Synopsis
過労死した冬馬は、貧しい辺境領主トーマとして異世界に転生し、「女神の万物商店」を授かる。静かな農業生活を望む彼は、知らぬ間に神器や神級作物を使い、銀狼族の少女ラナを救う。二人は共に働きながら、荒れた領地を豊かな居場所へ変えていく。
Chapter1
キーボードを叩く指先が、自分のものとは思えないほど冷え切っていた。
深夜十一時四十二分。オフィスの蛍光灯は間引きされ、薄暗いフロアにはただ、パソコンの冷却ファンが発する低い唸りだけが響いている。画面に並ぶ数字の列がにじみ、何度瞬きをしても焦点が合わない。
遠野冬馬(とおのとうま)の背中は、椅子の背もたれに張り付いたように重かった。今週の残業時間はすでに四十時間を超えている。喉の奥が乾き、呼吸をするたびに胸の奥が小さく軋んだ。
「あと、このシートだけ……」
呟いた声はかすれ、乾いた空気の中に消えた。マウスを握る右手に力を込めようとした瞬間、視界の端がすっと暗くなった。
痛覚はなかった。ただ、身体を支える支柱が引き抜かれたかのように、頭がデスクに向けて落ちていく。暗転する視界の最後に見えたのは、デスクトップの隅で点滅する、保存を促すダイアログボックスだった。
*
次に目を開けたとき、光の眩しさに睫毛が震えた。
床も壁も天井もない。ただ、どこまでも白い空間が広がっている。漂うような浮遊感の中で、冬馬は自分の身体を見下ろした。スーツを着ているはずの身体は、輪郭が酷く曖昧で、まるで水に溶けかけた氷のようだった。
「あら、ようやく意識が戻ったかしら?」
鈴を転がすような声が頭上から降ってきた。
振り返ると、そこには非現実的なほど整った容姿の女性が立っていた。光を編み込んだような金髪が波打ち、身にまとった薄布が、存在しない風に揺れている。彼女の背後からは、柔らかな温光が放射状に広がっていた。
「私は女神アステリア。働きすぎて命を落としてしまった貴方を、こちらの世界へお招きしたの」
アステリアと名乗った女神は、人懐っこい笑みを浮かべて冬馬に歩み寄ってきた。その足元には波紋のような光が広がっては消えていく。
「過労死、ですか」
冬馬の声は静かだった。驚きよりも、あの終わりのない深夜残業から解放されたのだという、深い安堵が先に胸を満たした。もう明日の朝、目覚まし時計の音に怯えながら満員電車に揺られる必要はないのだ。
「そうなの。本当に気の毒なことをしてしまったわ。だからね、第二の人生として、剣と魔法のファンタジー世界へ転生させてあげようと思うの! どんな魔物も一撃で倒せる聖剣とか、国を滅ぼすレベルの最強魔法とか、世界を救う勇者の力とか……何が良い? 望むものを言ってちょうだい!」
アステリアは両手を広げ、いたずらっぽくウインクをした。
冬馬はしばらく沈黙した。提示された華やかな力の一つ一つを頭の中で反芻し、それらがもたらすであろう未来を想像する。
魔物との戦い。国同士の争い。人々の期待を背負った英雄としての重圧。
どれも、彼が求めているものとは対極にあった。
「……いえ、そういうものは必要ありません」
「えっ?」
アステリアの綺麗な眉が、意外そうに跳ね上がった。
「戦うことも、誰かを支配することも望みません。ただ……十分に眠れて、自分で作った温かいご飯を食べられて、誰にも邪魔されない静かな暮らしができれば、それでいいんです」
冬馬の言葉は本心だった。前世で彼が失っていたのは、ごく当たり前の生活の営みだった。土に触れ、作物を育て、陽が沈めば眠る。そのような穏やかな日々こそが、今の彼にとって唯一の贅沢に思えた。
「うーん、無欲ねぇ……。でも、何も持たずに異世界に行くのはさすがに危険よ? 最低限の生活を保障する何かがないと、またすぐに死んじゃうわ」
アステリアは人差し指を顎に当て、小首をかしげた。金色の髪がさらりと肩から流れ落ちる。
「そうだわ。これならどうかしら」
彼女が白く細い指先を振ると、冬馬の目の前に半透明の光る画面が現れた。そこには整然としたグリッド状の枠が並び、上部には『女神の万物商店』と書かれている。
「これはね、価値のある物をポイントに交換して、そのポイントを使ってあらゆる商品を購入できるシステムよ。種や食料、農具に家具、果ては衣類や薬まで、生活に必要なものは何でも揃っているわ」
冬馬は画面を凝視した。スクロールしてみると、確かに『最高級小麦の種』『鉄の鍬』『木製ベッド』といった項目が並んでいる。
「これなら、誰かと争う必要はありませんね」
「でしょう? 自分で作った農産物や、拾った魔石なんかを買い取ってもらって、ポイントを貯めればいいの。ただし、この商店に並ぶものはどれも私のお墨付き――つまり、この世界の基準で言えば神級か、最低でもSSS級の逸品ばかりよ。だから、初期状態ではポイントが全然足りないはずだから、地道に頑張ってね」
「分かりました。ありがとうございます」
冬馬は深く一礼した。頭を下げた瞬間、周囲の白い光が急激に輝度を増し、彼の意識を優しく包み込んでいった。
「新しい世界では、ゆっくり休むのよ――」
アステリアの少しお調子者のような、けれど温かい声が、遠ざかる意識の枠外へ消えていった。
*
肌を刺す冷気で、冬馬は目を覚ました。
背中に感じるのは、硬く湿った板の感触だった。身体を起こすと、骨が軋むような鈍い痛みが走る。前世の三十代の身体ではなく、明らかに細く、軽い。
見上げた天井には大きな染みがあり、そこから規則的に雨水が滴り落ちていた。
ポツン、ポツン。
床に置かれた、ひび割れた木桶がその雫を受け止めている。室内の空気はひんやりと冷たく、埃の匂いとカビの臭気が混ざり合っていた。
「ここが……」
自分の手を見る。指は細く、手のひらにはペンだこではなく、剣の柄を握っていたような薄い角質があった。
頭の中に、濁流のように見知らぬ記憶が流れ込んでくる。
彼の名はトーマ・アルヴェイン。十七歳。
大陸の辺境に位置する『アルヴェイン辺境領』の若き領主。とは名ばかりの、没落した貧乏貴族だった。両親は数年前に流行病で亡くなり、残されたのは、この雨漏りのする古い屋敷と、痩せ細ったわずかな畑、そして不気味な沈黙を保つ森だけ。領民と呼べる人々は疾うに立ち去り、今やこの領地にはトーマ一人しか残されていない。
「アルヴェイン辺境領、か……」
トーマはベッド――いや、ただの固い木枠に薄いシーツを敷いたものから立ち上がった。
身につけているのは、擦り切れて肘のあたりが薄くなったウールのシャツと、粗末な仕立てのズボンだけだ。窓の外に目をやると、どんよりとした灰色の雲が低く垂れ込め、雑草の生い茂る荒れ地が地平線まで続いていた。
これほど寂れた場所であれば、誰も彼を悩ませることはないだろう。上司の怒鳴り声も、深夜の電話も、終わらない資料作成もない。
トーマは深く息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たした。
「悪くない」
口元に自然と笑みが浮かぶ。ここから始めればいいのだ。まずは今日の雨を凌ぎ、明日の食べ物を確保する。
トーマは壁に立てかけられた、錆びだらけの鍬に手を伸ばした。金属部分は赤錆に覆われ、木製の柄は虫食い穴だらけで、一度硬い土を耕せば簡単に折れてしまいそうだ。
「まともな道具が必要だな」
そこで彼は、女神アステリアから授かった能力を思い出した。
「『女神の万物商店』、起動」
呟くと、視界の前にあの半透明の画面が静かに浮き上がった。
暖かな青い光が室内の薄暗がりを照らす。トーマは胸を躍らせながら、画面の隅に表示されているはずの初期数値を確かめるべく、視線を動かした。
そこには、簡素な文字でこう記されていた。
【所持ポイント:0】
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