Synopsis
「拳の偶像」の外伝、新人アイドルの社弥生と会しおりはテレビ番組の肝試し企画に出演することになる。ノリノリのしおりに対して弥生は⋯⋯。
Chapter1
デビューシングル『バトルカーニバル』が、まるで真夏の夜に打ち上げられた大輪の火花のように、チャートの頂点へと駆け上がっていった。その熱狂の余韻は、三ツ葉プロという小さな事務所の、湿り気を帯びた壁の隙間を埋め尽くし、次なる一手の機運を嫌が応にも高めていた。街を歩けば、自分たちの歌声がスピーカーの振動となって鼓膜を震わせ、見知らぬ誰かがその旋律を口ずさんでいる。社弥生にとって、それはかつて拳に込めていた破壊的な衝動とは全く異なる、しかし同様に心臓を激しく叩く、正体不明の熱量だった。人を傷つけた拳が、今は見えない電波に乗って誰かの日常を彩っているという事実は、彼女の魂の奥底に澱のように溜まっていた自己嫌悪を、僅かずつではあるが、確かな手応えを持って洗い流しつつあった。
そんな喧騒の只中、事務所に舞い込んできたのは、季節外れの冷気を孕んだ仕事の依頼だった。
テレビ局の廊下は、複雑に絡み合うケーブルの束が黒い蛇のようにのたくっており、人工的な蛍光灯の光が、行き交う人々の顔を一様に青白く照らし出していた。弥生は、新調されたばかりの、まだ肌に馴染まない衣装の襟元を無意識に整えながら、隣を歩くしおりの様子を盗み見た。しおりは、普段の対人恐怖症が嘘のように、その大きな瞳を好奇心に輝かせ、プロデューサーから渡された企画書を熱心に読み耽っている。その表紙には、血を滴らせたような禍々しいフォントで記されていた
『ドキッ真夏のアイドル肝試し!~曰く付き廃墟の夜~』
弥生の胃の辺りが、冷たい氷の塊を飲み込んだかのように、不自然な収縮を繰り返した。
「……肝試し、か。まぁ、アイドルには付きもんかな。空手で鍛えたこの私が、腰を抜かすような仕掛けがあるんなら、拝ませてもらうよ」
弥生は、わざと声を荒らげ、自分を鼓舞するように笑ってみせた。その声は、会議室の防音壁に跳ね返り、空虚な響きを伴って彼女自身の耳に届く。空手の試合前、対峙する相手の呼吸を読み、重心の移動を捉える時、彼女の心は凪のように静まり返る。だが、今回の相手には「重心」がない。物理的な質量を持たず、正拳突きの一撃を叩き込むべき中心点が存在しない存在。弥生にとって、幽霊や怪異といった非科学的な概念は、彼女がこれまで培ってきた「力による解決」という唯一の生存戦略を、根底から無効化する、最も恐るべき天敵だった。
会議室に入ると、そこには使い古された灰皿の匂いと、安っぽいコーヒーの香りが混じり合った、独特の停滞した空気が漂っていた。番組プロデューサーは、使い古された革の椅子に深く腰掛け、弥生としおりを値踏みするように見つめた。
「いやぁ、カンパニーの二人、乗りに乗ってるね。今回の企画、新人アイドルが本気で怖がる姿を撮りたいんだよ。最近の視聴者は目が肥えてるから、作り物の悲鳴じゃ満足してくれない。ガチの、魂の叫びが欲しいんだ」
番組プロデューサーが、脂ぎった顔を歪めて笑う。しおりは、その言葉に深く頷き、身を乗り出した。
「あの、この廃墟って、本当に出るんですか?私、小さい頃からお化け屋敷とか大好きで……。一度、本物の霊っていうのを見てみたいと思ってたんです。楽しみだね、弥生!」
屈託のないしおりの言葉に、弥生は頬の筋肉がピクリと引き攣るのを感じた。この相棒は、あろうことか、この世の理を超えた恐怖を「娯楽」として享受しようとしている。弥生の脳裏には、暗闇から伸びる実体のない青白い手や、虚空を彷徨う生首のイメージが、抑制の効かない奔流となって溢れ出した。冷や汗が背中を伝い、衣装のインナーをじっとりと濡らしていく。
「ふん、霊だの何だの、所詮は脳の錯覚だろ。もし本当に出たとしても、私の突きで塵にしてやるよ。心配なのは、しおりがビビって腰を抜かして、撮影が止まらないかってことだけだ」
弥生は、テーブルの下で震える膝を、自らの拳で強く押さえつけた。その力みは、彼女の「強がり」という仮面を、より一層硬質で、不自然なものへと変えていた。
その様子を、栗原鈴は一言も発さず、ただ静かに見守っていた。彼女の切れ長の瞳は、弥生の微かな呼吸の乱れ、視線の僅かな彷徨、そして言葉の端々に滲む、隠しきれない脆弱さを正確に射抜いていた。栗原にとって、弥生という人間は、研ぎ澄まされた刃であると同時に、その根底に触れれば容易に砕け散る、極めて繊細なガラス細工のような側面を持っていることを、誰よりも深く理解していた。
「プロデューサー、少し休憩をいただけないかしら。弥生が、少し顔色が悪いようですから」
栗原の穏やかな、しかし拒絶を許さない声が響いた。弥生は、救われたような思いと、見透かされたことへの屈辱が入り混じった複雑な感情を抱きながら、席を立った。
「……ちょっと、トイレに行ってくる。別に、ビビってるわけじゃないからな。気合を入れ直すだけだ」
弥生が会議室の重いドアを閉め、その足音が廊下の彼方へと消えていくのを確認すると、栗原は優雅な所作でコーヒーカップを置き、番組プロデューサーとしおりに向かって、妖艶な微笑を浮かべた。その微笑みは、これから始まる残酷な遊戯を予感させる、捕食者のそれだった。
「プロデューサー。貴方が求めている『ガチの、魂の叫び』、最高の形でお見せできるわよ」
「えっ?どういうことです、栗原社長」
番組プロデューサーが、身を乗り出す。栗原は、声を一段と潜め、悪戯を企む少女のような、しかし冷徹なプロデューサーとしての響きを持って、言葉を紡いだ。
「弥生はね、あの感じだとお化けが苦手みたいね。空手でどんなに強くても、見えないものには無力だって、彼女自身が一番よく分かっている感じがするわ。だからこそ、あんなに必死に強がっているのよ」
「ほう、それは面白い……!」
番組プロデューサーの目に、卑俗な欲望の光が宿った。
「そこで、提案があるわ。しおりを、今回の企画の『仕掛け人』にするの。弥生を極限まで追い詰め、彼女のプライドという仮面が剥がれ落ちる瞬間を、カメラに収める。しおり、できるわね?」
突然の指名に、しおりは戸惑いの表情を浮かべた。
「えっ……でも、弥生を騙すなんて……。そんなことしたら、後で本当に怒られちゃうかも……」
「いいえ、しおり。これは、弥生をアイドルとして成長させるための『試練』よ。彼女は、自分の弱さを他人に見せることを極端に恐れている。でも、本当のスターっていうのは、その弱ささえもさらけ出して、観客の共感を得るものなの。貴女が彼女を追い詰めることは、彼女を救うことにもなるのよ」
栗原の言葉は、甘い毒のようにしおりの心に染み込んでいった。番組プロデューサーも、それに同調するように力強く頷く。
「そうだよ、しおりちゃん!これは番組のためだけじゃない、君たちのユニット『カンパニー』が、更なる高みへ行くためのステップなんだ。弥生ちゃんの、誰も見たことがない表情を、君の手で引き出すんだ。どうだい?」
しおりは、不安げに指先を弄り、視線を落とした。しかし、彼女の心の奥底でも、好奇心という小さな火が、栗原の言葉に煽られて燃え上がり始めていた。弥生が怖がる姿を見てみたい、という無邪気で残酷な、相棒への親愛ゆえの嗜虐心。
「……わかりました。私、やってみます。弥生のためなら……」
「決まりね」
栗原が、満足げに頷いた。その瞬間、会議室の空気が、弥生という一人の少女を供物とするための、緻密な祭壇へと変貌を遂げた。
一方、トイレの個室に入った弥生は、冷たいタイル張りの壁に背中を預け、荒い呼吸を繰り返していた。鏡に映る自分の顔は、自分でも驚くほど蒼白で、唇は僅かに震えている。
(落ち着け……落ち着け、社弥生。相手は実体のない、ただの幽霊だ。足があるわけでも、息をしてるわけでもない。空手の呼吸を思い出せ。丹田に力を込めろ……)
彼女は、何度も自分に言い聞かせた。だが、一度芽生えた恐怖の種は、湿った土壌で急速に根を張り、彼女の理性を締め付けていく。もし、本当にそこが「曰く付き」だったら。もし、しおりが先に何かに取り憑かれてしまったら。もし、カメラが回っている前で、自分が腰を抜かして泣き叫んでしまったら。
自分のこれまでの人生は、常に「強さ」という唯一の価値基準に支えられてきた。父を殺したあの夜も、少年院での荒んだ日々も、彼女は「強さ」という鎧を纏うことで、どうにか自分自身を保ってきたのだ。その鎧が、幽霊などという不確かな存在の前に、いとも容易く崩れ去ることを認めるわけにはいかなかった。
弥生は、洗面台の蛇口を力一杯ひねり、冷水を手に溜めて顔に叩きつけた。突き刺さるような冷たさが、僅かに意識を覚醒させる。
(大丈夫だ。私は、社弥生だ。三ツ葉プロの、カンパニーのYAYOIだ。どんな敵が来ようと、この拳でねじ伏せてやる。お化けだろうがなんだろうが、関係ない)
彼女は、鏡の中の自分を睨みつけ、再び「強がり」という重い鎧を身に纏った。それは、いつ壊れてもおかしくない、危うい均衡の上に成り立つ虚飾の強さだった。
弥生が会議室に戻ると、そこには先ほどと変わらない様子で談笑する三人の姿があった。谷口は、ニコニコと上機嫌で、しおりは少しだけ俯き加減に、栗原は優雅にコーヒーを啜っている。
「お待たせしました。……さっさと打ち合わせを終わらせよう。やるからには、最高の肝試しにしてやるからな!」
弥生は、椅子を乱暴に引き、再び席に着いた。その声には、先ほどよりも一層強い、しかし不自然な決意が籠もっていた。
「ええ、そうね。弥生、貴女のその『勇姿』、全国のファンが楽しみにしているわ」
栗原が、慈しむような、しかしどこか冷淡な響きを伴った声で言った。しおりは、弥生と目を合わせることができず、手元の資料をじっと見つめている。弥生は、そのしおりの反応を「やはり、相棒はビビっているのだ」と自分に都合よく解釈し、密かに胸を撫で下ろした。
「しおり、心配するな。もし怖くなったら、私の後ろに隠れてろ。しおりは私が守ってやる」
弥生は、しおりの肩をポンと叩き、豪快に笑ってみせた。その言葉が、今、自分を嵌めるための罠を共有している相手に向けられたものであるという皮肉に、弥生は全く気づいていなかった。
番組プロデューサーが、詳細な撮影スケジュールを説明し始める。廃墟の入口から入って二人で、ぐるりと廃墟の中を探索するという、弥生にとっては死刑宣告にも等しい内容だったが、彼女は「ああ、望むところだ」と、震える拳を隠しながら、傲慢な態度で頷き続けた。
会議室の外では、夏の終わりの湿った風が吹き抜け、テレビ局の巨大なアンテナが、まるで巨大な墓標のように、夕闇の中に佇んでいた。
弥生の知らないところで、時計の針は確実に、彼女の「聖域」が崩壊する瞬間へと向かって刻まれていた。そして、その崩壊の引き金を引くのは、彼女が最も信頼し、守ろうと誓った、あの「天使の歌声」を持つ相棒であることを、彼女はまだ、知る由もなかった。
「じゃあ、打ち合わせは以上ね。当日は、最高のパフォーマンスを期待しているわよ、二人とも」
栗原の言葉を合図に、弥生は立ち上がった。その足取りは、自分を欺くための虚勢に満ちており、廊下を歩く彼女の背中は、どこか悲劇的なまでの滑稽さを漂わせていた。
会議室に残された三人の視線が、弥生の背中に注がれる。その沈黙は、これから始まる「祭り」の前の、静謐な祈りのようでもあり、あるいは、獲物を追い詰める猟犬たちの、静かな愉悦のようでもあった。
弥生は、廊下の角を曲がる直前、一度だけ振り返った。
「しおり、遅れるなよ。明日からまた、特訓だ」
その言葉に、しおりは小さく、しかし確かな意志を持って頷いた。
「……うん。頑張るね、弥生」
しおりの瞳の奥で、小さな、しかし消えることのない火が、妖しく揺らめいていた。弥生は、それを頼もしい相棒の決意だと信じ、満足げに鼻を鳴らして、冷たい蛍光灯の光の中へと消えていった。
彼女の歩く先には、深い、深い闇が待ち受けていた。
Latest Chapters
月光が、剥げ落ちた壁紙の隙間に鋭いメスのように差し込み、埃の舞う廊下を不気味な白磁の色に染め上げていた。社弥生の視界の端で、その白い影は音もなく、しかし確実に距離を詰めてくる。それは、かつてプロ
アスファルトの熱気が嘘のように、その建物の周囲だけは、湿り気を帯びた重い沈黙が支配していた。かつては人々の命を繋ぎ止めるための砦であったはずの病院は、今やコンクリートの骨組みを晒し、窓ガラスの破
デビューシングル『バトルカーニバル』が、まるで真夏の夜に打ち上げられた大輪の火花のように、チャートの頂点へと駆け上がっていった。その熱狂の余韻は、三ツ葉プロという小さな事務所の、湿り気を帯びた壁







