Synopsis
あるはずのない物が目の前に!
Chapter1
プロペラの回転音が、薄い大気を切り裂いていく。与一は操縦桿を握る手に伝わる微かな振動を心地好く感じていた。高度計の針は四〇〇〇メートルを指している。眼下には、雪を戴いた日本アルプスの山並みが、まるで精巧に作られたジオラマのように広がっていた。
「すごいわ、あなた。あそこに見えるのが槍ヶ岳?」
ヘッドセット越しに妻の声が響く。彼女は窓に額を押し付けるようにして下界を覗き込んでいる。
「ああ、その通りだ。今の季節が一番美しい」
与一は満足げに頷いた。自家用機でのフライトは、松江家にとって日常の延長に過ぎない贅沢だった。後部座席では、中学二年生になる息子の健太が、膝の上に分厚い民俗学の本を広げたまま、退屈そうに窓の外へ目をやっている。
平和な、あまりにも平和な空の散歩だった。
変化は、唐突に訪れた。
前方に、不自然なほど濃密な雲の壁が立ち上がったのだ。白というよりは、鉛色に近い重苦しい塊が、彼らの進路を塞ぐように湧き上がってくる。
与一は眉を顰め、計器パネルに視線を走らせた。気象レーダーの画面は緑一色だ。乱気流も、積乱雲の反応もない。
「ただのガスか……」
彼は独りごちて、そのまま直進を選んだ。計器飛行には慣れている。雲の中を数分も飛べば、また青空が広がるはずだった。
機体が乳白色の世界に飲み込まれる。視界がゼロになる。
プロペラの音だけが、やけに大きく鼓膜を叩く。
その時だ。
「お父さん!」
健太の叫び声が、ヘッドセットを突き破った。
「前! 前!」
与一が顔を上げた瞬間、全身の血が凍りついた。
白い闇の向こうから、ぬっと現れた黒い影。
それは雲の切れ間ではない。
岩肌だ。
ゴツゴツとした、荒々しい岩の壁が、コクピットのすぐ目の前に迫っていた。
「嘘だろッ!」
思考するよりも早く、与一の右手が動いた。操縦桿を限界まで引き、右へ倒す。ラダーペダルを力任せに踏み込む。
機体が悲鳴を上げた。
重力が内臓を押し潰すような圧迫感とともに、セスナ機は急角度で旋回する。
岩肌が、すぐ横を流れていく。
あと数メートル、いや、数センチだったかもしれない。翼端が岩の突起を掠めるような距離で、彼らはその「壁」を回避した。
「キャアアアアッ!」
妻の悲鳴が遠く聞こえる。
与一は脂汗に塗れた手で必死に機勢を立て直した。心臓が早鐘を打ち、喉が干上がっている。
機体は大きく弧を描き、来た道を引き返すようにUターンした。
「なんだ……今のは……」
震える声でそう漏らしながら、与一は思わず振り返った。
その光景は、彼の理性を根底から揺さぶった。
雲の切れ間から、先ほどの「壁」の頂が見えたのだ。
それは紛れもなく、山の頂上だった。
鋭く尖った岩峰が、雲海を突き破るように聳え立っている。
だが、ありえない。
与一は血走った目で高度計を確認した。
針は依然として、四〇〇〇メートルを指している。
日本の最高峰である富士山でさえ、三七七六メートルだ。
四〇〇〇メートルの高度を飛行している自分の機体よりも、さらに高い位置に山の頂があるなど、物理的に不可能なのだ。
「あなた、今の……山よね? 山だったわよね?」
妻が錯乱したように繰り返す。
「僕も見た。岩だった。絶対に山だ」
健太の声も微かに震えている。
見間違いではない。家族全員が、その「存在しないはずの巨峰」を目撃したのだ。
再び雲が厚くなり、その怪物は白い帳の向こうへと姿を消した。
だが、その残像は網膜に焼き付いて離れない。
恐怖が、じわじわとコクピットを満たしていく。未知のものに対する、生物としての根源的な恐怖だ。
「……戻るぞ。空港へ引き返す」
与一は努めて冷静な声を出し、スロットルを調整した。だが、その手は小刻みに震え続けていた。
着陸した後も、松江一家を包む重苦しい空気は晴れなかった。
空港のラウンジの片隅で、与一はテーブルの上に航空路図を広げていた。
何度確認しても、彼らが飛行していた空域に三〇〇〇メートルを超える山など存在しない。
「計器の故障か? いや、GPSも正常だった。高度は間違いなく四〇〇〇だったんだ」
与一は自分の記憶と、目の前の地図との整合性が取れず、頭を抱えた。
妻は青ざめた顔で、冷めきったコーヒーカップを両手で包んでいる。
沈黙が支配する中、それまで黙り込んでいた健太がおもむろに口を開いた。
「……八ヶ岳」
ぽつりと落ちたその言葉に、与一は顔を上げる。
「なんだって?」
健太は膝の上の鞄から、機内でも読んでいた分厚い本を取り出した。『日本神話と土着信仰』というタイトルが見える。
「昔話だよ。これに書いてあったんだ」
彼は特定のページを開き、指先で文字をなぞりながら読み上げた。
「太古の昔、八ヶ岳は富士山よりも遥かに高く、天をも突くほどだった。しかし、その高さを妬んだ富士山の女神、木花咲耶姫と背比べの喧嘩になり——」
健太は一度言葉を切り、父親の目を真っ直ぐに見つめた。
「八ヶ岳は、頭を叩き割られたんだ。それで今の高さになったって」
与一は、息をするのも忘れていた。
頭を叩き割られる前の、八ヶ岳。
失われたはずの、太古の巨峰。
もし、彼らが遭遇したのが、その「失われた時間」の中に存在する山だったとしたら——。
「じゃあ、僕たちが見たのは……」
与一の背筋を、冷たいものが這い上がった。
ラウンジの窓の外には、現代の空が広がっている。
だが彼にはもう、その空がただの物理的な空間だとは思えなかった。
あの雲の向こう側には、地図には載っていない、神代の風景が今も息を潜めているのではないか。
叩き割られる前の、嶮しく、巨大な怒りのような山頂が。
一家は言葉を失い、ただ呆然と、平坦な地図を見つめ続けるしかなかった。







