田舎の海と、2人のだらだら夏休み
Synopsis
「もうあの場所(ハコ)には帰りたくない――」北近畿、波の音しか聞こえない集落の海で、不器用な2人の特別な夏休みが始まる。
大都会の高校での、息が詰まるようなストレスフルな日々。心がすり減ってしまった「詩織(しおり)」。
限界を迎えた彼女とともに、幼馴染の「駆(かける)」がやってきたのは、目の前に透明な日本海が広がる田舎町だった。
一日中畳の上でだらだら過ごし、船に乗ったり、山道を歩いたり。のどかな田舎の情景の中で、詩織の心は少しずつ解きほぐされていくが、楽しかった夏休みにもやがて終わりの時が近づき――。
Chapter1

山と海が力尽くで握手したような、そんな崖っぷちの集落。
国道沿いに車を止めると、フロントガラスの向こう側はすでに真っ青な世界だった。

「ひゃあ……! 海! かっくん、本当に海が目の前にある!」
車から飛び出した氷室 詩織(ひむろ・しおり)が、堤防にしがみつくようにして叫んだ。
ぶかぶかの白いTシャツの裾が潮風でパタパタと踊る。
ショートパンツから伸びた太ももは、都会のコンクリートジャングルで見た時より心なしか白く見えた。
長い黒髪をゆるくシュシュでまとめてあるが、後れ毛が風にあおられて鼻先に張り付いている。
それを手で払う動作すら、どこか抜けていて締まりがない。
俺、如月 駆(きさらぎ・かける)は車内のシートに深く背中を預け、大きく伸びをした。
首の骨が小さく鳴る。
スポーツブランドのロゴ入りTシャツは、東京からの八時間ですっかり汗を吸っていた。
「相変わらず、潮の匂いしかしないな」
窓を開けると、熱風と一緒に強烈な磯の香りが車内に流れ込んできた。
みいぃーん、みいぃーん、みいぃーん、みいぃーんみー......
頭上からは、山を埋め尽くす青葉からミンミンゼミの声が容赦なく降り注ぐ。
この強烈な緑と青のコントラスト。
東京のビル風にさらされていた身には、目眩がするほど暴力的な自然の色彩だった。
「都会のあの、きつきつでくっさい満員電車もない! あの息苦しい学校もない!」
詩織は堤防のコンクリートに両手を広げ、肺いっぱいに海風を吸い込んでいる。
普段は畳の上でトドのようにゴロゴロ転がっているくせに、こういう時だけは動きが素早い。
「かっくん、本当に連れてきてくれてありがとう。もう、あの満員電車に乗るだけでライフがゼロになるんだもん」
「お前のライフ、初期値が低すぎるだろ」
車外へ出て、トランクから重いボストンバッグを引きずり出す。
今回の旅は、詩織の「田舎に行きたい行きたい行きたい!」という呪詛のような大合唱に俺が屈した結果だった。
ここ最近の詩織は、高校の話になると「もうやだ」と幼児退行の兆候を見せていた。詳しい理由は聞いていない。
「もう……学校行きたくないなぁ」
波打ち際を見つめながら、詩織がぽつりとこぼした。
潮風に吹かれる肩の線が、少しだけ頼りなく内側へすぼまる。
いつものだらしない表情が消えて、妙に寂しげな横顔。
「はいはい。とりあえず夏休みの間は、その減りまくったライフを回復させることに専念しろ」
「うん。トドになる。ここの海で、一番大きなトドになるね」
「そこは人間であれよ」
俺がボストンバッグを肩にかけ直すと、足元でカサリと乾いた音がした。
「みゃおん」
アスファルトの隅、日陰の雑草から、キジトラの短い尻尾がのぞいている。
「あ、みぃちゃんじゃん」
声をかけると、キジトラは緑色の丸い両目でこちらをじっと見つめた。
それから、歩幅を確かめるようにして俺の足元へ近づいてくる。
「にゃあ」
「まだ生きてたか。元気そうだな」
しゃがんで耳の後ろを掻いてやると、みぃちゃんはすぐに目を細め、ゴロゴロと機関車のような音を喉の奥から響かせた。
野生をどこかに忘れてきたような甘え方だ。
「わあ、猫ちゃん! かっくん、その子、知り合い?」
詩織が目を輝かせて膝をついた。
砂埃も気にせず、膝を抱えてみぃちゃんの顔を覗き込む。
「俺が小学生の頃からここにいる居着き猫だよ。もう結構なお年寄りのはずだけどな」
みぃちゃんは詩織の指先に鼻を寄せ、ふんふんと匂いを嗅いだ。
それから、まるで値踏みをするように詩織の白い脛に自身の脇腹をこすりつける。
「あはは、くすぐったい! いい子だねぇ」
詩織の顔から完全に緊張が抜けた。
だらしなく口元を緩め、キジトラの背中を手のひらで丸ごと撫で回している。
その様子を見ていたら、都会の締め切った教室に束縛されていた日々が、ずいぶん昔のことのように思えてきた。
「おい、そら、誰かと思ったら駆やないか!」
ガラガラと大きな音を立てて、海岸沿いの国道の向かいにある古民家の引き戸が開いた。
潮風で黒ずんだ板壁の家から現れたのは、真っ黒に日焼けした巨漢だった。
頭に白いタオルを巻き、水色の長靴を履いている。伯父の源だ。
「源(げん)おじさん。久しぶり」
「おお、でかくなったなぁ! 東京の飯を食うて、もやしみたいになっとるかと思ったら、ええ肩幅しとるがな!」
源が豪快に笑いながら、俺の背中を叩いた。
乾いた大きな音が響き、肺の空気が押し出されそうになる。
漁師の手のひらは、ヤスリのように硬くて分厚い。
「これ、源、あんまり手荒に歓迎したら駆が縮んでまうがな」
続いて、小柄な老婆がひょこひょこと土間から出てきた。祖母のトミだ。
背中は少し丸くなっているが、よく動く小さな目は驚くほど元気そうだった。
「よう来たなぁ、駆。遠かったやろ。車、しんどかったなぁ」
「ばあちゃんも元気そうで安心したよ。……あ、こっち、幼馴染の詩織」
紹介すると、詩織はそれまでのみぃちゃんを撫でていた姿勢から、信じられないほどの敏捷さで立ち上がった。
膝についた砂を素早くはらい、すっと背筋を伸ばす。
「初めまして。氷室詩織と申します。この度は、急なお願いにもかかわらず温かく迎えていただき、本当にありがとうございます」
深々と頭を下げる。
その声は、いつも俺の部屋に勝手に上がり込んで「かっくん、ポテチ取ってー」と抜けた声を出す奴と同一人物とは思えないほど、凛としていて上品だった。
「あらまあ! 可愛らしいお嬢さんやなぁ。駆にはもったいないくらいやわ」
トミが顔をほころばせ、詩織の細い手を両手で包み込んだ。
「ようこそ。わしは源や。海の美味いもんは全部わしに任せとき!」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
詩織は上品な微笑みを浮かべたまま、完璧な角度でお辞儀を繰り返している。
(……おいおい。どの口がそのセリフ吐いてんだよ)
俺は心の中で毒づきながら、自分のバッグと詩織のピンクの巨大ボストンバッグを両手に提げた。
「さあさあ、外は暑いさかい、早う入り。冷たいもん用意しとるよ」
トミに促され、俺たちは潮風の通る広い玄関へと入った。
ひんやりとした板間の奥には、磨き抜かれた廊下と古い畳の部屋が続いている。
「ばあちゃん、これ。オフクロから頼まれてたお土産」
居間に上がると同時に、東京のデパ地下で買わされた重い菓子折りをトミに差し出した。
「まあまあ、気ぃ使わんでええのに。あの子も元気にしとるんか?」
「相変わらず忙しそうだけどな。元気だよ」
「そうか、ならよかった。後でゆっくり電話してみるわな」
トミは嬉しそうに仏壇の前に菓子折りを供え、手を合わせた。
「さて、荷物を二階に……って、あれ?」
振り返ると、さっきまで俺の後ろでお行儀よく立っていたはずの詩織の姿が、どこにもなかった。
ただ、二階へ続くギシギシという古い階段のきしむ音だけが、かすかに聞こえてくる。
「あいつ、もう上がったのか」
俺は両手に重いバッグをぶら下げたまま、階段を一段ずつ踏みしめて二階へ向かった。
あてがわれた部屋の襖の前に立つと、すでに中から『ブォーーー』という、年代物の扇風機が唸る大きな音が響いている。
襖をすっと開けた。
そこには、すでに見慣れた、しかしここが他人の家であることを完全に忘れたトドが横たわっていた。
畳の上に大の字になり、冷たい風を全身に浴びている。
ショートパンツから伸びた両脚はだらしなく開き、片方の膝が折れ曲がっていた。シュシュはすでに畳の上に転がっており、黒髪が周囲に散らばっている。
「おい、詩織。着いて五分で本性現すなよ。ばあちゃんたちにさっきの淑女モードが嘘だってバレたらどうすんだよ」
俺は部屋の隅にバッグをドスンと下ろし、呆れ声を隠さず言った。
「んぅ……だって、疲れたんだもん。八時間も車に乗ってたんだよ? お尻が真っ二つに割れちゃうよ」
「最初から二つに割れてんだろ。ほら、起きろ。荷物の整理くらいしろ」
「やだぁ……。今、畳と私がフュージョンしてる最中だから邪魔しないで……」
詩織は畳に片頬を押し付けたまま、眠そうな目で俺を睨んだ。
そのだらけたポーズのまま、扇風機の強い風を受けて白いTシャツの裾がパタパタと浮き上がる。

「!」
風がTシャツの襟ぐりを大きく広げた瞬間、鎖骨の奥にある豊かな胸の谷間が、はっきりと露出しかけた。
薄い生地が胸のふくらみをなぞるように張り付いている。
俺は慌てて顔を背け、窓の外の青い水平線を睨みつけた。
心臓が不必要に大きな音を立てるのを、蝉の声でかき消そうとする。
「おい! 少しは警戒心を持て! ここ、俺の実家だぞ!」
「いいじゃん、かっくんしかいないんだから……。ちょっと寝る……」
詩織はそう言い残すと、本当にスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
完全に無防備な寝顔。
さっきまで玄関先で「急なお願いにもかかわらず……」と完璧な挨拶をしていた女と、この畳の上でだらしなく口を開けて寝ているトドが同じ生き物だとは、到底信じられない。
「本当、猫被るのはうまいんだよな……」
俺は首筋の汗を拭いながら、回る扇風機の風を少しだけ分けてもらうために、詩織から離れた畳の上に腰を下ろした。
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「お前、宿題終わってねえのかよ。自業自得だろ」
「頼むってば如月(きさらぎ)! 数学のプリントの最後のページだけ見せて! 写すから! 一瞬で写すから!」
実家に戻ると、すっかり夜の帳が下りていた。
居間の畳の上には、すでに大皿に盛られた煮魚や、新鮮なイカの刺身、冷えた冷や麦が並んでいる。
「おい、遅か
夏休みが残り少なくなった頃。
じりじりと照りつける太陽の光は相変わらず凶悪だったが、夕方になると、どこか涼しい風が混じるようになっていた。
縁側で扇風機の風を独占している
十五分後。
船が砂浜に乗り上げるようにして停泊した。
「よし、着いたぞ!」
源おじさんの声に、詩織が「ありがとうご







