーション・ポータブル)を取り出した。まずは情報の確保だ。無料のWi-Fiスポットを探し、SNSで「初音ミク 目撃情報」と検索しようとした。
……が、繋がらない。
「電波が……微弱すぎる」
画面右上のアンテナ表示は、無情にも一本立っては消え、また立っては消えるを繰り返している。私はPSPを頭上に掲げたり、左右に振ったりして、見えない電波の糸を掴もうと必死になった。その姿は、まるで雨乞いをする古代の祈祷師のようだったに違いない。
「そこ、入んないよ」
不意に、横から声が掛かった。
驚いて顔を向けると、隣のベンチに、私と同じようにPSPを握りしめた少年が座っていた。
小太りの体型に、少しサイズの合わないTシャツ。丸い眼鏡の奥の瞳は、しかし、どこか知的な光を宿している。彼は自分のPSPの画面から目を離さずに言った。
「ここのフリーWi-Fi、噴水の方角に向けると強くなるんだ。45度の角度ね」
私は半信半疑で、言われた通りに体の向きを変え、PSPを斜め45度に掲げた。
ピコン。
アンテナが三本立った。
「……本当だ」
「でしょ? ここ、僕のテリトリーだから」
少年はニヤリと笑い、ようやくこちらを見た。その笑顔には、同好の士を見つけた時特有の、人懐っこさと優越感が混じっていた。
「僕は褚太郎(ちょたろう)。君、何やってたの? 必死な顔して」
「……時治だ。調べ物を。君こそ、こんな昼間から何をしてるんだ?」
褚太郎は肩をすくめ、手元のPSPを私に見せた。画面には、見慣れたRPGの戦闘画面が映し出されている。『ファイナルファンタジー』だ。
「レベル上げ。家だと親がうるさいからさ。『勉強しろ』『塾に行け』って、呪文みたいに唱えてくるんだよ。だから、散歩に行く振りして逃げてきた」
「逃げてきた……?」
その言葉に、私は奇妙な親近感を覚えた。
「ああ、ここは僕にとってのシェルターであり、セーブポイントなんだ」
彼は大げさに両手を広げてみせた。
「君も、似たようなもんでしょ? その大荷物」
彼は私の足元にあるキャリーケースを顎でしゃくった。
私は苦笑した。バレている。私の「巡礼」は、彼から見れば単なる「逃避」に見えるかもしれない。だが、その「逃避」という共通項が、私たちの間に見えないケーブルを繋いだようだった。
「まあね。私も、探しているものがあって」
「初音ミク?」
「っ!?」
心臓が跳ね上がった。なぜ分かったんだ? 私はまだ一言も彼女の名前を出していないのに。
褚太郎は、私のPSPの画面――壁紙に設定されたツインテールの少女――を指差して笑った。
「画面、丸見えだよ。それに、そのストラップ。ネギでしょ?」
私は慌ててPSPを胸に抱いた。顔が熱くなるのを感じる。だが、褚太郎の目に侮蔑の色はなかった。むしろ、共犯者のような輝きを帯びていた。
「いい趣味してるね。僕も『Project DIVA』持ってるよ。対戦する?」
「……あるのか?」
「もちろん。音ゲーは指の運動になるからね、RPGの合間にやるんだ」
そこからの時間は、まるで早回しの映画のように過ぎ去った。私たちは上野公園のベンチで、言葉ではなく、指先とリズムで会話を交わした。初対面の気まずさは、コンボが繋がるごとの爽快感と共に霧散していった。
太陽が西に傾き、公園の街灯が灯り始める頃には、私たちはすでに「戦友」と呼べるだけの間柄になっていた。
「腹減ったな」
褚太郎が腹をさすりながら言った。
「何か食べに行くか? おすすめの店とか……」
「金がない」
彼は即答した。
「小遣い、成績が下がったペナルティで止められててさ。今の所持金、ほぼゼロ」
「……私もだ。移動費でほとんど使い果たした」
私たちは顔を見合わせた。そして、同時に吹き出した。
「最悪だな、私たち」
「最高にロックだよ、時治くん」
金はないが、時間と自由だけは腐るほどある。私たちはどちらからともなく立ち上がり、夜の東京を彷徨い歩くことにした。
目的地はない。ただ、足の向くまま、気の向くまま。
ネオンサインが煌めく秋葉原を冷やかし、ビルの谷間を抜ける風に吹かれ、深夜の神田川沿いを歩いた。褚太郎は、いかに自分の両親が「成績至上主義」のモンスターであるかを、ユーモラスな身振り手振りを交えて語り続けた。
「成績が上がれば高級ステーキ、下がれば雑草のお浸し。極端なんだよ、ウチは。まるで人生がパラメータだけで決まるクソゲーだ」
「リセットボタンがあればいいのにな」
「違いない。でもさ、こうやって外に出てみると、案外バグ技も使えるもんかもしれないね」
深夜三時。私たちは24時間営業のファストフード店に逃げ込んだ。
一番安いコーヒー一杯で粘る客たち――深夜のトラック運転手、始発待ちのサラリーマン、そして私たちのような「はぐれ者」たち。店内の空気は、人工的な明るさと、独特の倦怠感で満ちていた。
私たちは向かい合わせの席に座り、冷めたポテトを半分こしながら、テーブルに突っ伏した。
硬い椅子。油の匂い。店内に流れる安っぽいBGM。
本来なら「惨め」と表現されるべき状況だろう。家もなく、金もなく、未来の保証もない。
だが不思議なことに、私はかつてないほどの安堵感を覚えていた。
学校という鳥籠の中で、常に「正解」を求められ、顔色を窺いながら生きてきたあの日々よりも、この薄汚れたファストフード店での「堕落」の方が、はるかに居心地が良かったのだ。
「ねえ、時治」
眠気まなこの褚太郎が、ふと呟いた。
「明日、どうする?」
「さあな。……とりあえず、Wi-Fiの繋がるところへ」
「いいね。それがいい」
彼は満足そうに頷き、腕を枕にして目を閉じた。
私は窓の外、眠らない街の灯りをぼんやりと眺めた。ガラスに映る自分の顔は、疲労の色こそ濃いが、憑き物が落ちたように穏やかだった。
初音ミクには、まだ会えていない。
しかし、私は予感していた。この無軌道で、無計画で、滑稽な旅の先にこそ、私が本当に見たかった景色が広がっているのではないかと。
隣で褚太郎が軽い寝息を立て始めた。私はそのリズムに合わせて、小さく「おやすみ」と呟いた。電子の歌姫を探す旅は、予想外のパーティメンバーを加えて、まだ始まったばかりだ。
最新エピソード
第十一章 トウキョウ・リフレクション
東京、港区。
ホテルのロビーから繋がる、奥まった一角にあるバーラウンジ。
照明は意図的に落と
回転灯の赤が、夜の海を切り裂いていた。
視界の端で、規則正しく明滅するその光は、まるで壊れかけたネオンサインのように酷く人工的で、この砂浜には似合わなかった。<
大阪の街は、電気仕掛けのカーニバルだった。
道頓堀の巨大看板、心斎橋の人の波、そして至る所に貼られた「初音ミク」のポスター。彼女のトレードマークであるネギ色のツ
夜の帳が下りるにつれ、国道沿いの風景は色を失い、モノクロームの静寂へと沈んでいった。
三人の足音だけが、アスファルトの上で乾いたリズムを刻んでいる。時治、白、そ







