Synopsis
黄泉と現世が混ざり合う時。
Chapter1
第一章:境界の崩壊
岡南頼雄は、深夜のアパートの一室で、窓の外に広がる東京の夜景を虚ろな目で眺めていた。ベランダの手すりには、三度目となる自殺未遂の痕跡が残っている。昨晩、彼は再びあの手すりに足をかけ、この世界との決別を試みた。しかし、最後の瞬間に、幼い頃に母がくれた桃の缶詰の味を思い出し、なぜか足が止まった。
「生きる意味が、どこにもない」
彼はそう呟き、冷えたビールの缶を傾けた。テレビは深夜の再放送番組を流しているが、音は消されていた。社会から見放され、家族からも見捨てられ、自分自身さえも自分を必要としていない。そんな人生に、もう飽き飽きしていた。
その時、スマートフォンがけたたましく鳴った。
緊急地震速報ではない。見たことのない警告音だった。頼雄は面倒くさそうにスマホを手に取り、画面を覗き込んだ。
『全国緊急警報:異常事態発生。各地で原因不明の現象が報告されています。外出は厳禁。窓や扉を閉め、外部との接触を避けてください。』
「また何かの間違いか」
頼雄はそう思ったが、次の瞬間、窓の外で異変が起きた。
街灯の光が歪み、影が自立して動き始めた。道路を歩いていたはずの人の影が、本体から離れ、不自然な動きで歩道を這い回る。そして、影から黒い煙のようなものが立ち昇り、それが次第に形を成していく。
「な、なんだあれは…」
頼雄は窓に近づき、目を凝らした。
黒い煙は、人間の形をしているが、明らかに人間ではない。関節が逆に曲がり、首が異常に長く、顔には目も口もない。ただ、深い闇の穴が開いているだけだ。
その「何か」が、路上でタクシーを待っていたサラリーマンに襲いかかった。サラリーマンは悲鳴を上げる間もなく、黒い煙に包まれ、次第に透明になっていく。まるで存在そのものが消しゴムで消されるように。
そして、完全に消えた。
タクシーは空転し、運転手も同じ運命にあった。
「あれは…幽霊? でも、違う…」
頼雄の心臓が激しく鼓動した。長らく死を望んでいた彼だが、目の前で起きているのは、彼が想像していた「死」とはまったく異質なものだった。それは「消滅」であり、「存在の剥奪」だった。
スマホが再び鳴った。今度はニュースアプリの緊急配信だった。
『速報:カルト教団「黄泉の道」による禁断の儀式が実行され、生と死の境界が崩壊。黄泉と現世を隔てる「道反之大神」の結界が取り払われ、黄泉軍が現世に流入しています。政府は非常事態宣言を発令。』
次のニュースが続く。
『神道連合と仏教協会が共同で、黄泉への道を閉ざす儀式を準備中です。しかし、儀式の準備には最短でも24時間を要します。それまで、市民は各自で身を守ってください。』
そして、最も不可解ながら、最も具体的な情報が最後に添えられていた。
『民俗学者からの情報:古文献によれば、黄泉の魑魅魍魎は桃の実に弱い。桃は古来より邪気を払う力を持つとされています。桃の実、桃の枝、桃の木で作られた武器で対抗可能です。』
「桃…?」
頼雄はベランダの手すりを見た。あの手すりに足をかけた時、思い出したのは母がくれた桃の缶詰だった。甘く、柔らかく、生きている実感をかすかに与えてくれたあの味。
窓の外では、黒い煙のような存在──黄泉の魑魅魍魎が増殖していた。人間を次々と「連れ去り」、彼らの痕跡すら残さない。車は無人で衝突し、ビルの窓からは悲鳴が聞こえる。しかし、悲鳴はすぐに途絶える。
「あれが…死か」
頼雄は呟いた。
彼が求めていた死は、静かな終焉だった。苦痛からの解放だった。しかし、目の前で起きているのは、存在そのものの否定だった。人格も記憶も感情も、すべてを無に帰す「消去」だった。
その時、奇妙な感情が頼雄の胸に湧き上がった。
今まで感じたことのない、強烈な「生への渇望」だった。
「消えたくない…」
彼は自分でその言葉を口にしたことに驚いた。何年も、死にたいと願い、自殺を試みてきた男が、今、「消えたくない」と言っている。
「私は…生きたい」
その確信が、全身を駆け巡った。弱く、惨めで、社会の役に立たない自分でも、消えて無になることだけは拒否したい。この瞬間だけは、生きていたい。
頼雄はアパートの部屋を見回した。食料はほとんどない。武器らしい武器もない。だが、ニュースが言っていた。「桃」が効くという。
「桃…桃…」
彼は記憶を巡らせた。この街で桃を手に入れられる場所。スーパーはもう機能していないだろう。ならば──
「果樹園!」
郊外に、観光農園として運営されている桃園があった。季節は夏、桃の収穫時期だ。もし、収穫されずに残っている桃があれば…
頼雄はすぐに行動を開始した。ジャケットを着て、運動靴を履き、リュックサックに水とわずかな食料を詰めた。最後に、キッチンから包丁を手に取った。
アパートの廊下は異様に静かだった。隣人の部屋からは物音がしない。おそらく、もう誰もいないのだろう。
一階まで降りると、管理人室のドアが開いていた。中には誰もいない。ただ、テーブルの上に、管理人らしき人影の形に積もった灰のようなものが残っているだけだった。
「早く外に出なければ」
頼雄はそう思ったが、外はもっと危険だ。窓から見た通り、魑魅魍魎が蔓延っている。
彼は玄関のドアに手をかけたが、躊躇した。その時、背後から冷気を感じた。
振り向くと、廊下の奥から、あの黒い煙が漂ってきていた。煙は次第に人の形を成し、細長い腕を伸ばして頼雄の方に向かってくる。
「くっ…!」
頼雄はドアを開け、外に飛び出した。







