Isshoku Ichie
説明
ミシュランという“偽りの神”の王座を捨て、業界から追放された天才料理人・葵は、彼女の戦車“風来坊”と契約を結ぶ!脳内に響く謎の“システム”が告げる神託に従い、彼女は日本を巡り、“効率至上”の冷たい世界全体へ、敢然と宣戦を布告する!
料理を戦いの詩(うた)とし、時代に忘れられた“風土”の守り人たちと同盟を結び、大地に眠る魂を呼び覚ます!夏の生命、秋の絆、冬の畏敬……その燃え盛る意志は、“科学”を信仰する絶対理性派に“無価値な感情論”と一蹴され、「全日本青年料理人コンクール」という名の、最後の処刑台へと彼女を追い詰める。
そこで彼女を待つのは、“氷の皇帝”――西園寺新。そして、料理の魂を裏切った恩師!敵が誇る、完璧にして生命なき“神の御業(みわざ)”を前に、葵が召集したのは、彼女が唯一信じる仲間たち――畑から、山から、そして荒れ狂う海から駆け付けた、素朴なる生産者の軍団!
“皇帝”が放つ絶対零度(アブソリュート・ゼロ)が、“流浪者”の燃える生命と激突する時……料理の未来を賭けた最後の聖戦が、今、幕を開ける!
エピソード1
「ル・シエル」――フランス語で「空」を意味するフレンチレストランの厨房。
一皿の「オマール・ブルーと深海の泡(エスプーマ)」が、ちょうど葵の手によって完成したところだった。
皿は冷たく、オマール海老の身は正確に摂氏52度に管理され、ソースの泡の密度と持続性も完璧。皿の縁に飾られたハーブの葉が置かれた角度は、教科書の模範例と寸分違わない。
それは完璧な一皿だった。客観的、精確、冷静。まるで複雑な数学の公式が完璧に解かれたかのように。
だが、葵はそれを見つめても、心に一筋の喜びも感じられなかった。彼女に見えていたのは、世界最大の冷凍サプライチェーンから届いた、標準化されて切り分けられたロブスターの肉塊だけ。一週間前だろうと、三ヶ月後だろうと、あの零下六十度の倉庫から取り出されるのは、全く同じこの「部品」なのだと知っていた。
それには、鼓動がなかった。
この完璧な料理には、心臓の鼓動がなかった。
「葵、何をぼさっとしている?3番テーブルのお客様がお待ちだ」
料理長の声は、相変わらず氷のように冷たく、鋭利だった。
葵が顔を上げると、厨房とダイニングを隔てる小さなガラス窓の向こうで、3番テーブルの客がそのオマール海老を絶賛しているのが見えた。その顔には、「ミシュラン三つ星」というブランドを味わう満足感が浮かんでいる。
彼らが讃えているのは、「ル・シエル」という名前であって、このオマール海老そのものではない。
葵は皿を持ち上げ、恭しくボーイに手渡した。振り返った瞬間、鏡のように磨かれたステンレスの調理器具に映る、ぼやけた自分の姿を見た――真っ白なコックコートを身にまとい、高いコック帽をかぶり、無表情で、まるで精密機械の歯車の一つのようだ。
「これが、私の望んだものなの?」
心の奥底で、声がした。
その夜、葵は借りている小さなアパートに帰った。いつものようにすぐ翌日のメニューの研究を始めることなく、彼女はノートパソコンを開いた。
ブラウザに並ぶのは、グルメサイトではなかった。
【中古バン・トラック市場】、【キッチンカー内装・水電工事プラン】、【小型業務用厨房設備ガイド】……
パソコンの別のフォルダには、彼女が自ら描いた日本地図が保存されていた。そこには様々な色の画鋲で、長年、本や資料、先輩たちの口から集めてきた情報がびっしりと記されていた。
「北海道・根室・サンマ」、「山形・鶴岡・だだちゃ豆」、「山梨・一宮・桃」、「兵庫・淡路島・三年とらふぐ」……
一つ一つの名前の背後には、特有の風土があり、特定の季節、特定の環境でしか育まれない、唯一無二の生命力があった。
昼間の彼女は、ミシュランの星付きレストランで寸分の狂いもなく動く部品。
夜の彼女こそが、その小さな世界における、真の総責任者だった。
まだ構想段階のその夢に、彼女は「風来坊(フーライボー)」と名付けた。
この秘密の二重生活は三ヶ月続いた。あの日が来るまでは。料理長が再び、「品質の安定」のため、レストランが全面的に例のグローバルサプライチェーンの冷凍オマール海老を採用し、あの遠い小さな漁港との季節契約を打ち切ると宣言した時、葵は潮時だと悟った。
彼女は静かにコックコートを脱ぎ、きちんと折り畳んで、手術台よりも冷たい料理台の上に置いた。
「料理長。料理の魂は、チェーン店の倉庫からではなく、風と、土と、生産者の心臓の鼓動から生まれるものだと、私は思います」
彼女は深く一礼し、料理長の愕然とした視線の中、十年近く奮闘したその場所を、一筋の未練もなく後にして去っていった。
*
一ヶ月後、三浦半島。
初夏の陽光が、あらゆるものを暖かな金色に染め上げていた。葵は彼女の「風来坊」にもたれかかり、自分のために淹れた一杯のコーヒーを飲んでいた。この車は、彼女の全財産と心血を注ぎ込んだもので、夜中に描いた無数のスケッチと細部に至るまで寸分違わなかった。
彼女は勝利した。これは逃亡ではなく、出征だ。
自由を象徴するこの一杯のコーヒーを味わい終えると、葵は運転席に戻り、心に豪気が湧き上がるのを感じた。彼女は大型のタブレットを起動した。画面に表示されたのは、無数の目的地が記された、自作の日本地図だった。
しかし、画面上で煌めく百以上の候補地を見つめていると、巨大で、幸福な途方もなさが彼女を捉えた。
どこへ行こう?
先に北海道へ行き、口の中でとろけるウニを追うか?それとも長野へ、清々しい香りがするという伝説の蕎麦を探しに行くか?一つ一つが夢であり、全ての夢が同時に目の前に並べられると、どこから第一歩を踏み出せばいいのか分からなくなってしまう。
彼女は指を伸ばし、画面の上でためらい、なかなかタップできなかった。
「お願い……」
彼女は目を閉じ、最も敬虔な信徒のように、無意識に低い声で祈った。
「私に導きを……本当の始まりを」
その思いと共に、彼女の指先が、ふわりと、感覚のままに画面のある一点に落ちた。
――キーン。
まるで水滴が深い淵に落ちるような、澄んだ心地よい音が、彼女の脳内に響いた。
葵ははっと目を開けた。
タブレットの画面上では、彼女が作った様々な印で埋め尽くされた地図が、まるで風に吹き散らされる砂絵のように無数の光の点と化し、そして素早く再構成されていく。
蔦と緑の葉で構成された、古風で精巧なコンパスローズの紋様が、画面の中央に花開いた。
紋様の下に、秀麗な字体がゆっくりと浮かび上がる。
『風土巡礼システム、起動』
『ホストの強烈な「尋味」の意志と、確かな知識の貯蔵を検知。システムはホストの魂と結合します』
葵は完全に度肝を抜かれた。こ……これは何?
彼女が衝撃から立ち直る間もなく、新たな通知が再びポップアップした。
『ホストの現在地に基づき、「旬」の食材を検索中……検索完了』
画面上、一つの金色の光点が、三浦半島の地図上でリズミカルに脈打ち始め、その隣にすぐさま詳細な情報ウィンドウが現れた。
【食材レーダー】
食材名:太陽の涙(トマト)
生産者:高橋農園 高橋正雄
旬の刻限:48時間
距離:4.8キロ
葵は無意識に、情報ウィンドウの下にある「風土ノート」と記された葉のアイコンをタップした。
【風土ノート】
この地の土壌は火山灰を豊富に含み、海風を受け、日照に恵まれている。「太陽の涙」は真夏の陽光と土地の全てのエネルギーを凝縮し、極めて高い糖度と複雑な果実酸を持つ。高橋正雄が十年もの心血を注いだ結晶であり、縁ある者でなければ目にすることはできない。
「十年もの心血を注いだ結晶……」
葵はその一文を見つめ、心臓がどきりと跳ねるのを感じた。
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