説明
人生のどん底で、私はかつての主治医、宋蘭に救いを求めた。彼は私に住む場所を与え、静かな優しさで、壊れた心を癒してくれた。
私は彼を愛してしまった。だが、彼は「元医師」という倫理の壁を越えられない。恋人にはなれない、と。
ならば、この想いはどこへ行く?私たちは、永遠の知己でしかいられないのか?
エピソード1
雨が降っていた。
暁星塵は文京区のコンビニエンスストアの軒下に立ち、濡れた白いレインコートの袖を絞った。傘を持ってくるのを忘れていた。いや、そもそも傘を買う余裕もなかった。
スーツケース一つ。それが彼の全財産だった。京都での暮らしを畳み、新しい人生を求めて東京に来たが、現実は思っていたよりも厳しかった。貯金は新幹線代と最初の数日分の宿代で底をつきそうだった。
コンビニの自動ドアが開き、サラリーマンが傘を広げて出ていく。暁星塵は店内に入り、イートインスペースの隅に座った。缶コーヒーを買い、温かさを手のひらで感じながら、携帯電話の画面を見つめた。
連絡先リストには友人の名前がいくつか並んでいたが、誰にも頼りたくなかった。みんな自分の生活がある。二十八歳にもなって、住む場所もないと打ち明けるのは惨めすぎた。
ただ一人だけ、例外があった。
宋 蘭。
二年前、暁星塵が心の病で入院していた時の主治医だった。冷静で、厳しくて、でも誰よりも暁星塵のことを理解してくれた人。退院後も時々、経過観察のメールをくれる。最後のメールは三ヶ月前。『調子はどうですか』という簡潔な一文だった。
暁星塵は返信を下書きした。消した。また書いた。
『宋先生、お久しぶりです。暁星塵です。突然で申し訳ありませんが、東京にいらっしゃいますか。お会いしてお話しできれば幸いです』
送信ボタンを押すのに、十分かかった。
返信は思ったより早く来た。
『今晩八時、診療所で。住所を送ります』
暁星塵の胸が高鳴った。宋蘭は忙しい人だ。それなのに、こんなに早く時間を作ってくれた。
雨は強くなっていた。暁星塵はコンビニを出て、傘なしで世田谷区にある宋蘭の診療所に向かった。電車に乗り、濡れた服のまま、窓に映る自分の姿を見た。やつれている。髪も伸びすぎている。こんな姿で宋蘭に会うのは気が引けたが、もう引き返せなかった。
診療所はモダンなビルの三階にあった。ドアを開けると、消毒液と紙の匂いがした。受付は無人。奥の扉から、低い声が聞こえた。
「どうぞ」
暁星塵は中に入った。
宋蘭は机の前に座っていた。白衣ではなく、黒いシャツとグレーのスラックス。二年前より少し髪が短くなっていた。でも、あの静かな黒い瞳は変わらなかった。
「お久しぶりです、宋先生」暁星塵は頭を下げた。水滴が床に落ちた。
宋蘭は立ち上がった。暁星塵を見た。その視線が全身を舐めるように動き、濡れた服、震える手、疲れた顔を確認した。
「中へ」
感情を読み取れない声だった。でも、宋蘭はすぐに奥の棚からタオルを取り出し、暁星塵に差し出した。
「ありがとうございます」
タオルを受け取る時、指が触れた。一瞬。宋蘭の指は冷たくて、硬かった。でも、その触れ方には妙な優しさがあった。
二人とも、一瞬だけ動きを止めた。
宋蘭が先に手を引いた。「座ってください」
暁星塵は患者用の椅子に座った。宋蘭は机を挟んで向かいに座る。かつての診察と同じ配置。でも、今は患者ではない。では何だろう。
「状況を聞かせてください」宋蘭の声は静かだった。
暁星塵は話した。京都での仕事がうまくいかなくなったこと。東京で新しく始めたいこと。でも、住む場所を見つけるお金がないこと。全部、正直に。
宋蘭は黙って聞いていた。指を組み、暁星塵の顔を見つめた。その視線には批判も同情もなかった。ただ、理解があった。
「世田谷に空いているアパートがあります」話し終えた後、宋蘭は言った。「私の所有物ですが、現在は使っていません。よければ、そこを使ってください」
暁星塵は息を呑んだ。「でも、それは…」
「友人として、の申し出です」宋蘭は静かに言った。「あなたとの医師患者関係は、とっくに終わっています。今は対等な立場です。遠慮は要りません」
「でも、ご迷惑では」
「迷惑なら提案しません」宋蘭の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑みとは言えない。でも、彼にとっては珍しい表情だった。「明日、案内します。十時にここで」
暁星塵は頷いた。「本当に、ありがとうございます」
立ち上がり、もう一度頭を下げた。宋蘭も立ち上がる。二人は診療所の入り口で向かい合った。
「気をつけて帰ってください」宋蘭は言った。「風邪を引きます」
「はい」
暁星塵は扉を開けた。振り返ると、宋蘭が窓際に立ち、彼の姿を見送っていた。雨の中、暁星塵の背中。宋蘭の表情は、この瞬間だけ、驚くほど柔らかかった。
でも、暁星塵が振り返った時には、もう元の無表情に戻っていた。
その夜、暁星塵はカプセルホテルの狭いベッドで眠れなかった。宋蘭の声が頭の中で響いていた。『友人として』。二年ぶりに会ったのに、あの人は変わらず優しかった。いや、優しいという言葉は違う。宋蘭は決して甘くない。でも、あの静かな気遣いは、誰よりも温かかった。
翌朝、暁星塵は約束の時間通りに診療所に現れた。宋蘭は既に待っていた。今日は白いシャツに黒いジャケット。車の鍵を手にしていた。
「こちらです」
宋蘭の車は黒いセダンだった。中は清潔で、かすかに宋蘭の香りがした。石鹸と、何か薬草のような匂い。
世田谷までの道のり、二人はほとんど話さなかった。でも、沈黙は心地よかった。宋蘭の運転は丁寧で、信号で止まるたびに、横目で暁星塵の様子を確認していた。
アパートは静かな住宅街にあった。三階建ての小さなマンション。宋蘭は三階の一室の鍵を開けた。
「どうぞ」
部屋は思ったより広かった。ワンルームだが、天井が高く、窓からは桜の木が見えた。床は畳。小さなキッチン。バスルーム。シンプルで、清潔で、暁星塵が夢見ていた以上だった。
「時々、ここで仕事をします」宋蘭は説明した。「でも、基本的には空いています。自由に使ってください」
「本当に、いいんですか」
「ええ」宋蘭は部屋を見回した。「家具も揃っています。足りないものがあれば言ってください」
暁星塵は窓辺に立った。桜の木。まだ蕾だったが、もうすぐ咲くだろう。春が来る。新しい人生が始まる。
「ありがとうございます」暁星塵は振り返った。「必ず、ちゃんと仕事を見つけて、家賃をお支払いします」
「急ぐ必要はありません」宋蘭は言った。「まずは落ち着いてください。それが先です」
二人は玄関で向かい合った。宋蘭が帰ろうとする。暁星塵は何か言いたかった。でも、言葉が見つからなかった。
「では」宋蘭は言った。「何かあれば連絡してください」
「はい」
宋蘭は去った。足音が階段を降りていく。暁星塵は扉を閉め、静かになった部屋の中で立ち尽くした。
胸の奥が、温かかった。
最新エピソード
六月。梅雨の季節。 雨の日が続いた。暁星塵は部屋で仕事をし、宋蘭は毎晩来た。 もう、言い訳はしなかった。「仕事がある」とも「通りかかった」とも言わなかった。 ただ、来た。暁星塵がいるから。 あ
あの夜から、二人の関係は変わった。 表面上は、何も変わらなかった。宋蘭は相変わらず週に数回来た。暁星塵は仕事を続けた。一緒に食事をし、時々話した。 でも、全てが違った。 言葉は減った。代わりに、
暁星塵は、三日間よく眠った。 宋蘭が毎晩来て、椅子に座って、見守ってくれた。話はしなかった。ただ、そこにいてくれた。 それだけで、充分だった。 四日目の夜、暁星塵は決心した。 「宋さん」夕食の
四月の雨は冷たかった。 暁星塵は渋谷で打ち合わせを終え、駅に向かっていた。人混み。ネオンの明かり。雨音。 交差点で、悲鳴が上がった。 交通事故だった。 車と自転車。倒れた人。血が、雨で流れてい







