人魚の鱗と純白の二枚貝 ――満月の海に沈む歌姫――
Synopsis
花咲美魚は、夏の終わりに友人たちと訪れた海で、海底洞窟に封じられていた美しい男神・海神を復活させてしまう。海神は美魚に眠る人魚の歌姫の力を狙い、友人たちを人魚化の呪いで支配しようとするが、海女神は美魚を守り、彼女にピンクの鱗の力を託して地上へ逃がす。
友人を救うため、美魚は銀・金・赤の鱗を手に、満月までに三つの試練へ挑む。歩美、燐、真愛、三上はそれぞれ海神の力に翻弄され、敵として立ちはだかるが、美魚は歌によって彼らの心に呼びかけ続ける。
力を使うほど人魚へ近づいていく恐怖の中、美魚は「自分の歌は誰かを縛るためではなく、帰りたい人を帰すためにある」と気づく。満月の神殿で海神と対峙した美魚は、仲間たちの想いを重ねた歌で純白の二枚貝を呼び戻し、海神を再び封印する。
しかし、その代償として仲間たちは渦に巻き込まれ、美魚だけが地上へ戻る。彼女の胸には、海女神の魂の欠片と海神の残響が宿っていた。
Chapter1
夢の中で、海は鳴いていた。
波の音ではなかった。もっと深いところから来る、低くて長い振動で、美魚はそれを耳ではなく胸の骨で聞いた。暗い水の底に白い光があって、近づこうとするたびに足が動かなくなり、光だけが遠ざかっていった。誰かが何かを言っていた。言葉の形をしていたはずなのに、目が覚めた瞬間にすべて溶けて、残ったのは右手の中の小さな感触だけだった。
ピンク色の鱗だった。
親指の爪ほどの大きさで、光の角度によって桃色にも薄紅にも見える、薄くて滑らかな欠片。どこから来たのか分からなかった。夢の中で拾ったのか、それとも最初からそこにあったのか。美魚はしばらくそれを掌の上で眺めてから、深く考えるのをやめてポケットに入れた。今日は海に行く日だった。
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「美魚、日焼け止め塗った?」
「塗った塗った」
「どうせ塗ってない」
「塗ったって言ってるじゃん!」
歩美が振り返って美魚の腕を見た。その目が「やっぱり」と言っていた。美魚は観念して手を差し出し、歩美が丁寧に白いクリームを伸ばしてくれる間、砂浜の眩しさに目を細めた。八月の終わりの海は、まだ夏の盛りと同じ顔をしていた。空は高く、波は白く、砂は足の裏を焼くほど熱かった。
「三上、荷物持ちすぎ」と燐が言った。「そんなに持ったら泳げないだろ」
三上はいつも少し後ろにいた。
歩美や燐が言い合いを始めると、笑って間に入り、美魚が困る前に荷物を持ってくれる。
男子らしく振る舞おうとしているのに、どこか自分の立ち位置を探しているような、そんな不器用さがあった。
「いや、これ全部必要なんで」三上が大きなクーラーボックスを砂に下ろしながら答えた。「飲み物、タオル、着替え、非常食、あと歩美さんが忘れそうなもの全部」
「私は忘れない」
「去年、水中眼鏡を車に置いてきたのは誰でしたっけ」
歩美が静かに目を逸らした。燐が笑い、三上が得意げな顔をした。真愛は少し後ろで、サンダルの砂を払いながらその様子を見ていた。
笑っていた。
けれど、その笑みは波打ち際に届く前に、どこか薄くなっていた。みんなの輪の中にいるのに、真愛だけが一歩外側に立っているように見えた。美魚が視線を向けると、真愛はすぐに明るい顔を作った。
「どうしたの、美魚ちゃん?」
「ううん。なんでもない」
そう答えながら、美魚は少しだけ引っかかった。真愛はいつも優しかった。誰かの言葉に笑って、誰かの後ろを歩いて、誰かが困ればすぐに手を伸ばす。けれど、真愛自身が何かを欲しがるところを、美魚はあまり見たことがなかった。欲しがらないのではなく、欲しがってもいいと思えていない。
そんな気がした。
波が足元まで来て、真愛のサンダルの跡を消した。真愛はそれをじっと見ていた。自分がそこにいた証拠が、海にさらわれていくのを確かめるみたいに。
夢の感触はまだ胸の奥にあった。白い光と、聞き取れなかった声と、動かなかった足の記憶。でも今は砂浜で、歩美が腕に日焼け止めを塗ってくれていて、燐が三上に文句を言っていて、真愛が波打ち際に向かって歩き始めていた。これが現実だった。これが今日だった。
今日は楽しい日だ、と美魚は思った。思うことにした。
「行こう」と美魚は言って、一番先に海へ向かって走った。
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水は透明だった。
足首まで浸かると、砂の模様が揺れながら見えた。膝まで入ると、水の冷たさが肌に馴染んで、夏の熱が少しずつ引いていった。腰まで来ると、波が押してくる力が分かって、美魚はそれに逆らわず体を預けた。
「深いとこ行くの?」と燐が隣で言った。
「ダイビングしに来たんだから当然でしょ」
「美魚、泳ぎ下手じゃん」
「下手じゃない、普通」
「普通って言い方が下手の言い換えだよな」
美魚は燐の頭に水をかけた。燐が「うわっ」と言って反撃してきて、二人でしばらく水をかけ合った。歩美が「二人とも、マスクが濡れる」と言って止めに来て、三上が「青春だ」と遠くから言った。真愛は少し離れたところで、水面を手で撫でるように触っていた。
ダイビングの装備は簡易なものだった。シュノーケルと水中眼鏡、フィン。本格的なスキューバではなく、透明な潮溜まりを縫って潜る程度の、夏の終わりの遊びだった。三上が事前に調べてきた入り江は、岩に囲まれた静かな場所で、観光客もほとんど来ない。地元の漁師はここでは潜らないと聞いたが、それは潮の流れが読みにくいからだと三上は言っていた。
「大丈夫なの、それ」と燐が言った。
「地元の人が潜らないのは、魚が少ないからだって。流れが穏やか過ぎて網が広がらずに使えないんだって」
「ふうん」
美魚はマスクを顔に当てて、水面に顔を沈めた。
世界が変わった。
音が遠くなり、光が屈折して揺れ、砂の上に魚の影が走った。岩の隙間に海藻が揺れ、小さな蟹が横歩きで消えていった。水は青く、透明で、底まで見えた。美魚はゆっくり息を吐いて、フィンを動かして前へ進んだ。
後ろに歩美の気配があった。燐が少し離れたところで泳いでいた。三上と真愛の影も見えた。五人が水の中に散らばって、それぞれの速度で岩礁の間を縫っていた。
美魚はポケットの中の鱗を思った。
防水のポーチに入れてあった。なぜ持ってきたのか、自分でも分からなかった。捨てようとしたわけでもなく、大切にしようとしたわけでもなく、ただ手放す気になれなかった。朝から何度か、ポーチの上から指で触れていた。触れるたびに、かすかに温かかった。
岩の向こうに、暗い裂け目があった。
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最初は気づかなかった。
岩礁の端を回ったとき、視界の隅に影があった。岩の割れ目というより、海底が垂直に落ちているような、暗い縦の裂け目だった。美魚は一度通り過ぎて、それから引き返した。
引き返したのは自分の意思だったのか、それとも何かに引かれたのか、後になっても分からなかった。
裂け目の縁に来ると、水流が変わった。周りの海は穏やかだったのに、ここだけ水が動いていた。渦ではなく、引き込むような、一定の方向への流れ。美魚はフィンを止めて、その流れを感じた。強くはなかった。むしろ優しかった。手招きに似ていた。
ポーチの中の鱗が熱くなった。
布越しに分かるほどの熱で、美魚は思わず腰のポーチに手を当てた。熱は続いていた。脈打つように、一定のリズムで。美魚は裂け目の奥を見た。暗かったが、完全な暗闇ではなかった。奥の方に、何か白いものが見えた。
後ろを振り返った。歩美たちの影は岩礁の向こうに消えていた。
美魚は裂け目に入った。
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洞窟は広かった。
外から見た裂け目の細さが嘘のように、内側は開けていた。天井は高く、壁は滑らかで、水は鏡のように静かだった。外の海の揺れが届かない、完全に閉じた空間だった。光源が分からなかった。壁が微かに発光しているのか、それとも水そのものが光を持っているのか、青白い薄明かりが洞窟全体に満ちていた。
美魚は水面に顔を出して、シュノーケルを外した。
息ができた。洞窟の中に空気があった。
「なに、ここ」と美魚は声に出した。声が反響した。
底を見た。
洞窟の中央、海底から少し浮いた位置に、それはあった。
二枚貝だった。
大きさが、おかしかった。美魚の身長より大きかった。横幅は両腕を広げても届かないほどで、表面は白かった。白というより、白しかなかった。汚れも、苔も、傷も、何もなかった。周囲の岩が暗い灰色と茶色をしているのに、その貝だけが完全に白く、完全に滑らかで、完全に静止していた。
生き物の気配がなかった。
海底の生態系から切り離されたように、その貝の周囲だけ何もいなかった。魚も、海藻も、小さな甲殻類も。貝の周囲一メートルほどが、完全に空白だった。
美魚は気づかないうちに近づいていた。
水に潜って、フィンを動かして、貝に向かって降りていた。近づくほど白さが増した。表面に顔が映るほど滑らかで、美魚は自分の水中眼鏡越しの顔が白い貝殻に映るのを見た。
ポーチの中の鱗が、激しく熱くなった。
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ポーチを開けたのは、熱さに耐えられなくなったからだった。
防水ポーチのジッパーを引くと、中から光が漏れた。ピンク色の光だった。鱗が光っていた。美魚は手を入れて鱗を取り出した。掌の上で、鱗は脈打つように輝いていた。貝に向けると、光が強くなった。
「なに、これ」
美魚の声は水中に消えた。
鱗が手の中で震えた。強く、強く、まるで何かに引き寄せられるように。美魚は握り締めようとした。指に力を入れた。でも鱗は滑らかで、熱くて、美魚の指の間から抜けていった。
落ちた。
ゆっくりと、白い貝に向かって。
美魚は手を伸ばした。届かなかった。
鱗が貝の表面に触れた瞬間、音がした。
音というより、衝撃だった。水が震えた。洞窟全体が震えた。美魚は反射的に後退したが、水の圧力が壁のように押し返してきた。白い貝の表面に、亀裂が走った。一本ではなかった。無数の線が、蜘蛛の巣のように広がって、そこから光が漏れ始めた。白い光ではなかった。金色だった。
白い光が、吹き飛んだ。
音は爆発ではなく、長く押さえ込まれていた息が解放されるような音だった。白い破片が水中に散って、金色の光が洞窟を満たした。美魚は目を閉じた。光が瞼を通して見えた。
光が収まったとき、美魚は目を開けた。
貝があった場所に、人が立っていた。
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男だった。
背が高く、金色の髪が水中で揺れていた。目は青く、海の深いところの色をしていた。顔は美しかった。美しいという言葉が正確かどうか分からないほど、人間の顔の基準から外れた整い方をしていた。服は着ていなかったが、肌に光が張り付いていて、それが衣服の代わりをしていた。
男は目を開けた。
美魚を見た。
一秒も迷わなかった。洞窟の中に他に誰もいないかのように、最初から美魚だけを見ていた。
「いた」と男は言った。日本語だった。声は低く、水を通しても明瞭に聞こえた。「ずっと待っていた」
美魚は後退した。
「待って、私は——」
「逃げなくていい」男は動かなかった。ただ美魚を見ていた。「お前が来ることは分かっていた。鱗が呼んだ。お前の血が呼んだ」
「何を言って——」
男が手を上げた。
海が動いた。
洞窟の外から、水流が変わる音がした。波ではなく、海全体が方向を変えるような、巨大な動きだった。男の周囲に金色の光が集まり、それが水中に広がっていった。美魚は光が自分の肌に触れるのを感じた。温かくはなかった。冷たくもなかった。何かが決まっていくような、取り返しのつかない感触だった。
「お前たちは私のものだ」と男は言った。
その声は美魚に向けられていたが、洞窟の外にも届いていた。
---
悲鳴は聞こえなかった。
水中では声が届かない。でも美魚には分かった。洞窟の外で何かが起きていた。水流が変わり、金色の光が外へ広がり、そして——
美魚は洞窟の入口に向かって泳いだ。
裂け目を抜けると、外の海が変わっていた。水が金色に染まっていた。岩礁の向こうに、人影が見えた。歩美だった。燐だった。三上と真愛も。四人が水中で動いていた。でも動き方がおかしかった。
足がなかった。
足があった場所に、鱗があった。金色と銀色と赤と青の鱗が、それぞれの人の腰から下を覆っていた。尾びれが生えていた。四人は水中でもがいていた。声は出ていなかった。表情は見えなかった。でも手が伸びていた。美魚に向かって。
美魚は泳いだ。
届かなかった。
水流が逆になった。四人を引き込む流れが生まれて、美魚が近づくほど彼らは遠ざかった。歩美の手が見えた。燐が何かを叫んでいた。声は届かなかった。真愛の赤い尾びれが光の中に消えた。三上の青い鱗が暗い水に沈んでいった。
美魚は叫んだ。
声が水中に散った。
その瞬間、何かが美魚の身体を包んだ。金色の光ではなかった。ピンク色の光だった。落とした鱗から来ていた。貝の破片の中に残っていた鱗の欠片が、美魚を包んで、押し出した。
押し出された。
海の外へ。
---
砂が顔に当たった。
美魚は砂浜に倒れていた。波が足首を濡らしていた。空が見えた。青い空に、白い雲があった。太陽はまだ高かったが、傾き始めていた。
美魚は起き上がろうとして、手を見た。
手が、ピンク色だった。
正確には、手の甲に鱗があった。小さな、薄いピンク色の鱗が、皮膚に張り付いていた。剥がそうとしたが、剥がれなかった。皮膚の一部になっていた。腕を見ると、肘まで鱗があった。服の袖をまくると、肩まで続いていた。
美魚は自分の顔を手で触った。頬に鱗があった。
立ち上がった。足はあった。人間の足だった。でも足首に、鱗があった。
浜辺は無人だった。観光客も、漁師も、誰もいなかった。入り江の奥の、人が来ない砂浜だった。波が来るたびに、水位が少し上がっていた。潮が満ちていた。
空を見た。
月があった。
昼間の空に、白い月が出ていた。まだ満月ではなかった。でも丸かった。あと少しで満ちる月が、青い空の中に静かに浮かんでいた。
美魚はその月を見た。
ポーチは失っていた。どこかへ消えた。歩美も、燐も、真愛も、三上も、海の底に引き込まれた。自分だけが砂浜にいた。ピンクの鱗は貝に触れて、いつのまにか鱗が皮膚に張り付いて、波が足首を濡らして、月が空にあった。
美魚は自分の手を見た。
鱗が、光っていた。
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